その「問い」はまだ誰にも求められていない
僕の性分なのかも知れませんが、誰もが手がけていなかったり参画していないような事に関心があるみたいです。これがいいんだか悪いんだか分かりませんが。
福祉を仕事として向き合うようになって長らく、介護保険や障害者総合支援法など、表現が適切かどうか分かりませんが、いわゆる福祉の中でもメジャーな分野の中で活動をさせてもらってきたんですが、介護のお仕事をさせてもらっていた時も利用者さんと自転車に乗るリハビリをしてみたり、入居施設で働いていた時も外出願望が強すぎて飛び出した利用者さんが街ブラするのにマンツーマンで3時間くらいお付き合いしたりしてよく叱られていました。(ご迷惑をかけた同僚や先輩ごめんなさい!!)
障害の分野に移ってからは、就労分野なのに、いわゆる「できちゃった婚」の当事者の家族会議に参加する羽目になったり、なぜか就労移行支援にいるのに母子分離とか同棲や結婚の支援などに携わる事になったりしています。
自分からそこに飛び込んでいるフシも多分にあるのかもしれませんが。
ちょっと偏った認識かもしれませんが、そんな経験をさせてもらう中で僕の中の支援者としての価値観は、随分と制度のスキマやグラデーションの部分に視野が向きやすいものに形成されたんだと思います。
そんなこんなで今はとても伸び伸びとお仕事をさせていただいているお陰で、いろんな事にチャレンジさせていただいています。
今のところはこのスキマに視野が向きやすい僕の感覚がそれなりに生かせている部分もあるのかな、と思っています。
さて、ここからが本題です。
もうどこで聞いたのか覚えていないんですが、「ほとんど多くの問題が解決されている今の社会では、問題解決能力よりも【問い】を見つける問題発見能力が必要」というような言葉を聞いた事があります。
なぜだかそれは僕の心にものすごく刺さっていて、今の自分の行動指針にもなっています。
今はコロナによっていろんな問題が少し浮き彫りになって可視化されていますが、多分コロナ以前って同じような問題自体は潜在的にあったにも関わらず少し見えにくかったかもしれません。
コロナによって今まで見えづらくなっていた「問い」がいっぺんに投げかけられたような気分がしています。
それと同じにしてはいけないとは思うのですが、僕らは普段「可視化」されている問い対しては必死にその解決に努めようとします。でも意外と明確に可視化されていない、というか潜り込んで見えにくくなっている「問い」を見つけようとする人は少ないんじゃないかと思うんです。
解決すべき問題に溢れていた頃は、その問題をどれだけ素早く的確に解決できるか、という術に重きが置かれていました。
テストの問題用紙が目の前に置かれているので、その問題をいかに素早く正確に解くかというルールです。
でも、世の中が成熟して大きな問題があらかた片付いてくると、何となく問題解決の緊急性は下がってきます。
決して全ての問題が解決した訳ではないけれど、ちょっとひと段落、みたいな感じになるんでしょうか。
ただ多分それって「緊急かつ重要なこと」が一時片付いただけで、マトリクスでいう「緊急じゃないけれど重要なこと」に手がつけられていない、みたいな感覚じゃないのかな、と僕は捉えています。
よくビジネスパーソンの間で使われるこの「緊急度と重要度のマトリクス」、福祉の世界にいる僕でも10年以上前から目にしています。
そして、このマトリクスの中では、「緊急かつ重要な事」と同じくらいに「緊急ではないが重要なこと」という部分に重点を置くことを教わってきました。
このマトリクスの建て付けは、企業や組織の中で改めて課題自体は明らかになっているのが前提ですが、これを地域とか社会、みたいなところに置き換えると、「緊急かつ重要な問題」や「重要ではないかもしれないが緊急性の高い問題」は可視化されているもの、だと思うんですが、「重要だけど緊急性は低い」という領域って、可視化されていないものが多いんじゃないかと思っています。
僕の中ではそこの領域が「問い」にあたるものなんじゃないか、と捉えています。
全く見えていない訳じゃ実はなくて、ただ緊急性や優先度がいろんな理由で上がらないから何となく可視化されていないもの。
僕がいる福祉、という分野は多分この「問い」があちこちに転がっているんじゃないかと思います。
それが今回のコロナウィルスによって、いろんな人の生きづらさが表面化したり生まれたりしています。
見つけられていなかった「問い」の緊急性がグッと押しあがったような感覚でした。
もちろん可視化されている課題は緊急で重要なものだと思うので、その解決に努めなきゃいけないんだろうな、とは思うのですが、その横で手がつけられず気づかれていない問題は必ずあって、何かの拍子に急に顔をもたげます。
その時には当然緊急性が高い状態なのでその問題解決は急を要します。
本当に問題が解決されてしまっているのであればいいんだと思いますが、大体社会課題的なものっていうのは「解決した状態」な訳じゃなく「適宜な対応が継続的に行えている状態」なので実は解決してしまって完了している訳じゃないものも多くあります。
そんな中で新たな課題がグッと緊急性を上げてくると、どうしたって色々なことの手が詰まってくる。
何かそんな感覚に見舞われることが、僕は少なくありません。
福祉というか生きづらさを支える、という大きな分野の中にいると、たかが地域を見渡すだけでもこういう手詰まり感が起きやすいんじゃないかなぁ、とものすごく感じます。
だからこそ「問い」を見つける能力というものが僕にはめちゃくちゃ重要なんじゃないか、と感じるのかもしれません。
ただ、往々にしてその「問い」に対しての解決策の提案は、打ち出したその瞬間はもしかしたらまだ多くの人には必要と感じられないものだったりすることも少なくないと思います。
なんせまだ多くの誰にとっても必要性が見えていないものを問いとして取り上げて、そこに向き合っていくわけですから。
最初は誰にも求められなかったり、ごくごく一部だけのニーズだったりすることなんてザラなんだろうと思います。
だからこそ問いを見つけても、そこに向き合い続けられずに埋もれてしまうことも少なくないのかな、とも。
僕が言っても今のところあまり説得力はないのかもしれませんが、それでも「問い」を見つけることって特に福祉的な分野においては絶対に必要なことで、小さくてもいいからその問いを解決する術を求めていくことは今みたいな変化の激しい時代の中では大切なスキルなんじゃないかと思います。
おこがましいながらも、僕もそんな持論が少しでも説得力を持てるよう、まだ誰にも求められていない「問い」を日々探しています。
しょっちゅう訳のわからないことを言い出して、自分の事業所のスタッフや運営しているコミュニティのメンバーの首を傾げさせているかもしれません。
ちょっとまとまったのかどうかは分かりませんが、「問い」を見つけるっていうことが大事だよ、ということと、こんな発信ででも「問い」を見つける人が増えたらいいな、と思い書かせていただきました。
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