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インドの仏教哲学と龍樹

他のSNSの仏教グループで、インド仏教哲学をよくわかってないのに、本まで出しているかたに絡んでこられたわ。
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不滅とか不変とか言っているのは、インドの他の哲学やバラモン教です。
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ヒンドゥー教の6つの正統派では、すべての生命体(Jiva)にはアートマンが中に存在しているとの見解を持ち、これは「体と心の複合体」とは異なるものである。この見解は仏教と大きく異なる点であり、仏教では常一主宰じょういつしゅさい(永遠に存続し・自主独立して存在し・中心的な所有主として全てを支配する)な我の存在を否定して無我説を立てた。

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釈迦の前から空や無の理論はあったと思っていますよ。

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無所有処(むしょうしょ, ākiñcañña-āyatanaṃ)は、無色界の(下から数えて)第3天。いかなるものもそこに存在しない三昧の境地。九次第定のひとつ。

空は無辺なりと観じて、空を破した人が、さらに識が三世(過去・現在・未来)にわたって無辺であるを厭(いと)い、所縁共に所有なしと観じ、この行力に依って生まるる処であるから、無所有処地という。何も存在しないと観察し達観する事。

聖求経では、釈迦が師匠のアーラーラ・カーラーマより無所有処の教えを聞いたと記されている。
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釈迦によれば、そらも空になるかと
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「常に気をつけて、世界を空であると観ぜよ」 -- 『スッタニパータ』1119偈
「この講堂には牛はいない、牛についていえば空(欠如)である。しかし比丘がおり、比丘についていえば空(欠如)ではない」 -- 『小空性経』(中部経典、中阿含経)
空世間経にて釈迦は、六根とそれにより生じる六境を挙げ、それら自己または自己に関係するあらゆるものが空であると説いている。

suñño loko suñño lokoti bhante vuccati, kittāvatā nu kho bhante suñño lokoti vuccatīti?
Yasmā ca kho ānanda, suññaṃ attena vā attaniyena vā, tasmā suñño lokoti vuccati.

大徳よ、「世間は空である、世間は空である」と〔如来は〕仰られますが、
大徳よ、どのような点から「世間は空である」と仰られるのでしょうか。
アーナンダよ、我(attena)、あるいは我所(attaniyena)が空なるものであることから、「世間は空である」と〔如来は〕説くのである。

—パーリ仏典, 相応部 六処相応 空世間経 35-85, Sri Lanka Tripitaka Project
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私は、実体がないは
物質論ではなく、心の実体がない説明だと思っています。
うまく説明できませんが

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五蘊皆空とは、人は因と縁のつながりであり実体のないものであるという意味です。ここでは五蘊に限らず、「皆空」という考え方は万物に共通すると説いています。

「不生不滅」は因と縁が結びつくか離れるかというだけなので、生まれることも滅することもないという意味です。万物は因と縁のつながりなので、汚れることも増えることも減ることもないと説いています。

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仏教における因縁

一切の存在は、因縁によって生じ、因縁によって滅する。因縁によって生滅するという道理を因縁生滅の理といい、因縁によって生じることを因縁生、縁生、縁成、縁起などという。因縁によって生滅する一切の法はそのまま空なる存在であるという道理を因縁即空の理という。パーリ仏典では相応部因縁篇(Nidana-vagga)などで語られる。一切の現象は原因によって現れる、すなわち「偶然」「突然」「神による創造」などは否定される。

初期の仏教では因(hetu)も縁(pratyaya)も、ともに原因を意味する言葉であり、後に区分が生じて因を原因、縁を条件、とみなした。

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古代は、自分で見えた、感じただけのマクロ科学で、今の科学に通じてはくると私は、言っていますが
古代は、粒子や量子などまったくわかりませんでした。
粒子や量子だと言っているのは、拡大解釈だなと思っています。

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粒子や量子なら、実体があるのではありませんかね?

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諸行無常
諸法無我

この世や我は不変なものはない、因縁により生じたもので実体性がないの教えなんでは?

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私も龍樹の空のほうですよ、今は、チベット仏教のほうで、チベット仏教普及協会正会員ですから

龍樹は、釈迦の無も空だと言っています。
無も空も言語表現なので、いろいろ混ざっていますね。

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龍樹(ナーガールジュナ)は、説一切有部が諸法に固有の性質(自性)を認めたうえで縁起や因果を説明することを批判した。龍樹は、諸法は空すなわち無自性であるから縁起し、また縁起するから自性をもたず空であるとした。

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『中論』は、勝義諦(真諦)と世俗諦(俗諦)という2種の真理があるとする二諦説を述べる。前者は直接認識された非相対的な世界であり、後者は言語によって概念的に認識された相対的な世界である。言葉では表現できない釈迦の「さとり」は真諦であり、言葉で表現された釈迦の言葉を集めた経典などは俗諦であるとされる。さらに、龍樹は「無自性空」から「中」もしくは「中道」もほぼ同義語として扱い、釈迦の中道への回帰を説いている。

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無自性空とは、あらゆる存在は縁起によって成立しており、不変の独自性はもたない(無自性)という大乗仏教の思想です。
この思想は、初期経典でも説かれていましたが、大乗仏教の時代になって『般若経』などによって強調されるようになりました。
無自性空の思想を理論化したのが、2世紀後半から3世紀前半にかけて活躍したナーガールジュナ(龍樹)で、彼の主著は『中論』です。ナーガールジュナは、飛蚊症という眼病のたとえで、あらゆる存在は縁起によって現れてくるが、それらは空を本質とする(空性)と説明しました。
空という梵語は「シューニャ」と発音され、「無」とも漢訳されますが、語根の「シュヴィ」には「膨れる、成長する」という意味もあります。

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大乗仏教をやっているかたで、龍樹をしらないかたがたくさん
みんな釈迦の教えだと思っているかたがたくさん

龍樹(りゅうじゅ、: नागार्जुन、Nāgārjuna、テルグ語: నాగార్జునుడు、チベット語: ཀླུ་སྒྲུབ、klu sgrub、タイ語: นาคารชุนะ)は、2世紀に生まれたインド仏教である。龍樹とは、サンスクリットナーガールジュナの漢訳名で、日本では漢訳名を用いることが多い。中観派の祖であり、蓮如以後の浄土真宗では八宗祖師と称される。龍猛(りゅうみょう)とも呼ばれる。

  • 真言宗では、龍猛が「付法の八祖」の第三祖とされた。龍樹が密教を説いたかどうかや、第五祖金剛智との時代の隔たりから、龍樹と龍猛の同一性を疑問視する意見もある。

  • 浄土真宗では、七高僧の第一祖とされ龍樹菩薩龍樹大士と尊称される。

Wikipedia参照


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