仏教の縁起理論やチベットの密教行者ンガッパ
チベット仏教に伝わるインド仏教は、唯識中観派
空の理論を取り入れた大乗仏教。
しかし、幾つかある、チベット仏教の派は、唯識派の理論の派で作られた派もあります。
空は縁起
縁起をWikipediaで検索してみれば、釈迦の縁起から、幾つも縁起が考えられたのがわかります。
釈迦仏教や宗派仏教や部派仏教を無理に空理論にしようとしても無理が出てくると思っていますよ。
インド密教は、祈祷や修法をサーダナの観想法にしたもの
智慧や慈悲や促身成仏や空や現世で生きるなどの修行が入っています。
スマラサーラさんは上座部仏教
空の龍樹は上座部の縁起理論を批判しました。
縁起理論が違うんですよ。
古代チベットには、ラマ教という民間宗教がありました。
倫理道徳はない神を祈るだけの宗教
その頃は王国だったチベットは、中国から仏教を取り入れ国教としました。
その後、インド仏教僧がチベットにはいり、インド仏教も広まります。
チベットは、中国仏教とインド仏教が対立しました。
王は、中国仏教僧とインド仏教僧をサムイェー寺で宗論させてインド仏教が勝ち、チベット仏教が国教になったから、その後インド仏教と長い繋がりになりインド仏教が広まり
ラマ教もインド仏教の教義を取り入れ、インド仏教と変わらなくなりました。
王国が無くなったあと、チベット仏教の座主が国政もやるようになり、さらにチベット仏教が広まりました。
大乗仏教の釈迦の超人化やたくさんの仏の登場は、
ヴーダ神話のバラモン教やヒンズー教の対抗からだろ。
民衆は、哲学より宗教にいく
今も昔も同じ。
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大乗仏教の縁起
大乗仏教においても、部派仏教で唱えられた様々な縁起説が批判的に継承されながら、様々な縁起説が成立した。
般若経
初期の般若経典は、縁起する諸法の本質は空であるとし、個別の特徴を持たない(無相)とした。それゆえに全ての執着を離れることが強調された。
中観派
龍樹(ナーガールジュナ)は、説一切有部が諸法に固有の性質(自性)を認めたうえで縁起や因果を説明することを批判した[3]。龍樹は、諸法は空すなわち無自性であるから縁起し、また縁起するから自性をもたず空であるとした。
龍樹は、『般若経』に影響を受けつつ、『中論』等で、説一切有部などの法有(五位七十五法)説に批判を加える形で、有為法(現象、被造物)も無為法(非被造物、常住実体)もひっくるめた、徹底した相依性(そうえしょう、相互依存性)としての縁起、いわゆる相依性縁起(そうえしょうえんぎ)を説き、中観派、及び大乗仏教全般に多大な影響を与えた。
中村元によれば、中論の主張する縁起は、有部の縁起論とは著しく相違するが、後世中国の華厳宗の法界縁起の思想には非常に類似しているという。法界縁起の説においては、有為法・無為法を通じて一切法が縁起していると説かれるが、その思想の先駆は中論に見いだされるという。
唯識瑜伽行派
唯識派では、縁起は識の転変の意味であるとし、阿頼耶識・末那識・六識が相互に因果となって転変することを指すとした阿頼耶識縁起が説かれた。
特に法相宗の基(き)の『成唯識論述記』では、阿頼耶識(あらやしき)からの諸法が縁起する頼耶縁起(らやえんぎ)が説かれる。
如来蔵思想
現象世界を、真如(如来蔵)が縁に従って現れたものと見る真如縁起(如来蔵縁起)が如来蔵思想に見られる。
華厳宗・華厳経
現象世界をそのまま真如であると見る法界縁起(重々無尽縁起)が、中国の華厳宗において形成された。
華厳宗では縁起を、機縁説起という意味に解する。この「機」は人間・衆生を意味し、「縁起」は人の素質の良し悪しに応じて説を起こすことを意味する。縁起因分という。これは、さとりは、言語や思惟をこえて不可説のものであるが、衆生の機縁に応じるため、この説けないさとりを説き起こすことをさす。
『華厳経』十地品では唯心縁起が説かれる。三界(欲界・色界・無色界)の縁起を一心(唯心)の顕現として唱える説(三界一心、三界唯心)。
