特別対談「シューマンについて僕が語ること」
今日6月8日はロベルト・アレクサンダー・シューマン(1810年06月08日/ツヴィッカウ-1856年07月29日/エンデニヒ)の誕生日です。僕がコレクションしている数少ないCDの中でも3分の1を占める推しの作曲家シューマン―今回特別企画ということで、自称「シューマニアーナ」であるわたくし新芽取亜が、シューマンについてインタビュー形式で語ってみたいと思います。この度、フロレスタンとオイゼビウスの調停役として知られる「マイスター・ラロ」こと、ラロ楽長にわざわざお越しいただきました。
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新芽:ラロ先生、どうぞよろしくお願いいたします。
ラロ:こちらこそ。早速ですが、シューマンとの出会いを教えていただけますか?
新芽:僕が初めてシューマンの音楽に接したのがいつだったか正確に思い出すことはできませんが、高校生の頃、なけなしの小遣いで買ったピアノ協奏曲のCDが最初だったかもしれません。どこで知ったのかは覚えてませんが、ルプー&プレヴィン盤でした。カップリングのグリーグが目的だったかもしれませんが。最初は地味な印象でしたね―でも冒頭のピアノのフレーズや熱のこもったカデンツァが気に入りました。美術部の顧問の先生がクラシックオタクで、文化祭のとき、展示室のBGMでこのアルバム流したら、先生が聞き入っていたのをよく覚えています。女流ピアニストが弾いてると思っていたらしいですが―。
ラロ:ピアノ協奏曲は、ご承知の通り1841年作曲の「幻想曲」から派生し、シューマンのクララへの愛情がいっぱいつまった、それだけに拘り抜いた音と技法による素敵な作品。是非、拝聴致しましょう―。
シューマン/ピアノ協奏曲イ短調Op.54。ルプーのしっとりとしたピアノをプレヴィン/ロンドン交響楽団が優しく包み込む―。初聴きがこれで良かった。
ラロ:あなたの言うように、とても叙情的な演奏でした。これほどの演奏は滅多に聴けない。感激いたしました―。他にシューマンにまつわる思い出はありましたか?
新芽:そうですね…大したことではないですが、友人の送別会で「トロイメライ」の主旋律だけ弾いたことがあります。ピアノを習ってたわけではないので間違いだらけでしたが、友人は真剣に聞いてくれました。
ラロ:おそらくシューマンの作品で最もよく知られている曲ですね。当時から愛されてましたよ。その頃は随分シューマンを聞き込んでいたんですか?
新芽:そうですね、代表曲は大体聞いていたと思います。交響曲でいえば、バーンスタイン/ウィーンフィル盤の第1番&第4番、ピアノ曲ではアルゲリッチやリヒテルによる「子供の情景」「クライスレリアーナ」「ピアノ・ソナタ第2番」「蝶々」などでしょうか―。そのうち、フルトヴェングラーやアーノンクール、ポゴレリチやアファナシエフ、ウゴルスキといった個性的でインパクトの強い演奏に出会って、ますますのめり込んでいきましたが…。
ラロ:…。
新芽:……。
ラロ:…どうかしたんですか?
