見出し画像

みずほのシステム統合と障害の歴史を振り返る #1 戦略の無い統合

みずほ銀行の勘定系システムは、そのあまりの開発期間の長さから「IT業界のサグラダファミリア」と揶揄されてきた。いつまでも開発が終わらないスペインの世界遺産サグラダファミリアになぞらえたものである。


サグラダファミリア
こちらは1882年から開発が続いているが、ついに2026年に完成予定らしい

東日本大震災の義援金講座がパンク」「ATMが通帳を飲み込む」などで大々的に報じられたので、IT業界や金融業界の人でなくとも、「みずほがシステムでやらかしている」くらいの認識はあると思う。

そんなみずほ銀行のシステム統合の歴史について書かれた本2冊と適宜、調査報告書を読んだので、いくつか内容を抜粋しつつ思うところを書く。

▼2021年のシステム障害の報告書
https://www.mizuho-fg.co.jp/release/pdf/20210615release_3_jp.pdf


①戦略の無い経営統合から失敗は始まっていた

みずほ銀行は統合からしてややこしい。

大手都市銀行であった第一勧業銀行および富士銀行、並びに長期信用銀行業界の雄であった日本興業銀行の三行が2002年に経営統合したことによって構築されたが、この時にみずほ銀行とみずほコーポレート(以下、みずほCP)銀行の2銀行に分かれた。(2013年にみずほ銀行1本になった)

その統合にどのような戦略があったのかは定かではないが、とりあえずはみずほ銀行の勘定系は第一勧業のシステムに寄せた「STEPS」を、みずほCPは興銀のシステムに寄せた「C-base」を使うということになった。

3つの勘定系を2つに構築し直す判断自体は間違いではないかもしれない。だが、三菱東京UFJと三井住友が段階を踏んで、2つの銀行を1つにまとめる形だったのに比べて、3銀行同時の合併は難易度が高いことは伺える。

さらに「三銀行の企業規模や実力が拮抗していたこともあってシステム統合の難しさは群を抜いていた」と本書は指摘する。少なくともシステム統合においては、発言力が強いプレイヤーがどんどん決めた方が、禍根は残るにしても意思決定をスムーズにできる。そういう意味でも困難だった。


②現場任せ。決まらない要件定義。不毛なシステム比較合戦

統合時の記者会見で経営陣は「ITへの投資」を連呼していた。「日本の銀行はITへの投資は少ない。米国のIT投資に追いつくために統合した」とまで言ったという。理屈としては各銀行のシステム統合により重複投資を排除して、節約した分をマーケティングなど戦略的なIT投資に回すという話だ。

いやいや統合はそんな簡単なもんじゃないよ…とシステムについて多少なりとも知識がある人ならこの時点で分かると思う。業務のシステムは商品の受注、在庫確認、出荷といった一連の業務に合わせて必要な情報を処理するように作られている。

合併する場合はシステムの内部的な設計やプログラム、データを揃えるだけでなく(これもかなり大変だが)各社の情報システムで扱う商品名や在庫情報と言った業務フローも調整しなければいけない。そこまでわかっていたのだろうか?

実際、経営陣は強気な口調とは裏腹にITを軽視していたようである。彼らはITについてほぼ無知であり、統合当時、経営陣にシステム畑を歩んでいた人はいなかった。

また、CIO(最高情報責任者)は新たな組織図になく、記者の「CIOがなぜいないのか?」という質問にまともに答えられない有様だったという。さらに、「具体的なシステム統合と戦略システム開発のスケジュールはこれから検討する。システム統合に速やかにレビューに取り組むようにシステム部長に指示してきたところです」と現場任せであった。なんとも張りぼてのIT重視である。

経営陣はおそらくだが、ITに金を出すつもりはあったのだと思う。だがITはあくまで技術の問題という認識であり、経営者である自分たちが技術について学ぶつもりも、リーダーシップをとるつもりもなかった。

その結果が現場への丸投げである。統合前から、三銀行が集まって「統合準備委員会」なるものを作り、各銀行出身者のシステム部門の代表が出席して議論を戦わせた。その結果、統合の意見はまとまらなかった。

③なぜ現場任せでは統合できなかったのか?

当然だが、どこの銀行も自社のシステムを残したい。愛着があるとか社内の政治競争で優位をとりたいという思惑もあるだろうが、もっと単純に自社のシステムが残らないと情報部門や関連ベンダーの仕事がなくなる恐れがあったからだ。

第一勧銀の杉田頭取は「当行の勘定系を必ず残すように」と現場に指示していたとされる。

第一勧銀は富士通製のハードやソフトを勘定系に使っており、富士通のメインバンクでもあったため、譲れない。富士通や関連ベンダーに2000人近くが関わっていたとされ、これらの失職は避けたいところだった。

富士通は当時金融再編の中で大手銀行の顧客を次々と失っており、必死だっため、統合の戦略がまとまっていないうちから「勘定系システムの1本化だけなら400億でできる」「全システムのアウトソーシングを1200億円で請け負う」などの提案を重ねたという。これに対し競合の日本IBMベースの富士銀は「急な1本化を避けるべし」という提案を行い、ここでも真っ向から対立した。

こうした事情もあって、本書では「事前に経営陣の間で第一勧銀の方をメインに残すという落としどころは合意していたようだ」と明かす。(正直この一文は唐突だからなんかリークを感じる)。しかし、経営陣は責任を取らず、現場の話し合いに任せた。

厄介なことに、なんとなく潰す方向だったことが伺える富士銀(日本IBM)の勘定系システムの方が優れていたという。議事録には「富士銀の勘定系システムの方が1年半は先に進んでいる」との正式な記載があった。同じオペレーションを少人数でできたり、細かな調整が可能といった具合だ。

しかし、片方が機能の優位性を主張すると、翌週にはもう片方が「うちのシステムでもそれはできるようです」と主張する不毛な議論が続いた。

結果として、1年かけてこの統合準備委員会は、外部のコンサル(ATカーニー)に高い費用を払いつつも「2つのシステムにさしたる有意差無し」との結論だけ書いて終え、話はまとまらなかった。

興銀も巻き込んだ妥協案が2~3年目にはある程度形になりかけたようだが、そうなると興銀とタッグを組んでいる日立の反発が起きるため、結局はまとまらない。こうした現場任せで責任をトップが取ろうとしない結果は、2002年の4月に大規模システム障害と言う形であらわれてしまった。








いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集