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〈仏教3.0〉を哲学する 藤田 一照 (著), 永井 均 (著), 山下 良道 (著) を読んでの個人的な覚え書き
【意識について】
意識とチェスのたとえ
チェスのルールに関係なく、一つの駒の上に帽子を被せる
それはその人、 個人の意識を意味する
帽子はあってもなくても、チェスはルールに則って進行する
自分がいてもいなくても世界は動いていくように
でも自分個人にとっては、この帽子が全てである
意識と今
意識は常に「今」と深くリンクしており、この二つは不可分である
唯物論的科学によれば、意識とは動物が進化する過程において、生じる脳の熱のようなもの
心理学的には、行動してしまった事を、随伴的に論理づけるのが意識の働きであって
人は自分の意識によって行動しているのではないとする「意識の随伴現象説」
聖書によると、神が人に御自身の命の息を吹き込むことにより、意識が生じ
善悪の木の実をとって食べたことにより、羞恥心などが生じたとする
【ワンネスについて】
私と貴方と世界のすべては、一つの存在である
瞑想の中でその事を意識し、気づく時、慈悲の心が生じる
科学的にも、自己と他者と空気と物質は、全て濃度や波形の異なる、原子や波動であり、それらはお互いに繋がっているので
全てが網状の一つの存在であるという事は言える
キリスト教においては、父子聖霊が「一」であり、夫婦が「一」であり、人々は愛によって一つとなり、主と一つとなるということが
教えられている。愛が結びの帯だと聖書に書かれている
【死について】
アキレスと亀の例えのように
アキレスが亀を追い抜けないように、死が意識を追い抜くことはあり得ない為、死は存在しない
つまりは死は意識によって認識されなければ「無」と等しく、死ぬときには意識は消滅しているのだからという事
私たちが見ているのは全て他人の死である
聖書によると
人は死んだ後も霊魂・意識があるとされる