贖罪と受容~赦すこと赦されること(番外編)
(上)(中)を書くのに一年以上かかって、ようやく書いたものの、最後まで書くのに途中また間が空いてしまいました。
私の中で現在進行中の葛藤を抱えている、とても重いテーマなので、筆もなかなか進まず、あれやこれや問答し、どう書くべきかと・・・ずっとずっ悩み続けて今に至ってしまった次第です。
罪を憎んで人を憎まずとも言うけれど・・・そうしたいのはやまやまなれど、言うはやすしで、ことはそんなに簡単じゃない。
「生まれる前のことだし、過去のことなんだから忘れましょ」
なんて単純に割り切れるものでもない。
人を赦す赦さないなんて、そんなに簡単に出来ることではないのだから。
テレビの時代劇・・・例えば「水戸黄門」のように勧善懲悪の物語で、
悪人が罰せられるのを見て、爽快に思う人は多い。
私も「必殺仕掛人」「必殺仕置人」などの「必殺シリーズ」が大好きで、弱い立場のものたちが理不尽な運命に弄ばれ、虫けらのように殺されて、遺されたものが、自らの命と引き換えに金銭を作り、「敵を取って」と無念を託すシーンなどに、やたら我がことのように感情移入して号泣したもので、
「子連れ狼」の中でも、底辺の生活を強いられているものたちの哀しみや境遇を思って、ダメージを受けたりとか。
とくに「復讐」リベンジものには、のめり込んでしまい、
虚構と現実の境界線の区別がつかなくなるほど。
男性に対して、ものすごい怒りを抱いていることに気が付いたのはいつだったろう。自分は男嫌いなのかなあ?・・・というくらいに最初は思っていたのだけれど、幼馴染は男の子たちだったし、初恋も普通にあった。
でも、そんな風に男の子に交じって、彼らを友とし仲間として遊ぶ自分とは別に、世の中に存在する男性という存在、その「性」を軽蔑して、憎悪している自分もいることにいつしか気づくこととなった。
何をされたか・・・ということもないのに。
友人が痴漢にあったとき、そのまた友人の友人がレイプされて自殺したとき、憎悪はピークになり、女性に対してそのようなことをする総ての男性の股間を散弾銃で討ちぬいてやりたいと、それをしないと気が済まないと思うくらいに、自分の中の「夜叉」が激しい怒りの炎をたぎらせて、目覚めていくとばかりにどんどん大きくなっていった。
もちろん、それだけでなくて、日々の事、親との関係や様々な出来事からの累積していく理不尽なことへの憤りなども大きかったけれど。
それはまるで自分の中にいる「怪物」が、冬眠しながらも少しずつ養分を取って成長し、耳だけは聞き耳を立て、様々な怒りを吸収して、いつか爆発する日を待つように・・・。
それでも男友達はいたし、恋愛もしていたから、それはしごく一部の、特定の男性や世のニュースに対してだけの特殊で過激な反応であったように思う。
さて、縁というものは奇妙なものである。今の仕事をする以前にも、過去生のご縁ある人物とは何人か出会ってはいるし、仕事を始めてからもそれはそう。
自分の兄姉弟妹だった人、母親だった人、子供だったり、友人だったり、仲間だったり、魔女裁判において私を嘘の告発で陥れた人とも。(相手が、急にトランス状態に入り謝罪してきた<白目剥くほどにビックリした出来事)
それに気づいたり思い出した人ならともかく、いちいち相手にそれをいう必要はないと思うし、だから何?という問題でもあるので、私自身、過去生でどんな関係性であったか、ということに縛られないようにしている。今の関係とそれは別のものなので。
けれども、時にそれは、無視することの出来ないものであるというのも知った。それが今に続く葛藤である。
クライアントさんと接するときはフラットな状態を保つべきで、個人としての私(人格や私情)は脇に置くものと心得、個人的感想も感情も一切合切持ってはならず、あくまで「道具」と成りきって、人間でありながら人間ではない単なる「存在」として、メッセージを伝えるなり、その都度出来ることに徹する。・・・というように、いかに「自我」を捨てるかが大事なので。
であるのにも関わらず、どうしても反応してしまう人がいた。最初は自分のこの抑えきれない衝動的な反応、無意識でしてしまう行動の意味が、自分でもよく解らず、悩み、葛藤し、自分自身の己が未熟さを散々に責め立てて、自己嫌悪に陥った。
自分のこの反応は何なのだろう?
