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電子ブックに好意的な大江健三郎

栗原 〔…〕『文學界』の「新人小説月評」が終わったあとブログに補足とまとめを書いたんですが、山下さんの問題って、保坂和志に行き着くんですよね。磯﨑憲一郎、柴崎友香、青木淳悟、佐々木中、古谷利裕、山下澄人などなど、保坂の庇護下に若い作家が集まっている印象がありますよね。
小谷野 昔の弟子みたいな感じ?
栗原 どうなんでしょう。実際どうなってるのか知らないんですけど、保坂さんの小説論『小説をめぐって』に出てきた問題を踏襲して書いているような人が何人かいるんですよね。山下さんもそうで、人称を操作する手法は、保坂が問題として見出したことを方法として反復しているように見える。「新人小説月評」をやっていたときに、この手の人称をどうこうする作が偶然というには多くて、気になって調べたら、どうも保坂和志が大本らしい。二〇一一年に新潮新人賞を獲った滝口悠生も人称を操作する小説を書いているんですが、保坂の影響であることを明言してます。ブログにはそのへんのことを書いたんですが。保坂が見つけた時には目新しかったかもしれませんが、今やルーチンになってしまっていて、ルーチンになった実験的手法ってどうなのよと。

小谷野敦、栗原裕一郎『芥川賞について話をしよう1』週刊読書人

栗原 〔註。後藤明生は〕知る人ぞ知る、いま著作が手に入らない作家みたいな感じで、古本好きの人たちにも珍重されている。小島信夫にしても、保坂和志が持ち上げ出すまでは、江藤淳『成熟と喪失』との絡みで『抱擁家族』が言及されるくらいで、こぞって必読扱いされる作家じゃなかったですよね。『別れる理由』に関しては、坪内祐三が評論を連載してまとめましたが。

前掲書

 これを読んで私は思はず笑ってしまった。そのとほりなのだ。管見では、Twitterなどで後藤と小島とを崇拝してゐる文学ファンは、だいたい保坂和志かぶれである。さらにそれらが古本でしか手に入らないことに嘆き(電子版があるのにもかかはらず)、紙の本の品切れや絶版に猛り狂って(電子版があるのにもかかはらず)、世間のためと称して再刊を痛切に願ふ傾向にある(電子版があるのにもかかはらず)。あらゆるところに、HOSAKA、である。
 そして、電子書籍に忌避的な文学関係者が多すぎるのだ。
 実は私もさうだった。典型的な古本アサりの人間で、電子書籍を小莫迦にしてゐた。だが不意にKindleを使ってみた。ものすごく便利だった。いたく感心し、もう電子書籍は手放せぬと軟化するほどだった。
 だから電子書籍にいとはしげな、紙のほうが絶対いいと頑迷に信じこんでゆづらない文学ファン、知識人、そして出版人よ。きみたちに教へてあげたい。電子より紙がいいなどと言ふのは、もはや不毛な言説だ。どこまで読んだのか実感が湧かないといふ、電子を使ったことがないゆゑの反駁も無效だ。抵抗はよせ。出版界の未来は電子書籍にかかってゐる。

 と言ってもここでKindleの利点などを書きつらねて販促するつもりはない。毛頭、ない。
 私は、ある小説家が電子書籍に対して着目するのに注目するのである。
 あの頑として電子化を拒んだ東野圭吾が、新型ウイルスの流行に免じて7作品配信を許可したといふ話ではない。電子に先見の明を見いだして音や画像付きの電子小説をつくったはいいが、時期尚早でまったく売れなかった村上龍でもない。
 大江健三郎である。

