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トランプ・ゼレンスキー会談の決裂 『道草』論のみちくさ

 トランプ、ゼレンスキー両大統領の会談の決裂を、新聞で読んだ。前代未聞の歴史的映像のようだ。悪い意味で。
 それにしてもバンス副大統領という人は、やり取りを見てみると、どうやらトランプ氏以上に料簡の狭い男のようだ。途中で、トランプ氏が割って入っている。あのままバンス氏との会話が続いたら、もっと酷い事になっていただろう。

 私は漱石の『野分』や『道草』を読むかたわら、今回の記事に接して、種々の感慨を得た。今回は番外編として、この件について多少語ってみたい。『道草』論とまったく関係なしとはしない事情がそこにはある。私の床屋政談に少しだけ付き合っていただければ幸いです。

 さて、おそらく日本の論壇では、バイデン前大統領の時代にはなかったような、反トランプ旋風が吹き荒れるだろう。

 しかし私は、大方の人とはちがって、バイデン氏よりトランプさんの方がいくぶんましだと思っている。ベストだというのではない、ベターだというのだ。

 ウクライナ問題に絞ってみても、バイデン政権の支援は、EUもふくめてだが、小出しで段階的であり、はっきりいって、ウクライナが負けそうになると軍事支援の段階を少し引き上げるという感じである。
 これでは、「生かさず殺さず」で、いくらたっても戦争は終わらず、だらだら続く。それがはたして、ウクライナ国民にとって良い事なのか。世界全体としてどうなのか、考えなおしてみる必要がありはしないか。

 トランプさんは、少なくとも戦争を早期に終結させようと動いている。それだけでも、バイデン氏よりましである。政治家は現実を動かしてこそ存在意義がある。

 もちろんウクライナ戦争は、ロシアの侵略行為であり、理非曲直の点からも、国際秩序の維持という観点からも、けっして許されるべきものではない。

 とはいえ、強国が国際関係の上において「特権」を持つのが現実である。
 国連でも、常任理事国は非改選であり、核兵器と拒否権を公認されている。国連憲章にある日本とドイツに対する敵国条項もいまだ削除されてはいない。
 かれらは、プーチン氏ほどでなくても、力を背景につねに横車を押してくる。それが国際政治の仮借のない現実である。
 漱石のいうように、政治における「道徳」は、個人におけるそれよりも「段の低い」ものである。

『野分』の白井道也のように、それはおかしい、超大国は「絶対的に学者の前に服従しなければならん」といくら声高に叫んだところで、指導者だけではなく国民の大多数も、そんな意見にしたがう気はさらさらない。
 だが、世の中はそういう道也的意見にみちあふれている。それもいい。ただ、少しも現実を見ない意見は政治的に意味がない。

ゼレンスキー氏の問題

 私がもし、ウクライナ大統領だったら、ゼレンスキー氏のように真っ向から反論したりはしなかったであろう。
 むしろ小国の元首が大国に呼びつけられて、飲みたくない苦渋を無理に飲まされているという自己演出をめざすだろう。

 政治家として、この場合、自分のプライドなど棄ててかかるケースではないか。米国に一方的にやられている姿を世界に中継させることが、世界の世論を味方につけ、もっとも国益にかなう。どうせ、相手は一歩も譲歩する気はなく、バイデン政権時代より身を引こうとしているのだから。
 国際世論が高まれば、いくら狭量なバンス氏も、いくらか気をつかうようになる。交渉は多少、有利になる。

 それと、もう一つ。レアアース共同開発の件。
 ゼレンスキー氏は、安全保障条項と引き換えに、共同開発権益にサインしようとしていたらしいが、それを米国に拒絶されたことが、今回の喧嘩の背景にある。

 私だったら、安全保障条項などなくとも、相手に最大の譲歩をして、開発権益をあたえる。言いかたは悪いが、利益を食らわせるのだ。
 儲かると思えば、大きな投資がなされ、人的交流もさかんになる。各地に大規模な開発拠点が築かれ、大都市を中心に多数の米国人が居住することになる。

 これは安全保障条項のような「口約束」よりも、よほど信頼に足る現実的な「安全保障」ではないか。米国はウクライナでの権益を防衛せざるをえないのだ。人命もインフラも保護しなければならない。
 NATOに加入できない以上、これはすぐにできる次善の策として有効なのではないだろうか。

 少なくとも、プーチン氏も以前のように気軽にミサイルを打ちこんだりできなくなる。
 それだけでも一歩前進だと、私なら考える。

 もちろん、「売国奴」扱いされるかもしれない。
 それでも、道也のような「一人坊つちの崇高」より、断然いい。平和に向けて、一歩でも半歩でも、現実的に前進する。ロシアの軍事的圧力も、いくぶん軽減する。政治家の責任として、批判は甘受しなくてはならないが、それをするのが真の指導者だろう。

 領土奪還は自力で達成できるまで、臥薪嘗胆するほかない。
 日本だって同じだ。北方領土は返還されていないし、その目途すらたっていない。ウクライナでのふるまいを見れば解るだろう、ロシアには平和裡に返還する気など金輪際ない。