新芽:……ええ、僕が一番シューマンを身近に感じさせる出来事がありまして、それが僕自身の恋愛事情だったんです―結局叶わないものでしたが…。その頃は小説にもハマリ出していて、自分の心情を投影させた日記集を『ノヴェレッテン』と名づけ、10冊以上書いてました。当時所属していたサークルを『ダヴィッド同盟』とし、ほかに『エルネスティーネ』や『クララ』などを登場させ、設定以外ほぼノンフィクションで書いていました。
ラロ:…それはある意味とてもシューマン的ですね。不思議な懐かしさすら感じますよ。タイトルも心憎い。今では「ノヴェレッテン」は青春の思い出でしょうね。
新芽:確かに―。でも処分してしまって1冊も残ってないんです。それでも特定のシューマン作品を聞くと、あの頃を思い出すことはあります。
ラロ:ぜひ紹介していただけると嬉しいのですが―。
新芽:わかりました。最初は交響的練習曲です。
ポゴレリチの鮮烈な演奏でどうぞ―。
遺作変奏が含まれていないヴァージョンの演奏。推進力の凄まじさとスローでメランコリックに歌う変奏との対比が実に印象的―。
ラロ:これは凄い。当時のピアニストですら弾かなかったテンポで実に大胆不敵。楽器の違いではなく、明らかに確信犯的で独創的な解釈のピアノですね。
新芽:実はこの演奏、ロベルト&クララの自伝映画の一部で音源として使われているんです、しかもクララが弾くシーンで。
ラロ:ほう、それはまた…。彼女のピアノは確かに決然としたものだったが、これほど個性を打ち出したものでもなく、むしろ作品に奉仕する姿勢を強く感じるものでしたね。
新芽:それは大変興味深いコメントです。現在ではクララの弟子たちの音源がかろうじて残っている程度ですから―。マイスター、実際の彼女の演奏は…その、フロレスタン寄りだったのでしょうか、それともオイゼビウスをより感じさせるものだったのでしょうか?
ラロ:その質問に今は答えないでおきましょう。少なくともこの作品はテーマといい、展開といい、あなたの当時の状況にとてもふさわしい音楽だったことはよくわかります。シューマンの心が逡巡した時期でもあり、エルネスティーネとの破局がクララへの愛を目覚めさせることになったのですから―。
新芽:そういう意味では確かに特別な作品といえそうですね。その脈絡でフィナーレを据えると、クララとの輝かしい未来を予見した、という解釈も可能のように思われます。では次にはクライスレリアーナです。特にその第2曲。アファナシエフ盤でどうぞ―。
12分を優に超えるおそらくは最長タイムの演奏(アファナシエフだから当然か)。当時を思い出すせいか、今では所有していないCDである。
ラロ:実に濃厚な演奏ですね―シューマンが削除したリピートも実行されていて。これほどのピアノの透明な響きは当時では決して得られない、夢のような演奏です。これほど遅いテンポも初めてですが。
新芽:そうですね。リリース当初、衝撃を持って迎えられたアルバムでした。特に第1曲の出だしに愕然としました。せっかくなのでそちらもどうぞ―。
この突然の始まり、感情の渦に巻き込まれる感覚は他では味わえない。
ラロ:力強いピアノですが、さほど衝撃は感じないですね―そもそもこういう作品ですよ、気がついたらもう音楽が始まっている感覚。「感情の渦に巻き込まれる」という表現は適切ですね。聴いたところ、スコア通りに弾かれているようですし。わたしとしてはもう少しさりげなく始まるのに慣れてしまっていますが。
新芽:そうなんですね―。もしかすると多くの演奏はためらいを隠せないのかも。僕がこの極端な感じ、過剰な雰囲気に魅せられてしまったのは、さきほどの事情が大きく影響しているのだと思っています。
ラロ:「出会い」とは、在るべくものとして生じているのでしょう。あなたが「シューマニアーナ」を自認するのも当然のような気がします。
新芽:もう1曲だけ、外せない作品があります。「マンフレッド」序曲です。フルトヴェングラー/ベルリンフィル盤で聴いてみたいと思います―。
何度聴いたかわからないほどの演奏。序奏から身動きが取れなくなる。
ラロ:これは…何というオーケストラの音!まるで慟哭そのものだ。シューマン自身の指揮ですら、これほどではなかった―彼が聴いたらきっと「我が意を得たり」と喜ぶことでしょう。
新芽:さきほどの日記の中でも、僕がこの曲のリハーサルをする場面を書いたんです。冒頭の和音で終わってしまうんですけど…。シューマンの管弦楽作品の中で一番好きで最も多く聞いたものかもしれません。
ラロ:あなたが選んだ3曲はどれも短調でデモーニッシュな作品ばかりでしたね。青年期特有の感情そのものに寄り添ったものだったのでしょう。わたしとしては、若き日のヨハネスを思い起こします。
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ラロ:あなたが最も惹かれるシューマンの魅力とは、いったいどういうのものなのでしょうか?
