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世界の作り方


どーも
今日も今日とて、私を綴っていく


ここ数日で、たくさんの気づきを得た
初めて、仮病ではない「風邪」をひき、
就活の面談をしたり、
自分を客観視する機会を持てた。
それらの気づきを一つ一つ書きたい気持ちもあるが、
今回はその中の一つを書こうと思う。


“世界の作り方”

文字列だけでは、仰々しい。
でも、“自分独自の空間をつくる“といった表現ならば、
多くの人に理解してもらえるのではないだろうか。

私は常々、“なぜ人は他者を必要とするのだろうか”と考えてきた。
「個人でできることは限られているから」
生きるうえでは、そうだと思う。
でも、恋人や友人は、生きるうえで必ず必要なものではない。
だが、多くの人は、自分の時間を割き、お金を使い、恋人や友人と共に過ごす。

決して、イチャイチャしているカップルや楽しそうな人たちを見て、
“羨ましいいいいい!!!!!“と思ったわけではない。
、、、、、、、思ってない。

この疑問を解消するために、川沿いを歩き、人間観察をすることにした。
理屈ではなく、1人でいる人と複数でいる人々の違いを、感覚で捉えようとした。

仕事帰りのサラリーマン、ベンチで会話をする制服をきた女の子たち、
橋の下で陰鬱な表情で話す男女。
様々な人々がいた。

そして、彼らに対し私が異なる印象を持っていることに気がついた。

仕事帰りのサラリーマンなど、1人でいる人は、情景の一部として捉えているのに対し、2人以上でいる人々は、そこに空間から切り離された、彼らだけの世界を形成しているように思えたのだ。

“世界を作る“ために、自分以外にもう1人かそれ以上が必要であり、人々は生存に必ずしも必要ではない他者と交流するのだと、私は思った。

この真理を、整理していく。

不特定多数から成り立つ世界と切り離した“自分独自の空間”の外郭が
形成されるためには、
自分だけではなく、その世界を共有し、
共に世界を観測をしてくれる他者が必要である。

つまり、“不特定多数の世界”から自分を切り離し、個として自覚するには、
自分以外の観測者が必要なのだ。
自分だけで世界を生み出そうとしても、
ふとした瞬間に、周りの世界へと引き戻されてしまう。

この真理は、“孤独”が生まれる原理でもある。
“孤独”とは、外界(不特定多数で形成される世界)で、
自分という個が存在しているという実感を持てないことによって起こる。
多くの個性が飽和し、多数として括られる世界で、
自分が存在していることを、“自分“が自信をもって証明できないのだ。

これは、自分で自分を認めることでは解決できない。
自分が存在していると証明できない自分が、自分の存在を認めたとして、
そこに確かな根拠を見出すことはできないのだ。

だからこそ、他者という自分を観測してくれる存在が必要なのだ。
他者がいることで、自分という個が世界の中で外殻をなすことができる。

この真理に気付いた時、私の視界で捉える世界が少し変わった。
“世界”は他者との関わりの中で無数に存在し、消えては、また生まれるのだと。
どの“世界”にも正解や永遠はなく、時間と共に変化していく。
そう気づくことができたことで、
他者との関係は、絶対でも、私が心身を削って守るものではないと思えた。

ふとした出来事から得た気づきは、その後の人生を大きく変える。
人生の転機となったかは、その後になってみないとわからない事かもしれないが、今の私にとっては、確かに人生を変える気づきであった。


内容の精査、添削に、これまでのどの投稿より力を入れた。
“”それほど私はこの考えを言語化したいと思っていたのっか”と、
自分で驚いている。

書く過程で、辛さや不安を感じたが、
書きたいという思いが最後まであった。

なんか、いいな

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