これを読んで私は思はず笑ってしまった。そのとほりなのだ。管見では、Twitterなどで後藤と小島とを崇拝してゐる文学ファンは、だいたい保坂和志かぶれである。さらにそれらが古本でしか手に入らないことに嘆き(電子版があるのにもかかはらず)、紙の本の品切れや絶版に猛り狂って(電子版があるのにもかかはらず)、世間のためと称して再刊を痛切に願ふ傾向にある(電子版があるのにもかかはらず)。あらゆるところに、HOSAKA、である。
そして、電子書籍に忌避的な文学関係者が多すぎるのだ。
実は私もさうだった。典型的な古本アサりの人間で、電子書籍を小莫迦にしてゐた。だが不意にKindleを使ってみた。ものすごく便利だった。いたく感心し、もう電子書籍は手放せぬと軟化するほどだった。
だから電子書籍にいとはしげな、紙のほうが絶対いいと頑迷に信じこんでゆづらない文学ファン、知識人、そして出版人よ。きみたちに教へてあげたい。電子より紙がいいなどと言ふのは、もはや不毛な言説だ。どこまで読んだのか実感が湧かないといふ、電子を使ったことがないゆゑの反駁も無效だ。抵抗はよせ。出版界の未来は電子書籍にかかってゐる。
と言ってもここでKindleの利点などを書きつらねて販促するつもりはない。毛頭、ない。
私は、ある小説家が電子書籍に対して着目するのに注目するのである。
あの頑として電子化を拒んだ東野圭吾が、新型ウイルスの流行に免じて7作品配信を許可したといふ話ではない。電子に先見の明を見いだして音や画像付きの電子小説をつくったはいいが、時期尚早でまったく売れなかった村上龍でもない。
大江健三郎である。
冒頭の日本と欧米との文藝誌の比較は、暗に批判してゐるとも、不安視してゐるとも取れる内容だ。要するに大江は、日本の文藝誌は小説の「量」で水準を高めてゐる一方、欧米のほうは「質」で水準を高めてゐる、と書いた。
そして《多様な短篇の勢ぞろいのわきにあって、あまり気勢のあがらぬ特集のなかで》とは現在も共通する、いささかたりとも惹かれぬ文藝誌の特徴で、《その徹底にこそ文芸誌の競争的な共存の先行きがかかると思われるが》といふ指摘は、いまではもう自明の、将来的な先行きが暗雲である事実の明言を避けてゐるとも取れる。
それはともかく、このあと金井の『電子小説の未来』からの引用がつづく。引用の趣旨は「DTPで本などを個人で簡単に作れるのは、いざとなれば心強い。またCD-ROMによる小説も考慮する必要がある」といふものだ。そして、最後の引用はかうである。
ここで提示したCD-ROMもフロッピーも、いまではとうてい実現されるはずのない古臭い展望だが、要するに大江はここで、金井が電子小説の展望にいだく期待と心配を引用したのだ。
あるいは、大江は別の日の朝日新聞の「文芸時評」でかう書いた。
《しかも、こうした新メディアで培養された新しい想像力が受けとめられる下地は、すでに読者レヴェルで広く準備されているのではないだろうか?》とあるが、石黒のこれが候補になった1993年の芥川賞選評を見ても、大半の選考委員らは好奇の目で見てゐたことがわかり、やはり電子としては早すぎる時期の作品ではないかと思ふ。その後、石黒は医者のたまごとSF作家の二足のわらぢとして過し、いまはもっぱら医者として働いてゐる。
ちなみに、石黒は実際にKindleで自著を販売してゐる。そのうちのひとつ『医者の本棚、作家の本棚』の宣伝文にはかうある。
さて、大江健三郎が電子に対して、好意的な興味を示してゐると取れる箇所はここだけではない。ほかにもあるのだ。大江健三郎が答へた106の質問のひとつである。
まあ一種の大江ユーモアかもしれないが、《その時点で最大の(手に持てる範囲で)太陽電池式の》といふ修飾がなんとも子供じみた贅沢なねがひで可笑しい。
あと私は気づいてしまったのだが、井上ひさしや大江健三郎が実践してゐた、本に直接赤鉛筆で赤線を引いてあとでそこを参照するといふやり方は、電子になって気兼ねなく容易にできるやうになった。だから、いまでは赤鉛筆法はまったく古くさい価値観と言はねばならない。
丸谷才一が分厚い本をふたつに裁断して、片方だけポケットにつっこんだり紙をむしりとったりして持ち歩くなどといふ、聞き手の文藝春秋の湯川豊が悲しがってゐた方法も、いまではまるきり莫迦である(『思考のレッスン』文春文庫)。なほ弟子の池澤夏樹は自著を積極的に電子化してゐるが、電子化してゐないロベルト・ボラーニョのあの分厚い前衛小説『2666』はさすがに読むときに裁断したと書いてゐた(『知の仕事術』インターナショナル新書)。
池澤いはく
とのことだが、Kindleでも書き込めるししをりも貼れるので、さうかなと私は思ふのだが。
あ、さういへば北杜夫も冗談か何か知らんが、新本の外箱は早急に捨て、カヴァーはビリビリに破ってこれまた捨て、まっしろな紙は全反射して目に悪いので、土で汚したりくしゃくしゃにしたりするなどと書いてゐた(出典は忘れた)。