新芽:言語化するのが難しいですね―。理屈抜きで好き、で済むのなら簡単なんでしょうけど。
ラロ:シューマンの生涯や人となりは関係していますか?
新芽:実はその点ではそれほどでもないのです。もし僕の身近にロベルトがいたら、積極的に関わっていたかどうか自信がありません。音楽は途方もなく好きなのに。よくロベルト&クララはおしどり夫婦のようなイメージで捉えられがちですが、クララの気苦労の方に気持ちを持っていかれてしまっているせいか、素直に喜べない自分がいるのです。と同時に大きな子供のようなシューマンと生涯を共にできたのはクララしかいなかったのも事実でしょう。
ラロ:率直な意見ですね。わたしも分からないわけではありません。
新芽:シューマンに関わる多くの書籍を読みましたが、読むたびに感じることです。その中でもとりわけ僕の興味を惹いたのは、時折話題になる精神障害のことです。はたしてシューマンの陥った狂気とはどのようなものであったのか、現実レベルでどれほど音楽に侵食していたのかを常々知りたいと思ってましたが、病名や死因は明らかになっているものの、僕の中では腑に落ちない感じがしています。また、伝記等に載せられている手紙の内容などから、シューマンは現代でいうHSPにも相当すると個人的に感じています。
ラロ:わたしを含め、フロレスタンやオイゼビウスを生み出したのはシューマンその人でしたからね。あなたはわたしたちの存在をどのように捉えていますか?分裂症の一環だとお思いですか?
新芽:お気を悪くしないでもらいたいのですが、便宜上生まれた存在だと感じています。新音楽時報において多角的な視点が求められた所以でしょうが、面白いのは音楽にも反映されていることですね。今聴くことのできる殆ど全てのシューマン演奏はフロレスタンかオイゼビウスか、そのどちらでもないか、のいずれかのものです。両方を存在させた演奏はほとんど聴いたことがありません―仮に近づけたとしても50:50でしょう。でもその演奏はつまらなく響きます。100:100でなければなりません。そしてそれは常人には不可能なのです。
ラロ:わたしはフロレスタンとオイゼビウスの「調停役」として存在していますが、音楽の中ではお役御免です。シューマンの過剰なイマジネーションにわたしのいるスペースはないのです。彼は2つの境目をまるで部屋を移動するようにたやすく行き来しました。
音楽は彼の喜びであり苦しみでもありました。不思議なのは、彼にはそれが分かっていたはずなのに何の防御策も講じなかったことです―強いて言えばバッハの研究くらいでしょうか。そして晩年には彼が最も恐れていた感覚―無感覚―に捉われてしまいました。わたしたちの声の届かない「異国」へ、彼は旅立ってしまったんです。わたしには何もできませんでした。
新芽:「ても胸が痛みます―。しかし僕にとってはその苦痛もなくなってしまった中で生まれた音楽に極めて惹かれるのです。僕が精神分析や心理学、あるいはオカルトに関心がある以上に、その音楽に惹かれます…。
ラロ:あなたが何の曲を思い浮かべているか、わたしにはわかるつもりです。
「主題と変奏」変ホ長調。僕は「天使の主題による変奏曲」「精霊の主題による変奏曲」というタイトルのほうを好む。このクン=ウー・パイク盤は最長で16分かけて演奏している。
ラロ:わたしが当時聴くことができなかった作品です。わたしにはクララの気持ちが痛い程よくわかります。とても冷静には聴けないですね…。
新芽:マイスター、取り乱させてしまって申し訳ありません。ですが、この曲には微かな希望を感じます。気のせいでしょうが、音楽そのものが持つ永遠性にシューマンが救われているような思いがするのです。
ラロ:あなたの見立てを信じることにしましょう―。ところで、先ほどの質問の答えをまだ頂いていないのですが…。
新芽:直接的には。少し答えが纏まってきました…そうですね、暗い情熱が渦巻く音楽性がこの上なく好きですね。複雑に入り組んだぎこちないフレーズも、最初は?と思いましたが、実に独創的。ここでしか聴けない音楽ですね。そして陶酔的。まさにロマンティック。彼は形式を重んじたようですが、あふれるロマン性を抑制していない。そこがいい。それゆえ時折聞こえる軋轢も―器から中身が溢れ出すように。シューマンと同時期の作曲家はみなロマンティックだった、ともいえますが、持論では真のロマンティシズムがみられるのはシューマンだけのような気がしています。
ラロ:後世の人々が据えた「ロマン派」というカテゴリーは、当時では常識的な価値観でした。何も珍しいことではなかったのです。もちろん流派のような違いは存在していましたが、実際はあなたがたが想像しているほど苛烈な対立関係ではありませんでした。シューマンの死後の方が酷かったかもしれませんが。それはそうと、あなたはシューマンにみられるロマン性をどう受け止めておられますか?
