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運がいいとか悪いとか

さだまさしも言っている。そういうことって確かにあると、私もそう思う。

と、こういう書き出しで還暦前後の人は理解できると思うのだけれど、まぁ不親切にすぎるか。
要するに不運な出来事、幸運な出来事というものは、神様の気まぐれで訪れるという話だ。

もちろん統計学的には、幸運と不運は同等にやってくるはずだが、何事にも外れ値というものがある。
世の中には盲腸で入院して、退院の日に胆石の発覚する人だっているわけである。
泥棒に5回連続で入られたみたいな話なら、戸締りはどうなっている? ということにもなるが、同時に一切戸締りしなくても、泥棒に入られない人もいるのであって、やっぱり不運も幸運も理不尽かつランダムにやってくる、としか言いようがない。

ただ、面白いことに(面白がってはいけないが)そんなことがあっても、いやぁ連続入院だよ、俺しょうもないねと笑い飛ばすタイプの人もいれば、なぜ自分ばかり泥棒に好かれるのだと嘆き悲しむ人もある。

そこは性格といってしまえばそれまでだし、笑い飛ばしたほうがよいことも、自他に目を向けた方が建設的な事態もあるわけで、こうあるべきだなどと言うつもりもない。

ただ、人間というのは勝手なもので、幸運に感謝して自分を顧みることはあまりないのだけれど、ひとたび不運が訪れたときには、普通あれこれ考えてしまうものだ。

なので、物事に対する感受性みたいなものは、処世術として結構大きな分かれ道なのかもしれない。
「上を向いて歩こう」も「上見て暮らすな下見て暮らせ」もそれなりに人を救ってきたのだろう。

話を自己啓発的なことに持っていこうというのではない。
処世"術"と書いたが、感受性なんて、これはもう自分ではどうすることもできない。
ただ何かあった時に、自分の感受性を疑ってみることは、大事なことかもしれない。

そんな意図はなかったが、つらつら書くうちに、たまたまたどり着いたしまったので、最後に茨木のり子の詩を記す。

自分の感受性くらい

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難かしくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ


これね。
私も高校時代に出会ってから、今読んでも涙が出るくらい、心を揺さぶられるのだけれど、詩人が自分に向けて書いている体だから、なんとか読めるのだよね。

面と向かってこの言葉を投げつけられたりしたら、死んでしまうものね。

またまた訳のわからんところに来てしまった。ここまで。


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