立ち返る
【長くなります】
ちょっとだけ個人の思い、主観たっぷりなんですが、自分の立ち返りと思って書いています。
気が向いたらお付き合い下さい。
今僕は「障がい者支援」という分野にいますが、その前は介護、更に前は子どもが僕の支える対象者でした。
僕にとって対象者がどういう立場で誰か、なんてどうでもいいんです。
それは対象者を軽んじている、という話ではないし、その都度自分なりにではありますが本気で向き合ってきました。
「困っている人の役に立てるなら、自分ができる限り役に立ちたい」
「自分の手が届く範囲の助けが必要な人だけは助けたい」
20歳の頃から変わらない僕の行動原理です。
僕はずっとこの理念に従ってこの業界で生きてきたので、相手がどんな対象であるか、が重要じゃなかったからです。
どれだけ偉そうやねん、っていう言い方ですが、まぁ自分の中で思っている表現なので許して下さい。
僕にとっては、子どもであろうが高齢者であろうが、障がいがあろうが、みんな同じようにこの世の中で生きている人で、それぞれ置かれている状況が違う、というだけの事だと今でも変わらず思っています。
甘っちろい考え方かも知れませんが、みんな何かしら生きていて困ることなんてあるに決まっているんだから、そこは助け合ったり補い合ったりすればいいのに、と思っています。
「福祉」を仕事として行っていますが、なんでこんなものが仕事として成立するんだろう、と思うこともあります。
でも、世の中を眺めてみると、やっぱり生きづらさを抱えながら生きている人はたくさんいて、どうやらあまりうまい具合に助け合ったり補い合ったりというわけにはいかないみたいです。
みんな同じようにこの世の中で生きている「同じ人間」とは見えていないのかも知れません。
そして、どこかで自分と違う人を、時として疎んじたり、軽蔑したり、敬遠したり、迷惑がったり、ということが起きているのかも知れません。
福祉、というのはそういう中で生まれた生きづらさを支えるために生まれて、法律を作ったり、ルールを設けたり、支えるための仕組みを作ったりして、何とか生きづらさを減らすために動いています。
それでもそれだけでは賄いきれなくて、そのスキマには任意で生まれた団体や個人が活動を生み出して補おうと動いています。
それでもなかなかそのスキマって埋まらなくて、気がついたら違うところに新しいスキマが生まれて、埋まっていると思ったところからまるで溜まった膿が破れて流れ出るみたいに、新しい穴やスキマがまた生まれたりします。
生きづらさを減らすためだったはずの手段や制度が、気がつけば手段を全うするために、制度を守るために動くようになっていて、もともと何のために始めたことなのか、よりも目の前のことをとにかく片付けるために機能するようなものになっているようなことが当たり前になっていて、どうやら必ずしも本来の目的を十分に果たしきれてはいなかったりもします。
僕は今までそういう仕組みの中にいて、確か生きづらさを抱えている人のためにその人の困りごとを解決するためにやっているはずなのに、「これはあなたがすることじゃない」とか「制度的にはこれはしちゃいけない」とか、「でもどうしようもないから仕方ないよね」とかを耳にして、動きを止められ、下手をしたら叱責されたりもしました。
確か人を支えるために存在しているはずの場所で、自分達の利益や取り分をどうやって残していくか、もしくは自分達のポジション競争をどうやって勝ち抜くか、どうやってより効率よく回していくか、「自分達の」「自分の」「自分の会社の」が主語になるような行動に勤しんだり、その集団の中のルールや秩序を維持ができずにそこにエネルギーを過剰に使わなきゃいけなかったりもしました。
もちろん、人を支える前に自分が倒れちゃ元も子もないので、必要なこともあるのかも知れないけれど、なんだか気がついたら支えなきゃいけないはずの人の優先順位はずいぶん下の方に下がっているように感じて、虚しくなることも少なくありませんでした。
気がつけば僕は生きづらさを持っている人だけじゃなくて、一緒にその人達を支えるための人達のことを支えることも必要になってきたので、自分の仲間と、支えるべき人を支えるためには、あまり窮屈なところにいたら僕自身の心が倒れてしまいそうだったので、自分の活動の場所を変えました。
随分と窮屈さがなくなった中で、改めて支援をしながらずっと考えていました。
あまり賢くないのかも知れませんが、行き着いたのは法律やルールや仕組み「だけ」じゃ十分じゃないんだろうな、ということ。
なぜなら、それを使うのはやっぱり「人」だから。
そして、必ずそこにはスキマが生まれるから、そのスキマは最後は「人」で埋めなきゃどうしようもない気がしたからです。
法律やルールや仕組みを使うのも人、そこで生まれるスキマを埋めるのも人。
ということは、最終的にはやっぱり人が繋がらないといけないんじゃないかな、と考えました。
でも、自分と違う人を、時として疎んじたり、軽蔑したり、敬遠したり、迷惑がったりしていたら繋がってもあまり意味がなさそうだし、手段を全うするために、制度を守るために動くことが目的になってしまう人と繋がっても同じように意味がなさそうなので、あまり多くのことは出来ないかも知れないけれど、どんな状況にいる人のことも「同じ人間」として助け合ったり補い合おうという想いをもっている人と繋がって少しずつカタチを再構築していくのが、僕にとっては一番しっくりくるような気がしました。
それでどれだけのことが変わるのかは分かりませんが、でもそれが一番僕がずっと自分に掲げている理念に素直だな、と思いました。
「困っている人の役に立てるなら、自分ができる限り役に立ちたい」
「自分の手が届く範囲の助けが必要な人だけは助けたい」
本当に手が届くくらいの小さな範囲のことしか出来ないけれど、それでもどんな人も「同じ人間」として向き合って、関われる人との繋がりを丁寧に増やしていくほうが、手が届く広さは大きくなりそうですし、手段や制度よりも「人」のために垣根を越えたりカタチにこだわらずに動ける人と動いたほうが、多分「自分ができる限り」のことができそうな気がします。
どうせ頭を使うなら、それでも自分達も倒れないようにしていく術を探していくのなら、こんな中で悩んだり苦しむほうがよっぽどか楽だと思いました。
だから、僕が支えるべき人を支えながら、同じ理念を共有できそうな仲間と繋がったり、繋がりにいきながら、どうやったらもっと役に立てるだろうか、ってことを考えることが今の僕の仕事、というか、「やること」なんだろうな、と思いながら日々走っています。
いつか、仕組みありきじゃなく制度ありきじゃなく、手段ありきでもルールありきでもなく、同じ世の中に生きる人間同士が「人」ありきでそういうものを使って、みんなが仲間のように生きていけるようになれたらいいな、という願いを込めて日々走っていこうと思っています。
あまり自分の立場も何も考えずに書いたもので、適切な表現ではないものがあったかも知れません。
でも、こうやって書き出すことで自分で立ち返ること、それともし共感してくれる人がいたら、という思いもあって書いてみました。
長ったらしい文章でごめんなさい。
読んでくださった方がいたら、ありがとう。
オンラインコミュニティ「ふくし会社margin」
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