新芽:一般的にロマンティックというと、陶酔的な愛の表現や憧憬などが思い浮かびますが、真のロマンティシズムにはそれらと相反するダークサイドの部分が含まれ、時に交錯し入り混じる感覚や感情が関係しているように思えるんです。精神の暗部を見つめたり、病的でどす黒かったりする―。確かに他の作曲家、例えばベルリオーズやショパンの作品には怪奇性や病的な雰囲気がありますし、リストは悪魔的と呼ばれたりもする。それでもシューマンの場合は混ざり具合の濃度が違う。そこは狂気のなせる業のような気もする。精神の均衡を損なう状況で作曲し続けることをシューマンが本心で望んでいたかどうかは別ですが―。最近は後期の作品の再評価が進み、その独特の美しさに注目する機会が増えています。当時はあまり芳しくなかったようですね―。
ラロ:そうですね。ピアノ三重奏曲第3番などは、クララですら言葉を濁してしたほどです。執拗な反復が目立つようになり、それが異様に感じられたのかもしれません。本当は何も後期に限ったことではないのですが…。わたしは、交響曲第2番あたりから逡巡するようなフレーズが登場してきたように感じています。その時期はシューマンの身近で不幸が重なり、それがトリガーとなって精神疾患の兆候が明確になった時でもありました。
新芽:兆しはもっと早い時期からあちこちに見られていたように思います。遺伝的傾向から考察している学者もいるようですが。さきほどの執拗な反復については、僕は心的状態の鈍化というよりもシューベルトの音楽との類似性を感じます。シューマンが発見した「グレイト」交響曲にもその特徴は顕著であり、魅力でもありますから。それと、後期の作品は中低域の音域が充実しています。まるで人の声のようで、シューマン自身が語っているように感じられます。
ラロ:わたしは自然の成り行きだと思っています。若い頃の作品が高音域が多くキラキラしてるのは当然で、後年になるにしたがって、音域が限定されてくる…老いのようなものです。当時の平均寿命は40歳ほどでしたからね―現在から据えると若すぎるでしょうが。音楽に話を戻すと、後期作品ではフロレスタン&オイゼビウスという性質だけでは捉えられなくなってきたように思われます。言ってみれば「彼ら」の不在を感じます―だからといってわたしが活躍しているわけでもない。あの2人あっての「わたし」ですから。そういう意味では正直複雑な心境でもあるのです。
新芽:やはり彼の心は早くも『異国』へ旅立ってしまったのかもしれませんね―。今の僕の心境としては、作曲時期に関わらずシンプルに音楽の美しさを享受していればよいとも思ってます―リスナー視点ですが。ある意味シューマンには厨二病的な感じすらありますが、僕は好きですよ。もしシューマンの時代に戻れるとして、僕ならそれなりに生きてゆけるかもしれない気がするほどです。
ラロ:そうですか―。もし望むのでしたら…。
新芽:…いえ、やめときます。
クララやヨハネスの演奏を実際に聴きたい誘惑はかなり強力ですが…。それはそうと、実際はどうだったんでしょうか―クララの演奏は。
ラロ:この時代で資料が限られているのなら、それに倣うまでです。あなたの想像にお任せしますよ。素晴らしかった、とだけ付け加えておきましょう―。
新芽:それ、答えになっていないですよ。
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ラロ:シューマンの130曲以上ある作品の中で、今1曲だけを選ぶとしたら何を選ばれるでしょうか?
