努力の炎
以前、声を信号として、可視化し、認識/処理することについて述べた。
信号のように、可視化、定量化できると、
自分では無い、第三者にも、情報として、伝わりやすくなる。
スピリチュアルなことを述べるつもりは毛頭無いが、
人の想い、
特に、情熱、努力、頑張りなど、
オーラのように、可視化できればいいのに、
と最近、思うことがあった。
相手の性格や人物像を自分なりに処理した上で、
その相手の"色"が思い浮かぶ人もいるだろうが、
余程の慧眼と観察眼を持つ人でない限り、
すなわち、ずっとその人を観察していない限り、
人の"想い"・"熱量"を、言葉以外で、可視化できる人は少ないと思う。
数日前。ある後輩が私に言った。
「先輩方と同じことをしても、同じことを言っても、先生は納得してくれない。私は、先輩方よりも評価されてない。信じてもらえてない。」
「結局、『何をするか、ではなく、誰がするか』で評価される」
彼女は、要するに、
優秀な先輩方と比較され、
一度、押された、"不出来"という烙印が、
先輩方がいなくなっても、消えないということだ。
さらに、彼女は続けた。
「終には、後輩の方が頑張っていると言われる。そのことに腹立たしさとやるせなさを感じる。」
私は、その時も彼女に言ったが、
一度も、彼女が、不出来だと思ったことはないし、
頑張っていないとも思ったことはない。
だから、そのように彼女が言われること自体が、
不思議で仕方が無かった。
私には、彼女なりに頑張る姿勢がしっかり見えていた。
その努力の炎は、
もしかしたら、他の人と比べると、
小さく、温度が低く、色が異なるかもしれない。
それは、誰しもそうで、
主に、研究に熱意を注ぐ人もいれば、
そうでない人もいる。
多少なりとも時間経過と共に、
その熱量の揺らぎや分配は異なるかもしれないが、
彼女なりに、その炎を燃やし、温度を保ち続けている。
それが、正当に評価されていないことに、
私が腹立たしさを覚える。
だから、その人から放たれる、
非言語的な想いの炎を、努力の炎を、
可視化したいと思うのだ。
あなたを見ていない人に、
あなたが見えていない人に、
あなたのこれまでが詰まった、
あなただけの努力の炎を、
他人と比べるためではなく、
あなたという人を見るために、
見えるようにしたい。
最後に、その後輩には(彼女には)言えなかったが、
私には、あなたの努力の炎は、しっかり見えているし、
その温度も感じているから、
たとえ、周囲からの風雨に遭遇しても、
あなただけの色・温度・大きさの炎を、
どうか絶やさないでほしい。
逆に、周囲と比較されて生じた不安や劣等感を、
燃やし尽くすくらい大きくしてほしい。
まとまりのない文章になってしまいましたが、
最後まで読んで頂きありがとうございます。
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