 わが国の文芸誌は、世界的に見て特殊なものだが、新年号はさらに、いつも不思議な華やかさである。特殊なというのは、軒並み赤字で少部数発行されており、それでいて文壇現象の主流をしめていること。出版社がこちらは利潤をあげる場合もある単行本を作り出す意図で、細切れの長編を永ながと連載するのと並行して、多くの短編が月々掲載されること。その慣行が、わが国の短編の水準を高めるとともに、欧米では一般的な書き下ろし長編を例外的なものとしていること。
 新年号の華やかさがあらためて強調するとおり、文芸誌の編集には、常連から久しぶりの登場まで、いかに多くの作家たちの仕事を集めるかに努力がはらわれている。したがって、長期にわたる編集構想と、集めた作品の取捨選択に実際の編集の力点がかかる、欧米の文芸誌の例とはことなってくる。
 多様な短編の勢ぞろいのわきにあって、あまり気勢のあがらぬ特集のなかで――その徹底にこそ文芸誌の競争的な共存の先行きがかかると思われるが――『小説は何処へゆくか』(「群像」)におさめられた金井美恵子『電子小説の未来』がきわだって見える。金井氏の戦略は編集部が本当につきつめて考えているかどうか不明な問いかけを、誇張した切実さにおいて受けとめること。

「文芸時評」朝日新聞
大江健三郎『小説の経験』朝日文庫所收「17 小説の行方」より

 冒頭の日本と欧米との文藝誌の比較は、暗に批判してゐるとも、不安視してゐるとも取れる内容だ。要するに大江は、日本の文藝誌は小説の「量」で水準を高めてゐる一方、欧米のほうは「質」で水準を高めてゐる、と書いた。
 そして《多様な短篇の勢ぞろいのわきにあって、あまり気勢のあがらぬ特集のなかで》とは現在も共通する、いささかたりとも惹かれぬ文藝誌の特徴で、《その徹底にこそ文芸誌の競争的な共存の先行きがかかると思われるが》といふ指摘は、いまではもう自明の、将来的な先行きが暗雲である事実の明言を避けてゐるとも取れる。
 それはともかく、このあと金井の『電子小説の未来』からの引用がつづく。引用の趣旨は「DTPで本などを個人で簡単に作れるのは、いざとなれば心強い。またCD-ROMによる小説も考慮する必要がある」といふものだ。そして、最後の引用はかうである。

 こうした遊びもある展開をしながらも、金井氏が本質的なものへのまなざしを失うことはない。NECが企画しているという、製作コストが本よりも安いフロッピーの書きおろし計画を逆手にとってこういう。
《小説は滅び去ってもいっこうにかまわないものではあるのだが、しかし、だからといって、CD-ROMという可能性のなかで、コスト・ダウンや在庫や倉庫代金や、森林資源保護やフロッピー再利用のためだけに、単行本が文庫化される安易さでもって利用されてもいいものでもないだろう。パソコンの検索システムのハード環境の改善進歩と共に、小説家は書くことがすなわち読むことでもあることを一種のゲーム感覚として再構築しなければならず、そこには様々な可能性が開かれているはずなのであるから、「98ブックオリジナル」小説は是非とも書かれなくてはならないのである。》

前掲書

 ここで提示したCD-ROMもフロッピーも、いまではとうてい実現されるはずのない古臭い展望だが、要するに大江はここで、金井が電子小説の展望にいだく期待と心配を引用したのだ。

 あるいは、大江は別の日の朝日新聞の「文芸時評」でかう書いた。

 今回の芥川賞候補作に、受賞は逸したが、不思議な魅力をそなえた作品があった。石黒達昌の『平成3年5月2日、後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士、並びに、』。長すぎるタイトルは、本来なかったもので、書き出しの行がそのままあてられた様子。加えて印刷は横組みされており、表(Table)、写真、顕微鏡写真や「発光パターンを音階表示したもの」の図表(Fig.)がそえられている。
〔…〕
 しかしさらに興味深いのは、石黒氏の想像力が、この作品を電子ブックで出版する――表も図表もコンピューターの軽やかな操作で呼び出すことができるはずの――可能性を想定することで、自由に開花したと感じられることである。文体も画面表示を読むにふさわしい明快さ。しかも、こうした新メディアで培養された新しい想像力が受けとめられる下地は、すでに読者レヴェルで広く準備されているのではないだろうか?

