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夏目漱石『野分』を読む 『道草』論①
鴎外と漱石
森鴎外に「夏目漱石論」がある。しかしそれは、「論」というほどの論ではない。十箇条のアンケート項目に鴎外が短いコメントをそえる形式をとっていて、原稿用紙二枚くらいのごく短いものだ。
その中に、「貨殖に汲汲たりとは真乎」という質問がある。
漱石の家を訪ねたこともないし、そういう話を聞いたこともなく、「貨殖なんと云つた処で、余り金持になつてゐさうには思はれない」と、鴎外は素っ気なく答えている。
つまり、当時、漱石には「貨殖に汲汲たり」という世評があったのだ。
引き金は、東大を辞めて朝日新聞に入社したことにある。金に眼が眩んで学問を棄て身を売ったととられたのである。当時はいま以上に、帝国大学講師と新聞社社員とでは、社会的地位は段違いだった。その後、東大講師時代にも、複数の教職を掛け持ちしていたことが顕われ、「貨殖家」という世評は定着していったようだ。
江藤淳はそういう漱石を弁護して、幼少時に養子にだされた経緯からはじめて、金に苦労してきた漱石の半生を事細かにつづっている。しかしそれでは、こういうつらい経験を舐めてきたのだから、「貨殖に汲汲た」ることもやむを得ないといっていることになり、ちっとも弁護になっていない。
いちばん応えたのはロンドン留学時代のようだ。
漱石はたんに英文学の知識を吸収するだけでなく、それを一個の日本人としてどう処理するのかという深刻な課題に悩みぬいていた。西欧文学に対する違和感を黙って飲み込むのではなく、その正体を見きわめ、本来の自己との間に橋を架けようと試みていた。
こういう前人未到の努力に全身全霊を傾けながら、貧窮ゆえに、たまにはストレス解消に金を散じて遊ぶということもできなかった。かれは異郷の大都会で、「一匹のむく犬」のようだった。書籍代を浮かすために、昼食は、ビスケットを水も飲まずに食べてやり過ごすこともあった。
これでは神経衰弱になるのも無理はない。
留学から帰ってみると、裕福だったはずの妻の実家は零落し、そこに預けていた妻子は着の身着のまま、綿のはみ出した蒲団にくるまっていた。
いっぽう鴎外の『独逸日記』を読むと、両者の差異は歴然たるものがあり、驚かされる。
鴎外は、ドイツ将校と対等に交わり、ドレスデンの王宮に出入りして国王に拝謁したり、貴族の夜会に招かれて、馬車を仕立てて出かけたりしている。その他なかなかに華やかな社交の情景が記されている。
そこへいくと漱石の場合、登場するのは「宿屋のお神さん」やメイドばかりで、社交界などいっさい縁がない。たとえ縁があったとしても、費用がなかった。
漱石は鴎外にくらべて、どうしてあんなに貧乏だったのか。
陸軍省と文部省とでは、そんなに給費額に差があったのか。
現在わかっていることは、明治十九年の鴎外に対して、漱石は明治三十三年の留学であり、その間、明治政府は輸出を有利に導くために、円の切り下げを断行したという事実である。すなわち、二人がたとえ同じ額をもらっていたにしても、漱石は鴎外の半分しかなかったということになる。おそらく鴎外は、いくぶん陸軍省の経費もつかえたであろう。
これである程度、二人の経済力の格差が説明できる。
しかしそれだけではないように思われる。
鴎外は軍人であり、漱石は学者である――というより、そこには士族と平民という格差が、経済的にだけでなく、心理的にも反映している。プライドのありかたが、本質的にちがうのである。そのことによって、日記の書き方もちがうし、異国の文化に対してもまったく異なった印象としてあらわれている。
しかも漱石は、ただの平民ではない、ちゃきちゃきの江戸っ子なのである。特有の美学と、それにもとづく「体制」への反抗心を併せもっていた。そういうものが、『道草』にも反映している。
さて今回から、漱石の『道草』を論じて行く心算なのだが、その前に、まず『野分』について語っておかなければならない。
『野分』について
