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「恋愛は中世の発明」恋愛制度、束縛の2500年【読書感想】

「愛、それは 12 世紀の発明である」

C. セニョボス

われわれが理想の恋愛とは何か?と問われたら「心から通じ合う人と結ばれる」と言った精神面を条件にする人は珍しくないだろう。だが、実は精神性と個人同士の関係を重視する恋愛観は、時代や地域を越えた普遍的な概念ではない。現代につながる恋愛の形は中世、南フランスの宮廷からと言われる。

中世の宮廷では何が起きていたのだろうか?

騎士の徳と精神的な恋愛

結論としては、中世の恋愛観は貴族の間、もっと言うと騎士道の恋愛である。その特徴は身分違いの愛であり、女性の方が立場が上だ。そして肉体的な色恋沙汰を離れて、精神的な恋愛が大事だと強調した。当時は画期的な価値観でもあった。

この思想はキリスト教の影響を明らかに受けている。キリスト教では肉体的な性愛は罪で、獣のレベルの欲望であり、人間は理性を持った存在であるべきだからだ。キリスト教にとって理想の愛は神の人間に対する愛、すなわち「アガペー」であり、これに性欲は含まれない。

さて、中世フランスは封建的社会であり、王や大貴族が上に立ち、その下の領主が騎士を雇うというピラミッド構造。そして貴族の結婚は政略結婚だった。現代より紛争、領地の奪い合いは頻繁に起きるため、結婚は貴族同士とのつながりを示し、大貴族とのつながりを保つ重要な政略。貴族の娘に生まれたら自由な結婚などあり得ない話であった。へぼ貴族と結婚しようものなら一族が滅びるかもしれないのだ。

従って、年齢が20以上離れていたり、幼いころから嫁ぎ先が決まっていたり、全く心が通い合わないということも、珍しくはないのであった。

こうした状況の結婚生活において、領主の男性などは遠征などで城や領地を長期間開けることも珍しくない一方で、残された美しく(?)若い妻はお茶会、会食やダンスなどをしていた。そこに城を護る下級騎士たちが群がる。この下級騎士と言うのは貴族の三男坊だったりするのだが、若い男女の距離が近ければ間違いが起こらない方が難しい。それは古今東西似たようなものだ。

しかしながらそれは禁断の恋であり、命懸け。騎士だけでなく、貴族同士の関係に危機をもたらした妻だって殺されても文句は言えない。

そこで「精神的な恋愛」という概念が発達することになる。下級騎士が身分の違う領主の妻に憧れても、惹かれても大丈夫。なぜならそれは肉体的な愛を超えた精神的な愛だから。家臣として身分が高い女性に尽くすこと、命を賭すことで、忍耐力や忠誠心の成長にもつながる。主従関係に加えて、恋愛について厳しいルールがある中で「精神的な恋愛」が生まれ、それこそが真の愛だ、ということになっていく。この精神的な恋愛は性欲が絡まなければ、キリスト教との価値観においても問題がないものであったようだ。


エドモンド・ブレア・レイトンの「騎士号授与」
アーサー王伝説からインスピレーションを得たとされている
レイトンが描いた王や王女のロマンチックな物語はとても人気であり
これこそが中世宮廷恋愛のイメージであったと言えるだろう

恋愛観の革命

こうした騎士道恋愛は、領主も受け入れていたと思われる。というのも、騎士の質、兵士の質が国力の差につながる時代、決して裏切らず勇敢で忍耐力がある騎士は重用されていたからだ。実際、騎士道は”徳”として称揚されるようになる。このように中世に生まれた恋愛は、ヨーロッパの封建制や戦争の歴史が大きな影響を与えたものだと言える。ただし、決して肉体的に結ばれてはいけない上に命懸け、なかなかに絶望的でもある。

ところで、ローマ帝国でも戦争が多く、そうした時代の恋愛観では女性は男性の戦利品のような扱いであった。中世ヨーロッパでは当初、こうした恋愛観がベースとなっていたはずだ。

ところが、騎士道の世界においては女性は神格化され、崇高な存在となる。あるいは聖母マリアの位置に意中の女性が置かれる、と言ってもいい。これは革命的な価値観の変遷だ。

実際のところは女性はトロフィー扱いで主導権は男性だったのかもしれないが、ともかく表面的には女性の立場が上だった。事実、当時の恋愛物語は女性の”無茶ぶり”に応え、ドラゴンを倒すとか国一番の豪傑を決闘で倒すとか、そんな難題を下級騎士がこなしていた。こうした無理難題をこなすことで、騎士としても成長していく流れが王道だ。