新芽:(しばらく考えてから)そうですね…ヴァイオリン協奏曲でしょうか―。
ラロ:ほう、わたしが試演でしか聴けなかった曲です。結局ヨアヒムが断念してしまったので。
新芽:そうでしたね。政治的要素やオカルティックな要素も相俟って、20世紀にようやく初演された曰く付きの作品となってしまいましたが、僕は全てのヴァイオリン協奏曲の中で最も好きな曲として挙げます。
ラロ:あなたをそこまで魅了するものが、この曲に含まれているようには思えないのですが…。
新芽:無理もありません。あのチェロ協奏曲よりも渋く、演奏効果は期待できない。ベートーヴェンの協奏曲をリスペクトしていることは伝わってくるが、あまりにも鈍重で、しかもカデンツァがない。しかし第2楽章にさきほどのテーマが…。
ラロ:シューマンが最後の変奏曲を書くに至った経緯で、よく触れられる内容ですね。当時は知りもしませんでしたが。早速聞かせていただけるでしょうか―。
ピリオド・アプローチのファウスト&エラス=カサド盤。現在最有力盤。
ラロ:当時の響きに近い気がするが、これほど整然と聞こえるのは稀なことです。やはり前評判通り、ベートーヴェンの協奏曲っぽいですね。形式も似てるし。ただ、お蔵入りにしたくなる気持ちもわからなくはない…。
新芽:現在でもベートーヴェンやメンデルスゾーンの協奏曲ほど頻度は多くないですが、再評価が進んで演奏される機会が増えてきました。聞く度に味わいが増します。第1楽章には大地を見つめるような慎重さと覇気が、第2楽章では暫しの憩いが、アタッカで繋がる第3楽章には、祈りが昇華した踊りが聞かれます―。もっとも演奏によって印象が左右する面もあるかもしれません。シューマンにしては珍しいことかもしれませんが。
ラロ:今の時代だからこそ、注目されたのかも知れませんね。
新芽:逆にお尋ねしたい。マイスターならどの曲を選ぶのかを。
ラロ:想定外の展開ですね。
「ダヴィッド同盟舞曲集」~第9曲と第18曲。第1部と2部の終曲である。アナトール・ウゴルスキの演奏は大胆さと繊細さに満ちている。
新芽:これを選ばれるとは…。でもマイスターらしい気もします。
ラロ:ご存じのように第9曲には「ここでフロレスタンは口をつぐんだ。すると、彼の唇は苦痛で打ち震えた」、第18曲には「まったく余計なことに、オイゼビウスはさらに次のことを加えた。しかしその時、彼の目には多くの幸運が浮かんでいた」という記述が初版には載せられていました。わたしとしても、これらが冒頭のエピグラフと共に削除され、第2版が制作されるとは夢にも思っていませんでしたから、多少戸惑いましたよ。ただ、この頃のシューマンは若い頃の作品を次々と改訂してましたから、その流れで整えられたのでしょう。
新芽:現在では初版が顧みられ、演奏&録音される機会が多くなりました。中には作曲家の最終判断を踏み越えると見做す向きもあるようです。マイスターのご意見を聞きたいのですが…。
ラロ:一概には言えないところがあります。ヨハネスはシューマンのニ短調交響曲の初稿版をえらく気に入っていて、クララの反対を押し切って出版にこぎつけたほどです。身内としては心外なことなのかもしれませんね。あなたはどうですか?作曲家の意向を何よりも尊重されるスタンスですか?