『野分』は漱石の小説にしては言及されることのきわめて少ない作品である。ひょっとすると、大半の人は、そういう小説があることすら知らないのではないか。まして読んだ人はまれだろう。
漱石は学業の余技として書いた『吾輩は猫である』が世の注目をあつめ、つづく『坊つちやん』も大ヒットする。そこには江戸っ子の美学が濃厚に反映している。のみならず衒学的ともいえる「新知識」がユーモアにくるまれて鏤められており、新時代の小説家として漱石は鮮やかに文壇に登場したのである。
『猫』と『坊つちやん』からユーモアを取り去ると、ひたすら「金力」との戦いが主題となっていることが知れる。金田鼻子や赤シャツが当面の敵である。だが、それは戦いというよりも、溌剌としたユーモアにくるまれてはいるが、揶揄であり皮肉であり、いってみれば「場外」からの野次にすぎない。鬱屈している漱石自身は少しも本気で戦ってはいない。
かれは作家として立つことを決断したとき、それまでの態度を改めて、自己と真剣に向き合わねばならぬことを覚悟したであろう。
「草枕」が書かれた。『破戒』は同年、『蒲団』は翌年の出版である。
漱石は自然主義文学の向うをはって、「俳句的小説」をうちだした。画工が山中の温泉に遊んで、かれのいう「非人情」を絵画的に表現することがめざされている。「非人情」とはつまり、自己を「場外」に置くことである。
普通に云ふ小説、即ち人生の真相を味はせるも結構であるが、同時にまた、人生の苦を忘れて、慰藉するといふ意味の小説も存在していいと思ふ。私の『草枕』は無論後者に属すべきものである。
およそ漱石にしか書きえない名作である。しかし文壇の主流派は異を唱えた。「余が『草枕』」は、その反論である。
この方向ですすんでも、漱石は文豪としてやはり愛されたであろう。
がしかし、当の本人が、それでは我慢できなかった。
漱石は鈴木三重吉宛ての書簡に次のように書いている。
美的な文字は昔の学者が冷評した如く閑文字に帰着する。俳句趣味は此閑文字の中に逍遥して喜んで居る。然し大なる世の中はかかる小天地に寐ころんで居る様では到底動かせない。然も大に動かさざべからざる敵が前後左右にある。苟も又文学を以て生命とするならば単に美といふ丈では満足が出来ない。丁度維新の当時勤王家が困苦をなめた様な了見にならなくては駄目だらうと思ふ。
『野分』は、こういう決意をもってとりかかった小説である。
行動を思考する形式
「白井道也は文学者である」という書き出しではじまる。「吾輩は猫である。名前はまだ無い」と似ている。作者は、形式は違えども両者の主題はおなじですよ、と暗示しているのだろうか。
三度教師となつて三度追ひ出された彼は、追ひ出された度に博士よりも偉大な手柄を立てた積りで居る。博士は偉からう、然し高が芸で取る称号である。富豪が製艦費を献納して従五位を頂戴するのと大した変りはない。道也が追ひ出されたのは道也の人物が高いからである。
当然、道也は貧乏している。それでも信念を曲げずに、社会悪を糾弾し、人間として何をなすべきかということを第一義にするべきであると主張する。
結論から先にいえば、『野分』はまごうことなき失敗作である。主人公の情熱と苦悩に相対する現実の実在が何もないからだ。「追ひ出された度に博士よりも偉大な手柄を立てた積り」なら、その経緯を具体的に叙述すべきであった。
ここだけではない、全編にわたって、道也が世界の本質を知る高潔な人物であると作者は何度も強調するのだが、それが道也の行動としては一切あらわれていない。かれの掲げる「理想」の内容についても、アウトラインだけで、読者に「道也の人物が高い」ことを納得させうる材料があまりにもなさすぎる。なんの根拠も示さずに、ただただ、「一人坊つちの崇高」を自称している。
当時、漱石はイプセンに傾倒しており、『民衆の敵』に刺激をうけたらしい。
とはいえ『民衆の敵』の医師・ストックマンはべつだん理想主義者として登場するわけではない。かれは当初、隣人に親しまれている温泉場の医師にすぎない。
ところが温泉が有毒物質に汚染されていることに気づき、それを公にしようとする。まず町の有力者が敵にまわる。次に友人知己、町全体、ついには家族まで敵となる。