この無意識的な行動はいったい何処からきているのだろう?
そんな風に、考えよりも先に自分の体が、そして心が色んな意味で反応していることにおもいなや毎日もあった。それをよく理解して、思い出さないうちに。
しかし、その反応こそがすべての理由だった。
理由のない感情的反応も怒りもないのだと・・・断片的に、そして全容を、その人との関係性における過去の記憶を思い出したとき・・・自分の反応の理由、理由たる経験を思い出してからは、これは致し方ないことであろうと、そのように思った。
自分が何をされたのか・・・過去にどんなことが起きたのか、思い出したら、すべて合点がいく。そこに過去生セラピー、前世療法の価値と恩恵、意味のすべてが存在している。
でも、相手はそのことを思い出しているわけではない。
自分を過去において、裏切ったり、殺したり、理不尽かつ非道な目に遭わせた相手に出会った時、どうしたらいいというのか・・・
どう感情を処理すべきなのか・・・
答えは今も見つからない。
例えば犯罪被害者でもある、心理カウンセラーやセラピストが、ある日、加害者もしくは加害者家族が被験者として現れたとき、どう対応すべきか、そんな問題に近いかもしれない。いやさ、その場合は自分は適合者ではないとして、別のカウンセラーを紹介して、断ればよしという話だろう。
それに問題は、今の人生で起きたことではない。
前世など、夢物語、妄想と片づければそれまで。狂人のたわごとのようなものだ。言いがかりでしかなく、科学的に証明することも出来ない。
当たり前の話だが、法的な拘束力なぞ、制裁など出来ようもない。
それに誰よりも私自身が、この記憶が真実なのか、自分のものであるのか、
勝手に頭の中で自作自演で作られた創作物語なのか、何がなんだか未だに判らない。立証なんて何一つ出来る手立ては持っていない。
本当に、「だからどうした?」という話である。
互いに生まれ変わって、きれいさっぱり忘れて、新しい肉体、別の性別を持っていたりもする。でも、激しい「怒り」と「憎悪」と、恐怖の感情、相手に仕返ししてやりたいと、その想いだけは残ってる。
それでも相手がきれいさっぱり忘れている時には、まったく何も思い出さないでいる時分には、直前の人生(前世)を自主的に思い出し、深い悔恨と懺悔の気持ちを抱いているように話すその人のことを、「人に謝罪し、反省する気持ち」があるのならと、あくまで他人として、生き方を改めて、自分を変えていくサポートを全力でしようと、そうも思えたのだけれども・・・
もちろん、私に対して自分が何をしてきたのか、私が伝えたわけでなく、思い出してくれた時も、その涙の中に、反省や後悔や色々なものがあるのだと、信じたかったし、大切なのは今の人生であり、これからその人がどんな人になっていくかなので、そこはそれ、切り離していくべきだし、そうしてきたつもりでもあった。
でも、ふと・・・私自身の過去の修羅のような想いや、他の被害者たちの意識にリンクして引きずられてしまい、普段は抑えていられるものの、ふとした時に、ドス黒い染みのような感情が広がって、首を絞めたくなってしまったり、冷淡でイジワルな考えが頭に浮かんでしまうことはある。
なんであなたたちは、のうのうと生きているの? 好きなことを楽しめているの?? 自分たちは良いことをしていると、自慢して、表に出ていられるの?
あなたに殺された人たち、幸せを壊されて、人生を、命を奪われて、愛するものを奪われて、その哀しみ、傷や痛手をみんな引き摺って、その後の人生も狂わされて、あの苦しみから、悪夢から逃れられずに、人生を狂わされ続けている人が多いというのに
なんであなたたちは笑ってるの? 笑ってられるの?
