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インド大乗仏教の歴史

インド大乗仏教を知っていくには、インドには古代に仏教大学が二つあり、そこからインド哲学や他の宗派や医学やいろいろな学問が発展して行ったのを知っていなければ、日本仏教との違いがわからないだろう。

そして、インド仏教大学から直伝のチベット仏教を調べていかないと、インド仏教と中国や日本の仏教との違いも理解できないだろう。

noteで少しずつ説明していくつもりではいますが

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ナーランダ僧院
(ナーランダそういん、Nalanda Mahavihara)は、インドビハール州ナーランダ県中部にかつて存在した仏教の学問所である。ナーランダ・マハーヴィハーラ、ナーランダ精舎、那爛陀寺、ナーランダ大学ともされる。歴史家の間では、世界初の全寮制大学で、古代世界で最も偉大な学問の中心地の一つであると考えられており、ラジャグリハ(現在のラジギール)近郊、パタリプトラ(現在のパトナ)の南東約90キロの場所に位置し、427年から1197年まで運営されていたとされる。

ビハール州ナーランダーのナーランダー・マハーヴィハーラ考古遺跡
インド

ナーランダの遺跡

英名Archaeological Site of Nalanda Mahavihara at Nalanda, Bihar仏名Site archéologique Nalanda Mahavihara à Nalanda, Bihar面積23 ha (緩衝地帯 57.88 ha)登録区分文化遺産文化区分遺跡登録基準, 登録年2016年(第40回世界遺産委員会座標

北緯25度08分12秒 東経85度26分38秒座標:

北緯25度08分12秒 東経85度26分38秒備考2018年に名称変更。公式サイト世界遺産センター(英語)地図

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ナーランダはグプタ朝時代に設立され、仏教徒・非仏教徒の両方を含む、多くのインド人ジャワ人の後援者に支えられていた。約750年にわたり、その教授陣には大乗仏教の最も尊敬される学者たちが在籍した。ナーランダ大乗仏教では、ヨーガカラやサルヴァスチバーダなどの6つの主要な仏教宗派・哲学、ヒンドゥー教ヴェーダとその6つの哲学、さらには文法、医学、論理、数学などの科目を教えていた。

また7世紀には中国からの巡礼者が来訪し、玄奘三蔵は657冊のサンスクリット語仏典を、義浄は400冊のサンスクリット語仏典を持ち帰り、それらの仏典は東アジアの仏教に大きな影響を与えた。ムハンマド・バフティヤール・ハルジーの軍隊によって略奪・破壊されたが、その後一部が修復され、1400年頃まで存続した。今日では、2016年に世界遺産に登録された。


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ヴィクラマシーラ僧院(ヴィクラマシーラそういん、Vikramaśilā Mahāvihāra)とは、現在のインドビハール州東部バーガールプル県英語版)に存在した精舎(マハーヴィハーラ)。西方のビハール州中部にあったナーランダー僧院と共に、後期インド仏教の主要な拠点となった。ヴィクラマシーラ大学ヴィクラマシーラ大僧院超岩寺超戒寺とも。

Vikramashila Mahāvihāra

Vikramaśilā Mahāvihāraの跡地

別名ヴィクラマシーラ僧院、ヴィクラマシーラ大僧院、超岩寺、超戒寺所在地ビハール州インド座標

北緯25度19分29秒 東経87度17分05秒座標

北緯25度19分29秒 東経87度17分05秒種類学院、僧院歴史完成8世紀から9世紀の間放棄13世紀出来事1193年ムハンマド・バフティヤール・ハルジーによって破壊

概要

編集

ヴィクラマシーラ大学は、古代ベンガルとマガダにパーラ朝の王ダルマパーラ英語版)によって、8世紀末から9世紀初頭に創設された。チベット人の資料によれば、5つの大精舎があったとされている。

ヴィクラマシーラはもっとも大きな仏教僧院のひとつであり、100人を越える教師と1000人を越える生徒がいた。そこでは著名な学者が生み出され、彼らはしばし外国へ招待されて、仏教の教えや文化、学問を広めた。彼らの中で最も高名なのはアティーシャ(Atiśa Dīpaṃkara Śrījñāna)で、1042年にチベット西部のグゲ王朝に招かれて出国し、チベット仏教のカギュ派サキャ派ゲルク派チョナン派など新訳派英語版)の先駆となるカダムの法流(後に弟子ドムトン英語版)がカダム派英語版)を創始)を打ち建てた。哲学・文法・形而上学・インド仏教などのような主題がそこで教えられたが、この系統は、ツォンカパ大師のゲルク派に影響を与える密教の重要な一派でもあった。

1193年ナーランダー僧院が破壊されたのと同様、その10年後の1203年に、アイバク配下の将軍ムハンマド・バフティヤール・ハルジー率いるテュルク=イスラム勢力によるセーナ朝侵攻の過程で、この大学は破壊された。こうしてインド仏教の命脈は絶たれることになる。

ヴィクラマシーラは主にチベット史料を通して知られている。特に、チベット僧のターラナータ英語版)(1575-1634年)が書いた、16-17世紀のチベット寺院の歴史によって知られている。

Wikipedia参照

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サムエ宗論
サムエしゅうろん

チベットに仏教が本格的に導入された直後,布教の主導権をめぐり,インド仏教と中国仏教の正統性を争った一連の論議。ティソン・デツェン王はインドからシャーンタラクシタを招いてタクマルにサムエ寺を建立し,僧伽を発足させた (779) 。のち中国から 781年に2人の僧を招き,敦煌陥落の頃 (786) チベットに禅僧摩訶衍 (マハヤーナ) を呼んで布教させた。摩訶衍は無念,無想,無作意による悟得の教義を説いて 791年には皇后を出家させるまで成功した。シャーンタラクシタ亡きあとのインド仏教系の僧は禅の教義に疑義を示し,文書による論争を重ね,禁教にいたらせたが,禅の信徒の抵抗で 794年禁教が解かれた。そこで王はインドからカマラシーラを呼び,サムエのチャンチュプ院でその面前に摩訶衍を論破させ,妙観察智を捨てた無念の禅を退けたので摩訶衍は敦煌に去り,インド仏教の正統性が認められ,主導権が確立されたと伝えられる。

コトバンク参照



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