前掲書「43 発想の卓抜さ」

 《しかも、こうした新メディアで培養された新しい想像力が受けとめられる下地は、すでに読者レヴェルで広く準備されているのではないだろうか?》とあるが、石黒のこれが候補になった1993年の芥川賞選評を見ても、大半の選考委員らは好奇の目で見てゐたことがわかり、やはり電子としては早すぎる時期の作品ではないかと思ふ。その後、石黒は医者のたまごとSF作家の二足のわらぢとして過し、いまはもっぱら医者として働いてゐる。
 ちなみに、石黒は実際にKindleで自著を販売してゐる。そのうちのひとつ『医者の本棚、作家の本棚』の宣伝文にはかうある。

 最近私は写真やシェーマ(図表)を取り入れたノンフィクション風の小説を発表し、大江健三郎氏によって「電子ブック」への可能性を開くものという評価をいただきました。写真もその一つですが、文字以外の媒体とのリンクが可能になるというのはコンピュータを使用する大きなメリットの一つです。(「はたして『新しい』文学は存在するのか?」より)

石黒達昌『医者の本棚、作家の本棚』Kindle版の宣伝文より

 さて、大江健三郎が電子に対して、好意的な興味を示してゐると取れる箇所はここだけではない。ほかにもあるのだ。大江健三郎が答へた106の質問のひとつである。

106、無人島に一冊だけ本を持って行けるとしたら、何を選ばれますか。
その時点で最大の(手に持てる範囲で)太陽電池式の電子辞書。

『大江健三郎 作家自身を語る』新潮文庫

 まあ一種の大江ユーモアかもしれないが、《その時点で最大の(手に持てる範囲で)太陽電池式の》といふ修飾がなんとも子供じみた贅沢なねがひで可笑しい。

 あと私は気づいてしまったのだが、井上ひさしや大江健三郎が実践してゐた、本に直接赤鉛筆で赤線を引いてあとでそこを参照するといふやり方は、電子になって気兼ねなく容易にできるやうになった。だから、いまでは赤鉛筆法はまったく古くさい価値観と言はねばならない。
 丸谷才一が分厚い本をふたつに裁断して、片方だけポケットにつっこんだり紙をむしりとったりして持ち歩くなどといふ、聞き手の文藝春秋の湯川豊が悲しがってゐた方法も、いまではまるきり莫迦である(『思考のレッスン』文春文庫)。なほ弟子の池澤夏樹は自著を積極的に電子化してゐるが、電子化してゐないロベルト・ボラーニョのあの分厚い前衛小説『2666』はさすがに読むときに裁断したと書いてゐた(『知の仕事術』インターナショナル新書)。
 池澤いはく

ぼくの電子書籍の使いかたとしては、書評をする本を読むのには使わない。書評するときは書き込んだり、タグを貼ったり、それから前から後ろ、後ろから前へと、行きつ戻りつしながら何度も読みたい。しかし、電子書籍ではこの『前後』ができない。だから、例えばエンターテインメント小説のように、冒頭から読み始めて、読み続けて、読み終わる類いのものなら、電子書籍でもいい。つまり一直線に一回読んでおしまいのものは、電子書籍でも読める。一方、行きつ戻りつしながら、中身全体を自分の頭に移す読書をするときはまるで役に立たない

池澤夏樹『知の仕事術』インターナショナル新書

 とのことだが、Kindleでも書き込めるししをりも貼れるので、さうかなと私は思ふのだが。
 あ、さういへば北杜夫も冗談か何か知らんが、新本の外箱は早急に捨て、カヴァーはビリビリに破ってこれまた捨て、まっしろな紙は全反射して目に悪いので、土で汚したりくしゃくしゃにしたりするなどと書いてゐた(出典は忘れた)。

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