新芽:僕はそこまで厳格な原理主義者ではありませんよ。リスナーとして好奇心を優先します。もし僕が演奏家だったら、より深く考えなくてはならないかもしれませんが、その予定も才能もないので、気楽なものです。せっかくなのでその交響曲を聞きましょう。
ホリガー盤による演奏。僕の所有盤である。
ラロ:この曲が作曲された1841年はシューマンが最も幸せだった時かもしれない。懐かしい作品だ。わたしもこちらの方が好きですね―若さに似合う勢いと大胆さが感じられる。初版といってもロマンツァにギターは入っていないんですね。あのアイディアは面白かったんだが、シューマンは結局採用しなかった―惜しい気がする。わたしとしては、もっとはじけてくれても良かったんだが…。
新芽:実は最近になって、ギターが控えめに挿入されたヴァージョンの演奏盤を入手したので、今月中にブログに上げるつもりでいました。
ラロ;それは興味深いです―。その時は是非拝見させていただきます。
新芽:新音楽時報に転載しなくても結構ですので。
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新芽:このニ短調交響曲は確か、クララの誕生日にシューマンが捧げた作品でしたね。
ラロ:その通りです。作曲家たるもの、こういったプレゼントは最高の愛情表現だったのかもしれません。現に多くの作曲家が大切な人に作品をプレゼントしています。当時ではクララが最もこの種のプレゼントを貰っていたかもしれませんね―シューマンからはもちろん、ヨハネスからも。
新芽:シューマンは数多くの作品をクララに捧げていますからね。弟子のブラームスもそれに倣ったかのように、シューマンほどではありませんが作品を彼女に献呈しています。クララとブラームスというと、よく取り沙汰される噂がありますが、マイスターはどのようにお考えですか?
ラロ:少なくとも根拠がない噂です。陰で囁く者は皆無ではありませんが、わたしの知る限り聞いたことがありません。わたしはよくメンデルスゾーンと姉ファニーのことを思い起こます。クララとヨハネスとの関係もこのようなものだったとわたしは感じています。私淑してたのは事実でしょうが、持ち前の抑制力でお互いが一線を越えることは無かったとほぼ確信しています。それがヨハネス・ブラームス、そしてクララ・シューマンという人そのものだからです。
新芽:思えば、姉ファニーの急逝ののち、彼女を追うようにメンデルスゾーンはこの世を去りました。そしてクララの死後、ブラームスもまた…。ただ、僕には気になることが1つだけあります。クララが後年破棄してしまった幻の作品についてです。
ラロ:…「チェロとピアノのための5つのロマンス」のことですね…。
新芽:ええ。その破棄を促したのがブラームスであるという情報もあります。妄想豊かな人々は、証拠隠滅の可能性を見出しているようです。あなたは作品の存在を知っておられたようですが…。
ラロ:知らないといえば、噓になります。ただ、シューマンはこれについて明確な情報を残しませんでした。わたしはシューマンの意向を尊重する立場にいるのです。
新芽:シューマンの最期の言葉―『僕は…知っているよ』―は、謎を解くカギとなるでしょうか?
ラロ:「謎」は謎のままにしておかれるのが最善でしょう。すべての事象に光を当てて解明しようとするのは、必ずしも良いことばかりではありませんから。
新芽:新発見でもない限りは…ですね―。さて、ここでお聞きいただきたい曲があります。ワーグナー/ジークフリート牧歌です。本当はホリガー/ロマンセンドレスにしようかと思ったのですが、マイスターの意向に敬意を払い、こちらにしました。
ラロ:ご配慮有難うございます―。
妻コジマの誕生日に捧げられた作品。オリジナルの室内楽版で―。
ラロ:シューマンとワーグナーは確かに相性は悪かったですが、ワーグナーの才能は認めざるを得なかっただろうと思っています。ある種のジェラシーすら感じていたかもしれません。でもシューマンがこの微笑ましい作品を知っていたら、手放しで賞賛すると思いますよ。
新芽:ワーグナーは当日の朝、階段に奏者たちを配置して演奏を開始、知らされていなかったコジマと子供たちはとても驚き感激したそうです。まさにサプライズ。シューマンも喜んでやりそうなアイディアです。
ラロ:大切な人への想いはジャンルを超えて誰しもに共通しているもの―素敵な作品であり演奏です。
新芽:シューマンはクララに多くの作品をプレゼントしましたが、クララの方はどうなのでしょうか?
