【書評】『推し、燃ゆ』を解釈する。
1. はじめに
先日、勤めている会社の先輩から純文学の作品を勧めていただいた。その名も、『推し、燃ゆ』。作品名が示す通り、「推し」が炎上することを中心として巻き起こる、主人公の行動・内面や周囲を取り巻く環境の変化を切り取ったフィクションである。
結論から述べると、この作品はすごく刺さった。刺さった、というより抉られたというほうが近しいかもしれない。メリケンサックを装備したヘビー級ボクサーの右ボディーブローを、ノーガードで不意に喰らったような衝撃がこの作品には確かにあった。
作中で主人公はブログを介して「推し」に関連する出来事を発信していた。であるならば、私がこの小説を読んで感じ、解釈したことを同じくブログという形で表現しようと思ったことが執筆のきっかけだ。伝えたいことではなく、率直に感じたことをブログに書くのは初めてなので、表現力の乏しさに関してはどうかご容赦していただきたい。
2. 「推し」を定義・解釈する
TVアニメ『推しの子』が一世を風靡したり、K-POPグループのような世界的な支持を得る集団の台頭であったり、昨今のジャニーズ問題により以前にも増して耳にすることの増えたこの「推し」という言葉。パッと思いつくのは、やはりアイドル(男女問わず)やタレントなどの煌びやかな存在が挙げられるだろう。作中でもイヤというほど目にし、キーワードとして扱われるため、先ずは推しという言葉を定義・解釈するステップを踏みたいと思う。
ネットで検索をかけてみると、上記の結果に至った。しかし、一過性の言葉として消費されるのではなく、一般化され広く認知されている現在においては少し不十分な回答であるように感じられるため、私の感じる「推し」の持つ特性について列挙していきたい。
【私の考える推しの特性】
① 尊い存在
② 損得勘定なく愛でることが出来る
③ 応援する対象
④ 金銭を投下する(貢ぐ)対象
⑤ 日常的な幸せの根源
⑥ 共有、あるいは独占したくなるもの
⑦ 他者の一部分となる
⑧ コミュニティを形成する
⑨ 恋愛対象には当てはまりづらい
⑩ 神格化されている傾向にある
昨今では今期の推しアニメや推しアイテムのように人以外にも使用されることが多いため、用途は人に限定されないと思える。推しの存在や活動によって消費者は活力をもらい、その恩恵に対して時間や金銭を投下することが俗にいう推し活というものであるならば、自身の子供だって推す対象になるのではないか。では主人公の作中でのアプローチはどのようなものか読み取っていく。
主人公が推しに抱く感情が特に色濃く描かれていると思った箇所を抜き出してみると、推しとは何かという漠然とした問いが少しずつ紐解けてきた。FUJIWARAの原西のギャグにあるように、人間は背骨がなければ立つことが出来ない。身体を支え、運動する際に機能する背骨≒推しなのであれば、まさに身体の一部で、互換性のないものとして捉えることが出来るだろう。
そして、単純な好きや愛とも異なると感じた。人によって多少アプローチは違えど、推しを推すことでしか接種できない栄養素があるのだと思う。いろいろ考えた中で導き出した結論としては、昇華や同一化の対象になるのが推しなのだと思う。
推しを深く知り、考えや行動を真似、現実世界で抱えている問題や負の感情を浄化してくれる存在であり、生活や行動のエネルギーの源泉という解釈が、自分の中で一番腑に落ちる。実際、作中での主人公は当たり前のことが当たり前にできないことに苛まれていたし、推しが推しでなくなることで心にぽっかりと穴が開き、堕落していった。
3. なぜこの作品は私を抉ったのか
3ー1 歪な自己投影
前置きが長くなってしまったが、ここから本題に入ろうと思う。おそらくこの作品は自己をどこに投影するかによって感じ方が大きく異なる。そして、その対象は主人公か主人公の周囲の人間かである。
現在進行形で推し活をしている人や、過去にどっぷりつかったものがある人は主人公の感情や行動に共感し、刺さるだろう。一方で、推しがいない人や、感情の切り替えが上手く、依存先が複数ある人は周囲の人間に共感し、主人公の行動を批判的に受け止めるだろう。