 ウクライナにかぎらず、台湾も、そしてわが日本国も、米国の軍事力を頼りにしている。
 確かに安全保障条約も大切であるが、それよりも、米国ないし同盟国が、有事の際に、味方に立たざるを得ない条件を多くつくっておくことが、より現実的な課題ではあるまいか。

トランプ氏の場合

 トランプ大統領は、行政のすべてを、外交や防衛もふくめて「経済取引」として処理し、またそのことを自己の手法として公言している政治家である。
 かれが目指しているのは、あらゆる行政案件を経済的に黒字にすることである。したがって、「米国を再び偉大に」というかれのスローガンの中身は、端的に、金額に換算して総体的にあらゆる分野で黒字化することなのである。

 ウクライナ支援においても赤字だと考えたから、ウクライナの天然資源に眼をつけた。WHОについても赤字だとみなしたから拠出金の廃止と脱退を宣言したのである。

 オバマさんは理想を高く掲げ人気を得たが、ほぼ現状維持の政策に終始した。国内、国外を問わず、米国は八年間もの間、停滞をつづけた。核兵器廃絶を訴えてノーベル平和賞を授与されたが、現実は一ミリも進まず、かえって北朝鮮やイランの核開発はかれの任期八年間に劇的な発展をとげた。
 かれの最大の政治目標である「オバマケア」も、国民皆保険には程遠く、低所得者層の民間保険会社への加入を強制したために、保険料の高騰を招き、かつ増税の口実となった。

 そこに登場したのが、トランプ氏である。

 かれが米国民にアピールしたのは、しごく簡単な事だ。
「理想」で飯は食えない。現実を見よ。米国の富は外国や移民に食い荒らされて、豊かさは失われた。現状を変更し、「黒字化」し、以前のような富裕な国民生活に戻ろう。
「世界平和」とか「博愛主義」とか「自由と平等」といった理想に惑わされるな。実利を最優先しよう。金さえ持てば、その他の問題はおのずから解決にむかう。

 しかしこうした現実主義がつねに勝利するとはかぎらない。そればかりか、こうした現実主義は観念論の一種でさえある。

 考えてみていただきたい。あなたの「親分」が、このようにいったらどうだろうか。
――理想なんて甘い事はいっさい言うな、人に何と言われようと関係ない、とにかく稼げ、金で買えないものは無い、それが現実だ。

 そういう人に、あなたはわが身を預け、黙って着いて行けるだろうか。やはり少しは「理想」も語って欲しいのではないか。

 人間は確かに、自分の好き放題にふるまいたいという欲望をもっている。しかしその反面、人には、誰に対しても公正・公平でありたいという要求もあるのだ。
 人間は、ただ生きるのではなく、「よく生きる」ことを欲している。それもまた「現実」なのだ。
 だとすれば、そういう「現実」を無視して、すべてを金銭とそこから生ずる権力に還元しようとする姿勢は、非現実的な観念論ではないだろうか。

 そういうわけで、前回、トランプ氏は選挙に敗れた。ということはつまり、オバマ・バイデン両氏のような現状維持的政治家に対するアンチとして、トランプ氏の存在価値はみとめられるのである。

自己本位と一人二役

 夏目漱石の「自己本位」は、足下に東洋的理想と英国経験主義を踏みしめることによって成立するものであった。鴎外流にいえば、「二本足の学者」ということになる。

 前回、イプセンの『民衆の敵』をとりあげた。医師ストックマンは町中を敵に回して、温泉に毒素が混入していることを暴こうとする。当然、観客は、かれの正しくあろうとする姿に感動し感情移入する。
 しかし、かりに私がその町の住人であったらどうだろう。基幹産業の温泉事業と何らかの利害があれば、やはりストックマンに敵対するかもしれぬ。だがその場合でも、私はかれの正しさを内心では確信しているのである。

 国際政治にかぎらず、個人の視点に立った場合でも、私に日々生ずるドラマは、私にとって、必ずしも私を利するものだけではない。いやむしろ、私の行く手をはばみ、障碍となり、解決をもとめるもの、不当なもの、私の権利を侵害するもの、さらには私に敵対するものであることが多いのである。
 それが個人の力では動かしがたく、最善を尽くしても処理しえぬ問題である時、私はしぶしぶでもそれを甘んじて受け入れるほかに、とるべき道はない。それが公正の原則にそむく場合でも、「現実」に従うことになる。

 けれども、私の中で「理想」が死んだわけではない。いや、断じて死なせてはならぬ。
 われわれは、「現実」に対して「理想」を対立させるのではなく、「現実」には「現実」をもって対処しなければならない。いいかえれば「理想」と「現実」を上手に使い分けなければならない。オバマとトランプの「一人二役」をこなさなければならないのである。
 それは偽善であるか――そうかもしれぬ。だがそれがたとえ偽善であるとしても、人はそれに堪え、何としても「理想」は守らねばならない。

 そういう事を私は文学から学んだ。もっとも、身についている訳ではなく、まったく使いこなせてはいない。

 残念な事に、この点で、わが国の文学作品で「世界基準」に達しているものはほとんどない。漱石の『道草』は例外的にこうした「理想」と「現実」の関係を見事に描いた作品である。
 
 


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神原 伊津夫
福田恆存さんや、そのほかの私が尊敬してやまない人たちについて書いています。とても万人うけする記事ではありませんが、精魂かたむけて書いております。