ラロ:もちろん、機会あるごとにプレゼントしていたようですよ。関係が深まり、コンサート・ピアニストの活動が活発になってきた時は、ロベルトの作品を情熱的に演奏し「シューマンの音楽の伝道師」となることによって、ロベルトへの愛を実証していきました。クララがロベルトの誕生日にプレゼントした作品をこれから聴いてみましょう―。
ピアノと管弦楽のためのコンチェルトシュテュック ヘ短調 (1847)
「ロベルト・シューマンの主題による変奏曲」Op.20 (1853)
3つの「ロマンス」Op.21~第1番イ短調 (1853)
新芽:最初の協奏曲断章は興味深い作品ですね。ブラームス/交響曲第1番 (1855-76) を彷彿とさせるテーマとオーケストレーションが聞こえます。クララは確かこの前にもピアノ協奏曲をロベルトに手伝ってもらって完成していましたね。
ラロ:この度は自分1人で―と思ったのかも知れませんが、残念ながら完成には至りませんでした。今回聞いたのは補筆完成されたヴァージョンのようですが、クララ自身の作曲で聴きたかったですね。ブラームスとの関連は興味深い。作曲された当初はまだ出会っていませんが、後のヨハネスが知らないとは思えないので、着想の一部になっていたと想像できます。
新芽:2曲目の変奏曲は言わずもがな、ですね。僕も大好きな作品。クララの作品の中でも最も頻繁に演奏されるものかもしれません。以前この作品についてはブログに書かせていただきました。いずれ弾けるようになったら弾いてみたいものです。
ラロ:1853年のこの時が、最後に祝ったシューマンの誕生日となってしまいました。彼女は日記にこう書き記しています―。
この作品にはリスト/ピアノ・ソナタ ロ短調の一節も引用されて、ピアニスト・クララのリストに対するリスペクトも感じられます。
次の3曲目も同じ年の誕生日に贈られたものと考えられていますが、楽譜によっては献呈先の記載が異なるようです。作品全体はブラームスに捧げられているからです。この第1曲のみ「ロベルトの誕生日に」という記載が見られるとのことです。
新芽:クララはロマンスを多く作曲しましたね。イ短調という調性もロベルトそのもの。彼女にしては少し激情的で苦しい表情が聞こえます。やはり状況が状況だったからでしょうか―。イ短調はシューマンの作品に実に多く見受けられますが、実は、僕が最もシューマンらしいと思う調性は変ホ短調なのです。ケルンの大聖堂やライン河の暗い流れのイメージです。マイスターのご意見はどうですか?
ラロ:わたしは「イ短調-ハ長調」ですね、やはり。シューマンにとっては「C-major」は特別でした―愛するクララの頭文字ですから。同時にA音の幻聴に苦しめられたというのも象徴的です。
新芽:思えば、3曲とも短調作品でしたね。
ラロ:あなたもそうだったじゃないですか―。
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新芽:長いインタビューでしたが、終盤を迎えるに至りました―。お付き合いいただきありがとうございました。お2人にもよろしくお伝えください。
ラロ:こちらこそ、楽しいひと時をありがとうございました―。ところで、最後に1つだけ、あなたにどうしてもお聞きしたことがあるのですか…?
新芽:何でしょう?
ラロ:…あなたは一体誰なのですか?
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… Ich bin Schumann