結婚の否定も革命的だった。現実的な要請として、生存戦略であり、一族の純粋性を守り、後継を作り育てるシステムであった当時の結婚に、中世的恋愛観はNOを突き付ける。周囲の状況や経済が理由で相手を好きになるのではない。それは世俗の論理であり、恋愛はもっと崇高なもの、理性の世界の話だ、と言うわけだ。

皮肉なことにこの通りであれば、真の恋愛=婚外恋愛=浮気(不倫)という図式が成り立つ。ここでは割愛するが、こうした考え方が周囲の風潮や経済的状況に左右されない、西洋の個人主義を加速させることになったのだ筆者は述べる。

ちなみにこうした騎士道物語の普及に貢献したのが吟遊詩人(Troubadour:トゥルバドール)だ。Youtubeで現代のミュージシャンが当時のトゥルバドールの弾き語りを再現していたりするので、時間があれば一度聞いてみよう。


古代ローマの恋愛

古代ローマは紀元前2世紀ころには当時の大国ギリシャを制圧した。非常に軍事的には強い国だったのだが、文化面では哲学や数学などに優れていたギリシャに比べてかなり低水準だった。

ギリシャの文化を輸入しつつ土着の文化と融合させ、現代の西欧の文化の礎になっている古代ローマだが、その雰囲気はいささか粗暴なところがある。とは言え1000年続いた帝国であり、一言で恋愛観を語ることは難しい。

強いて根底にあるものを挙げるとすると、愛の神ヴェヌス、いわゆるヴィーナスになるだろう。これはギリシャのアフロディーテと土着の豊穣神が混ざり、次第に豊穣だけでなく、人の結びつきや出産を司るようになったと言われている。


ヴィーナスへの奉献
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ

繰り返すが古代ローマの歴史は1000年もあるのでまとめるのは難しいが、そんな腰の引けたことを言っていても始まらないので強引にまとめよう。

古代ローマの恋愛観は、女は強い男がゲットする、と言うものが基本だった。この世は戦場。女が欲しければ奪い取れ。

また、「愛」の中にわれわれが意識する「恋愛」と言うのはあまりなく、基本は肉体関係が伴っていたようだ。


サビニの女たちの略奪
ピエトロ・ダ・コルトーナ

「サビニの女たちの略奪」というローマ建国神話がある。国に女性が不足して滅亡の危機に陥ったから、隣国サビニから女性を略奪して子供を作り、そして国が亡びるのを防いだ。

身も蓋もないことを言うと、建国時点からローマは略奪とレイプで成り立っている。サビニの女たちの略奪は、ローマ人の大胆さや勇気、そして女性の受難を表現できる題材として後世で人気だったという。

オウィディウスという詩人が書いた「恋の技法」という恋愛指南本があり、当時に高い評価を得ている。

現代の感覚では驚くべきことだが、恋の技法には、女性からの「アプローチしてこないでほしい」というサインは無視すべきというメッセージや、過度なスキンシップを推奨するような表現がある。

女が接吻を与えてくれなかったら、与えられないものは奪ったらよかろう。はじめのうちはきっと抗って「失礼な人ね」と言うだろう。だが、抗いながらも、女は征服されることを望んでいるのだ。

恋の技法

ただ、女はモノだと説く一方で、オウィディウスは同時にキスする女性には優しくしなさい、とアドバイスする。

ただ、乱暴に接吻を奪って柔らかい唇を傷つけたりしないように。手荒な接吻だったと彼女が文句を言ったりしないようにすることだ。

恋の技法

これは当時からすると斬新な心遣いだった。女なんてモノだから強引に奪えばいい。けれどもその強引さには優しさが伴わなければならない。「柔らかい唇」という表現からは女性崇拝すらくみ取れる、と鈴木氏は述べる。実際オウィディウスの本には女性蔑視と女性崇拝が交互に現れる。奴隷制が残っていた時代に、こうした本が人気を博したことは興味深いことだろう。

ローマの奴隷制では、奴隷が人口の3/4を占めていた時期もあった。市民はとにかく配給があるから食事には困らず、奴隷の剣闘士の殺し合いを観て楽しんだりもしていた。

一方、貴族の間では結婚はやはり政治的な道具であり、浮気は相手を殺してもよい重罪であった。奴隷の中から愛人を選び、愛人側もうまくいけば解放奴隷の立場を得られるチャンスがあったようだ。「淫乱」というのは貴族の間では蔑むべきことだが、奴隷にとっては美徳であったとされているという。

単にローマは「男性中心、女性はモノだった」と表現することもできるかもしれないが、実際には女性崇拝や恋愛への憧れのような現代的な感覚も見て取れるのであった。





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