私がどちら側なのかという問いについては、明確な答えは持ち合わせていない。推しというものが現在にいたるまでいないし、依存先は常に複数持つようにしているため、どちらかというと周囲の人間サイドなのだが、私はこの主人公に痛く共感してしまったのである。
何故だろうか?明確な理由が2つある。
① 身内が推し活をしていたこと
② 普通のことを普通にできない人間であること
3-2 身近な観察対象
私には年上の姉がおり、ジャニーズの二宮和也のことを推していた。
当時の姉はとても暗く、感情のコントロールと表現が苦手だった。何かにハマると極めるまで続ける性格で、それ以外のことにあまり興味関心を示さなくなる。彼女の行動の中心には常にニノがあり、学校から帰宅しては録画した主演ドラマを鑑賞し、セリフを覚え、関連する円盤や小説などは常に買い揃えていた。
性的描写やグロテスクな表現が嫌いなはずなのに、ニノがGANTZの主役に抜擢されたときには漫画を買い揃え、苦手ながらにも必死に理解しようとしていた。このように推しを持つ人がとる行動を身近で観察していたため、程度は違えど主人公の一挙手一投足に懐かしさを覚えたのだ。
3-3 日常的な生きづらさ
2つ目の理由は、私が日本で生活する中で抱える生きづらさと、主人公の葛藤が部分的に重なったからである。私はMBTI診断でいうところのINFJ-Tというタイプで、ザックリ言うと他人軸の中で生きる自分軸人間だ。他者に配慮しようと行動の中心に他人を置くが、自由人の内面が時折顔を出し、他者に合わせることに対して猛烈な拒絶反応が現れる。
作中で主人公は生活の重きを推しに置いており、それ故に実生活に様々な障害を生み出している。そして、実生活に問題を抱えているから、推しという存在に強く依存し、それがまた新たな障害を生む。傍観者としてみれば、不健全な関係であることは自明なのだが、当の本人が自覚することは難しいのである。この、他人を軸として我を見失うさまが自分に重なって見えた瞬間から、他人事とは思えないなと感じながらページをめくっていた。
この一節から、主人公が当たり前のことが出来ない自分に対して悩んでいることは容易に読み取れる。ここで問題になってくるのは、「できない」の程度と、周りの人間の理解があるかどうかである。持論だが、この世には3種類の「できない」があると思う。1つ目は意志の欠如による出来ない、2つ目が知識・経験不足による出来ない、3つ目が能力・可能性の欠如による出来ないである。
主人公がこの葛藤と真正面から向き合うのは、就職活動という大半の人間がぶつかる大きな障壁に関して両親と話し合っている最中のことなので、捉え方によっては1つ目のできないに該当するかもしれないが、私には3つ目のできないのように思えた。
耐えることが美徳とされる日本社会で、努力すれば何事もできるようになるというプロパガンダが多用されるが、できないからできないのだ。それをできる側の人間が、当然のことのように押し付けてくるのは暴力的だと感じる。周囲に迷惑をかけているということを自覚しつつも変われないという苦しみ、それに対する周囲の理解がなかったように思う。
主:「働け働けって。できないんだよ。病院で言われたの知らないの、あたし普通じゃないんだよ」
親:「またそのせいにするんだ」
主:「せいじゃなくて、せいとかじゃ、ないんだけど」
このやり取りにすべてが詰まっているように思えたし、このようなやり取りを実際にしたことがある人間として、あああーと声にならない声を出さずにはいられなかった。
4. おわりに
ニシダ更生プログラムという動画をご存じだろうか。怠惰でどうしようもないニシダに、日ごろ抱いている不満を率直にぶつけて更生させるという趣旨の動画だ。私は本作品とこの動画が本質的に似ているように思えた。普通にエンタメとしてみても面白いので是非観てほしい。
痛みが相対的であるように、キャパシティも人それぞれだ。社会に上手くなじめる人もいれば、どうしても無理な社会不適合者は確かに存在する。人には人の地獄があるよなあと本作品を通して考えさせられた。
久々に書くブログは、やはり楽しくて、寝食を忘れてしまった。また何か書きたいものがあれば、定期的に書いていきたいと思いました。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。