密教・修験道
それぞれに性質と作用を持つ六大(地・水・火・風・空・識)が、大日如来の本質として実在し、また世間の生物や事物としても実在して、相互に無碍融通しながら万法に偏在しているさまを六大縁起と呼ぶ。空海が法界縁起説をふまえて六大縁起説を大成した。修験道でも六大縁起が説かれる。
釈迦が滅して、上座部と大衆部にわかれ
大衆部は、インドのナーランダ大学に入っていたようです。
ナーランダ大学の座主のかたもいたよう
釈迦から別れた、ダイバダッタの仏教も三蔵法師がインドにいったとき、あったとの記録や、釈迦をのぞいた過去六仏を拝んでいた記録があります。
仏教部派の一つ。大乗仏教側からは〈小乗仏教〉と貶称された部派仏教のうちの有力な一派であった。サンスクリットで,マハーサンギカMahāsaṅghikaといい,また,パーリ典籍の《ウパーサカジャナーランカーラ》には,マハーサンギヤMahāsaṅghiyaという名称で呼ばれている。仏教の開祖釈迦(前463-前383ころ)の滅後100年ころ,北インドのバイシャーリーで〈十事の非法〉と呼ばれる事件がおきた。それは,旧来通り戒律を厳格に守るべきであると主張する長老たちと,例外を認めて戒律を少し緩やかに守ってもよいではないかとする進歩的な比丘(びく)たちとの対立であった。例えば,主要なテーマには,金銀(金銭・銀銭)の授受についての項目があった。保守派のヤシャスやレーバタなどの西・中インドの長老たちは,当然のこととしてこれに反対した。すでに金銀を受け取っていたバイシャーリー(バッジ族)の比丘たちや彼らに同調する進歩的な考えをもつ比丘たちは長老たちの決定に従わなかった。この事件を契機として,比較的若い僧を中心とした進歩派グループは,あくまでも伝統を墨守する保守派の長老たちと袂を分かつことになった。これを仏教教団の〈根本分裂〉という。前者は大衆部と称し,後者は上座部と呼ばれ,その後分裂を繰り返し,18部あるいは20部に分派した。なお大衆部は,玄奘(602-664)や義浄(635-715)の時代まで四大部派の一つとしてインドに存続した。
初期の大乗仏教経典の、法華経や大般若経は、呪術的要素がすでに入っていました。
ヒンズー教に対抗するために、大衆用に取り入れていったのではないかと思います。
法華経(ほけきょう、ほっけきょう、梵: Saddharma-puṇḍarīka-sūtra)は、大乗仏教(密教も含まれる)の代表的な経典。大乗仏教の初期に成立した経典であり、法華経絶対主義、法華経至上主義が貫かれており、法華経が開発した観世音菩薩や地蔵菩薩(地持菩薩)、文殊菩薩、普賢菩薩は密教に引き継がれている。同時に呪術的な面も色濃く持っており、密教経典群への橋渡しとしての役割を無視することはできない。
Wikipedia参照
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こないだ、チベット仏教には髪を伸ばした僧侶や妻帯する僧侶が昔からいるんで調べました。
宗教者と社会生活する大衆の教義と修行法の違いをよく考えて社会生活に生かして行けば良いと思っているんですがね。
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検索するともっと書いてありますから、検索してください。
ンガッパ(チベット文字:སྔགས་པ་; ワイリー方式:sngags pa ; 梵: mantrin、真言持者の意)とは、主にチベット仏教ニンマ派の在家の密教行者やヨーガ行者(rnal 'byor pa、Yogin)を指す。広義には、チベット仏教やボン教において、僧院に属さずに、さまざまな伝統や修練や技芸、とりわけ密教、シャーマニズム、チベット医学、ゾクチェンなどに従事する人々が含まれる。ガクパ、ンガクパとも表記される。ンガッパ(sngags pa)という語は文法的には男性形であり、女性であれば、ンガクマ(sngags ma)またはンガクモ(sngags mo)となる。伝統的には、ンガッパは髪を伸ばして髷を結い、出家僧がサフラン色(黄色)の衣を着るのに対して、ンガッパは白い衣を身にまとう。