私のいいたいのはつまりこういうことだ、ストックマンは自分を理想主義者だと主張しているのではない。たった一人になろうとも、あくまで真実と正義を通そうとするかれの行動がわれわれに、かれを理想主義者であると思わせるのである。
ところが白井道也には行動がない。教員をしくじった経緯についても、かれの意見が尊重されなかったとか、却下されたとか、そういう抽象的な説明があるばかりだ。
最後の演説で、道也は、人生や道徳や社会問題に関しては、「金持は最初から口を開く権能のないものと覚悟をして絶対的に学者の前に服従しなければならん」といい、「彼らは是非共学者文学者の云ふ事に耳を傾けねばならぬ時期がくる。耳を傾けねば社会上の地位が保てぬ時期がくる」という言葉でしめくくっている。
昔、男ありけり
今昔物語に、有名な「学者」の話がある。
清原善澄という学者がいた。かれは明法博士に任ぜられ、その筋では権威として知られていたが、貧乏で、何につけ事欠く生活を送っていた。
或る晩、かれの屋敷に夜盗が入る。善澄は床下にかくれてやりすごす。めぼしい物を奪った夜盗が門を出たところで、かれは大声で、貴様らの顔はおぼえたぞ、すぐにも検非違使に捕縛させる、と叫んだ。
夜盗はもどって来て、かれを殺す。
善澄、才は微妙かりけれども、露和魂無かりける者にて、此る心幼き事を云て死ぬる也。
このエピソードでは『野分』と正反対に、学者は知識はあれども、現実の真相を見抜きそれに対応する知恵のないために、小児のようなへまをやらかして命を落とす、そのような者の代表として扱われている。「是非共学者文学者の云ふ事に耳を傾けねばならぬ時期がくる」どころではない。
善澄が貧窮しているのも、才を誇り、いくら威張ってみても、「露和魂無かりける者」だからなのだ。
どうだろう、私のうちでは、道也と善澄はぴったりと重なる。「金持は最初から口を開く権能はな」い、などと平気でいうような人物は誰にとってもつきあいづらく、貧乏にあえぐのは必然である。目の前にいる強盗に、お前の顔は憶えたぞというのと、さほど径庭のない智慧のなさである。そんな発言が有効に機能すると考えること自体、馬鹿げている。道也もまた「大和魂」のない人物として、私の眼には映じる。
『野分』は、「丁度維新の当時勤王家が困苦をなめた様な了見にならなくては駄目だらうと思ふ」という決意のもとに挑んだ社会小説だったが、かれの意気込みは空回りするばかりで、説得力を決定的に欠いている。
漱石は「文学者」と「金持ち」という一般的なカテゴリーを無造作に対立させている。「今昔物語」の説話は善澄の実際の行動を通して、「露和魂無かりける者」の運命を表現しているが、「絶対的に学者の前に服従しなければならん」という道也の言葉には、具体的な外延を欠いており、その結果、本来そこに内包されているはずの真実も雲散霧消している。「学者の前に服従しなければならん」根拠が、まったくつたわらない。
道也は私に、伯夷叔斉の故事を想い起こさせる。かれらは周王朝の正統性を否認して首陽山にかくれ、蕨やぜんまいを採って暮していたが、ついには餓死したと伝えられている伝説の人物だ。「天命は衰えたるか」という詩を遺している。儒教では聖人に列せられていて、正しき人が、その正しきがゆえに迫害される事例として引用されてきた。
この故事が直接、漱石の頭にあったかどうかはべつにして、『野分』がこうした儒教道徳の雰囲気を背景にしていることは明白である。
かれは道也を、文学者の理想像として描こうとしたのだが、まったく成功していない。それは道也が、漱石の自己の外部に表象された操り人形であり、何らかれの真実を反映していないからだ。
道也の自己主張は批評性を欠いた自己肯定であるが、漱石自身は、みずからの独善性を回避しうる自己否定の契機となる規範をもっていた。しかもそれは東洋的価値観に偏したものではなかったはずだ。 漱石の自己本位はどこにいったのか。
理想や真実というものは、「私」という具体的で切実な自己に立脚しなければ、無意味なのである。道也にはそうした自己がない。
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