男性恐怖症になったり、Sexの問題でパートナーを傷つけてしまったり、
自分のせいで相手が不幸になってしまうと、本当に好きな人からは逃げてしまう人とか・・・たくさんたくさんいるのに・・・
あなたたちは、どうして人生楽しんで生きてるの? 犠牲になった人たちは、皆まだ苦しんでいるのに? 自分がしたことを思い出してなお、どうしてそんなこと言えるの?
自分の犯した罪のことなんて、全然解ってないじゃない。あなたたちのせいでどれだけの人が命を落としたのか、本当に解ってるの?
その罪だけじゃないでしょう? それだけなら人は弱いものだから致し方ないけれども・・・何度同じこと繰り返してるの?欲望のままに奪って、殺して、人の命をゴミみたいに。あなたたちは刑務所にさえ服役してないじゃない?
何も罪を償ってないし、反省なんかまったくしてないじゃないの!!
・・・って、そんな風に怒りがわいてきて、横蹴りくらわして、エルボークラッシュ入れて、ローリングサンダーでぶっとばし、ギャラクティカマグナムぶっこむとか・・・そんなことをしてやりたくもなってしまう。
そんな自分がすごいイヤだな、とも思う。また、この憤怒の感情は、私だけのものではないのだと。霊媒としての私が、様々な被害者と繋がって、感応して受け止めている皆の想いでもあるのだと。
その人たちに命を奪われたのは、私だけではなく、他の犠牲者たちもいたりするのだ。古いもの、新しいもの・・・たくさん、たくさんのその人たちに対して憤りを抱いているグループエレメンタルもある。
でも、本人が罪悪感を抱かない限り、罪が「カルマ」になることはなく、彼ら…その人たちを憎むグループエレメンタルの攻撃を受けることもない。
では、因果応報ってなんだろう?
罪を犯したものが、その罰を受けず、裁かれることもなく、すべてを忘れて、新しい人生を謳歌できるとしたならば・・・
すべての被害者たち、人生を狂わされ、理不尽で屈辱的な末路を味わされたものは、この沸々として煮えくり返る腸を、おさまらぬ怒りを、どうすればいいというのだろう?
何故自分たちはこんな目にあったというのに、こんな目に遭わされたほうは
幾世にもわたって、その苦しみから逃れられのに、こんな目に遭わせた当の本人は、相変わらず我儘で、他人のことなど考えず、自分の意見や気持ちばかり周囲に押し付けて、何一つ顧みらず、好き放題に生きている。
これをどう納得すればいいというのか?
これでは、失われた命、
被害者となった人々の想いは報われないではないか。
その昔いらしたクライアントさんで、猟奇的な連続殺人事件の被害者の一人だったのだな、という過去を持つ人がいた。
たぶん、国はアメリカ。深夜の山か森の中、明かりの無いところ、恐怖でひきつった顔の若い白人女性、身体を傷だらけになりながら身を隠れるところを探し、犯人から何とか逃げようとするも結局・・・
というまるで人間狩りのシーンを見させられた。
もちろん、言わなかった。受け止めるにはちょっとキツイし、何よりも知るべき時期でも必要な情報でもなかった。今が幸せなら、そんな情報いらないし。
ただ、その人生での親御さんや関係者は今でも苦しんでいるのだろう。
ちゃんと日本に生まれ変わって、幸せな人生を今度は生きてますよ、
と伝えてあげたいけれど。
うん。子供を亡くした親の気持ちは辛いものだ。変わり果てた我が子の姿を見させられるほど、親に取っての悪夢もそれ以上の地獄もない。
我がことならいざ知らず、愛するもの、子供を奪われた親の悲しみは計り知れない。病気や事故やケガなど、そのような事由での死も受け入れがたく、同じ哀しみには違いないけど、人に殺されるがために我が子を産み育てる親がどこにいようか。
なんでこのような、惨い殺し方をされねばならぬのか、こんな酷い目に、酷い姿にするために、慈しんで、今まで育ててきたわけではないというのに。
愛し子の、「人でない」原型を留めぬ姿を見たとき、声にならない叫びと嗚咽と、これは夢に違いないと、息を吸うことさえも拒絶したくなるような、耐えがたい苦しみにただもう、崩れ落ちるしかない。