Wikipedia参照
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煩悩を無くしても死なないですから
煩悩は、自我や意識に入っている苦悩の自我
他の自我や意識は残っていますから。
煩悩(ぼんのう)とは、仏教用語で「心身を悩まし煩わせる心のはたらき」を意味する言葉です。迷いや苦しみの原因となる心のけがれを指し、欲望や欲求、妄念、妄執を示す言葉としても使われます。
煩悩には、次のような種類があります。
貪瞋痴(とんしんち)の「三毒」と呼ばれる3つの煩悩。貪は物欲や金銭欲、名誉欲などの欲、瞋は怒りの心、痴は物事を正しく判断できない愚かさのことです。
根本煩悩「貪・瞋・痴・慢・疑・悪見」の6種。
枝末煩悩、十煩悩など、さまざまな説があります
釈迦の悟りは、智慧の修行の悟り
八正道の中道の悟り
仏教の無や空は一般用語の意味と違うのも説明してきました。
欲や愛が悪いのではない
苦悩の煩悩や執着や愛欲などの苦悩に変わるから
苦悩に変わらない修行です。
AI による概要
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自我(じが)とは、自分自身を認識し、自己意識を持つことを指します。また、ある事柄を自分のもの、あるいは自分に関係があるものとして考えることを意味します。
自我の関連する概念には、次のようなものがあります。
自尊心:確たる自分を持ち、自分自身を大切にする心
エゴ:自分自身を中心に考え、それに沿った自分の考えや感情、欲望を持つこと
無我:仏教の重要な概念で、自我と対をなす概念
心理学や精神分析学では、自我の概念が次のように定義されています。
心理学では、意識の主体、自我意識を指します。精神分析学者のジークムント・フロイトは、人間の精神は「エス」「自我」「超自我」の3層構造でできており、自我は「エス」と「超自我」のバランスを取る機能を担うと定義しました。
哲学では、他人や外界と区別された認識、行為の主体であり、体験内容が変化しても同一性を持続する意識の統一体を指します。
自我は、概ね2歳ごろまでに芽生える感覚とされています。自我があることで、自分で決定して行動できるようになります。
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(読み)ハッショウドウ
デジタル大辞泉 「八正道」の意味・読み・例文・類語
はっ‐しょうどう〔‐シヤウダウ〕【八正道/八▽聖道】
仏語。修行の基本となる8種の実践徳目。正見・正思惟しょうしゆい・正語・正業・正命・正精進・正念・正定しょうじょう。
共同通信ニュース用語解説 「八正道」の解説
八正道
釈迦しゃかが最初の説法で説いたと伝えられる修行の八つの基本。正しい見解、決意、言葉、行為、生活、努力、思念、精神統一を言う。
出典 共同通信社 共同通信ニュース用語解説共同通信ニュース用語解説について 情報
精選版 日本国語大辞典 「八正道」の意味・読み・例文・類語
はっ‐しょうどう‥シャウダウ【八正道・八聖道】
〘 名詞 〙 仏語。仏教の基本的な八種の実践法。正見(四諦の道理を正しく見ること)、正思惟(正しく考えること)、正語(正しく語ること)、正業(正しい行ないをすること)、正命(正しい生活をすること)、正精進(正しい努力をすること)、正念(正見を得る目的を念じ忘れないこと)、正定(正しく清浄な禅定に入ること)の称。八正。
[初出の実例]「池の浪も、五根五力・七菩提分・八正道を述べ説くと聞ゆ」(出典:栄花物語(1028‐92頃)玉のうてな)
[その他の文献]〔中阿含経‐五六〕
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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