しかし、過去で自分を殺したり、酷い目に遭わせてくれた相手に対して復讐したとしても・・・生まれ変わった相手を殺しても、その時の人生が取り戻せるわけではないし、死んでいった人々がすべて生き返るわけではない。
失ったもの、当時の自分、愛する人、人生、大切だったもの、宝物のような時間、幸せが戻ってくるわけじゃない。
何も取り戻せないし、取り返せない。失った命も時間も、すべてはもう二度と帰ってこない。取り戻せない。
失ったものは何一つ、帰ってこないのだ。人生は取り戻せないし、時間も戻らない。終わった人生は終わった人生でしかない。報われるものなど何もない。
よしんば、仕返しをしたり、殺すことが出来たとしても、なんでこの人のために今度は私が「人殺し」という咎を背負わねばならぬのか。相手と同じところに堕ちたくないし、そんなことをした自分が私は私でとても許せないだろう。
少なくとも、あの苦しい経験を、人生を味わってきたから、私は人の痛みや苦しみが分かる人間になってきたろうし、今の人生では経験していないことも想像できる。
他人の過去生の中にある、深い哀しみや憤りや、恐ろしい体験も受け止める土台にはなっているとも思う。多少なりとも、その経験や感情が、私にとっては今の仕事には役に立っているわけで。
そんな風に考えないと自分が救われないのだが。
相手を赦すことができない自分を、赦すことが最近ようやく出来た。
「ああ、別に赦さなくてもいいんだ」と思ったら楽になれる。
相手を受け入れられない、赦すことのできない自分を、ずっとずっと責め続けてきたので。
赦せなくても仕方ない。過去の自分はまだ怒っている。それはそれで仕方ない。今の私とは別人格であり、別の人生なのだから。
私の背中には、彼女に対して未だに憤りを解いてはいない、被害者たちの意識(グループエレメンタル)があるわけだが、だからと言って、被害者の会代表として、加害者たちの見張りだとも、裁く権利がある側だとも思ってはいない。
ただ・・・もう二度と、私のような思いをする人を増やしたくない。二度とあんな目に遭う人を作りたくない。誰にも、あのような辛い思い、地獄を這いずるような苦しみを与えたくない。
それだけだ。
相手に罪を犯させくない・・・というのではない。自分が流した血の涙を、もう二度と誰にも、流して欲しくはない。あんな思いをさせたくない。二度と自分と同じような目に遭う被害者を出したくない。
そんな想いしかない。
まぁ。。。毒親に育てられてあれやこれや修羅場を経験して、その問題を乗り越えるために随分と長い年月を費やして、自分と向き合って、親のことを可哀想な人たちだと、そう思える着地点に行きつけたからこそ、なんだとも思う。その経験が、感情的経緯がなければ、過去生の感情に怨念とも言えるべき、増悪の心に、どっぷり浸かって、支配されてしまっていたかも知れない。
それでも時々、切り離すことが出来た、般若のような・・・鬼の心の塊が顔を覗かせることがある。
相手の中に過去を反省する心や態度が、まったく見られないときとか、人として成長していないというか・・・過去の・・・罪を犯したときの当時の人格を彷彿とさせる発言や行動をとられたときなんかは、どうしても。
だから本当に過去生は忘れていたほうがいいもので、別に思い出さなくてもいいこと。忘れているのっていうのは、思い出せないっていうのは、慈悲なんですよ、って改めて声を大にしていいたい。
例えば、自分が生んだ子が、過去生で連続殺人犯だとかレイプ魔だったとか、そんなのの生まれ変わりだって知ったら、どんな母親だってお乳を吸われたくもないし、育てるのが怖くなってしまうだろう。
そうした事実を受け止めて、過去の感情に流されないで出会えるほどのレベルに、精神の成熟度が到達していたなら、問題はないけれど。
私だって、精神はちいとも成熟してないのにね。
だから、すごーく重荷でとてもしんどいことなんですよ。
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