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【第三回】そしてクーデターへ「エジプト戦役」 [歴史発想源/大望の凱歌・英雄戴冠篇]

現在『ビジネス発想源 Special』の「歴史発想源」では、18世紀のヨーロッパを舞台とする「不屈の翼成・中欧聖戦篇」を連載中です。

そこで、この「トップリーダーズ」では、その次の世代の話となる「大望の凱歌・英雄戴冠篇 〜ナポレオンの章〜」の前半部分を期間限定で掲載いたします。

「中欧聖戦篇」を理解する上で、「英雄戴冠篇」を一緒に読めば、複雑な近世ヨーロッパ史がより分かりやすくなるでしょう。

現代の会社経営やマーケティング戦略のヒントが一つでも見つかると嬉しいです。それでは「英雄戴冠篇」、第3回をどうぞ!


02英雄戴冠篇TOP

【第三回】そしてクーデターへ「エジプト戦役」


■最大のライバル、イギリスのネルソン提督登場!


 ナポレオンが海軍王国イギリスを打倒するために、莫大な利益をもたらしているインド航路を遮断するべくエジプトの制圧を進言した時に、真っ先にその策に乗ったのは総裁政府のトップにあたる、総裁ポール・バラスでした。
 5人の総裁の中でも最もリーダー格だったバラスは、そのエジプト遠征の総司令官として、発言者のナポレオンを任命します。
 1798年7月3日、ナポレオン率いるフランス軍はエジプトの歴史ある港湾都市アレクサンドリアを、上陸のその日のうちに占拠しました。

 この頃のエジプトは、名目上はトルコを本拠とするオスマン帝国の支配下にあったのですが、300年近い支配の中で、マムルークと呼ばれる土着化した赴任軍人たちが実質的に統治していました。
 日本の戦国時代でいえば朝廷や幕府の権威から独立していた各地の戦国大名たちのようなもので、オスマン帝国自体の直接の支配力は薄れていたのです。
 フランス総裁政府はオスマン帝国とは友好関係にあったので、ナポレオンのエジプト遠征は、
「友好国オスマン帝国とエジプトの民たちのためにエジプトを勝手な支配者マムルークの手から取り戻す」
という大義名分を掲げていました。

 砂漠の戦いに強い騎馬民族であるマルムークは、ナポレオン軍を追い出すべく2万の兵で対抗します。
 大都市カイロに迫ったナポレオンは、噂に名高いピラミッドの姿を見て、それを全軍のPRに利用することにしました。

「諸君、あれが有名な遺跡ピラミッドだ。4000年の歴史が、諸君たちの戦いを見下ろしているぞ!」

 ナポレオンの叫びに、将兵たちは奮起します。
 そしてナポレオンは、これから始まるマルムーク軍との戦いを
「ピラミッドの戦い」と名付けました。
 これは、プロレスの興行や企画の名前に「巌流島決戦」とか「隅田川の対決」などと名付けたり、JリーグでFC東京と東京ヴェルディ1969の一戦を「東京ダービー」などと呼んだりするネーミング戦略と同じようなもの。
 戦争や戦略にも名称がPR効果をもたらす、ということをナポレオンは分かっていたのです。

 マルムークの騎兵隊は、卓越した馬術を使って猛スピードでナポレオン軍に突撃しました。
 マルムーク軍の強さは、その迅速な突撃によって相手の陣形の中枢まで入り込んで荒らし回り、内部から全軍を壊滅させる、という戦法にあり、この戦法で何百年という歴史を勝ち進んできました。
 ところが、ナポレオンの敷いた陣形は、そのマルムーク軍の戦法が全く効かなかったのです。
 だいたい軍勢というものは古来から円形もしくは正方形で組まれるものであり、マルムーク軍の騎兵隊はどこから突っ込んでもその中央を目指せば必ず勝てました。
 ところが、ナポレオンが組んだ陣形は長方形であり伸縮するので、突撃するにもどこが中心なのかが一見分かりません。
 また銃剣を構えた歩兵が主体となっていたので、どんなスピードで騎兵が突撃してきても遠ければ撃ち殺し、近ければ刺し殺す、という全く形の崩れない近代的陣形だったのです。
 必ず自分たちのいきなりの突撃に恐れるだろう、と思い込んで敵前に突っ込んだマルムーク軍は、ことごとく一斉射撃の的となって撃ち落とされ、銃弾をかいくぐった将兵も銃剣で突き殺され、敵陣をまったく崩せずに倒されていきました。

 こうして「ピラミッドの戦い」は、ナポレオン軍の戦死者がわずか29人だったのに対しマルムーク軍は騎兵隊だけでも3000人もの死者を出し、全体でも2万を超える損害を出して、壊滅しました。
 ナポレオンの圧勝です。
 7月25日、ナポレオンはカイロの入城に成功し、上陸わずか3週間でエジプト征服を果たしたのです。

 しかし、それで安堵はしていられませんでした。
 カイロ入城のわずか1週間後の8月1日、イギリス海軍がフランス海軍の停泊しているアレキサンドリア郊外のアブキール湾を急襲したのです。
 そのイギリス海軍を率いるのは、百戦錬磨の名将、ホレーショ・ネルソン提督。

03エジプト

 ナポレオンは海の戦いではイギリスに勝てないため、ネルソン提督の目を盗んで地中海を渡ってアブキール湾から上陸し、そのアブキール湾にフランス軍の艦隊を停泊させていました。
 アブキール湾には西側に船が進めない浅瀬があり、ナポレオンはフランス海軍の戦艦13隻を、その西の浅瀬の線に沿って南北に縦列に停泊させ、東側の開けた海に向けて側面砲撃体制を整えていました。

 イギリス海軍の名将ネルソンは、自らの危険を承知で自らの乗る旗艦ヴァンガードを東岸から近寄らせて、フランス艦隊に「おっ、自ら射程距離に来るぞ」と、注目を集めさせました。
 その隙に、ヴァンガードと離れた5隻のイギリス戦艦が…

縦列するフランス艦隊の先頭の戦艦の北側に回りこみ、あまり余裕のない西側の浅瀬とフランス艦隊の間に強引に突入したのです。
 浅瀬と縦列する艦隊の間に敵軍が入ってくることはフランス艦隊は全く想定していなかったため、完全に背後を取られる形となります。
 これによって、南北に縦列し東に砲門を向けているフランス艦隊はいきなり挟撃される形となり、北の先頭から1隻ずつ東西からの砲撃で沈められていくことになりました。
 左右を取られたフランス軍は反撃の術もなく、順々にほぼ全ての戦艦が撃沈させられてしまいます。
 こうして、名将ネルソン提督率いるイギリス艦隊は、1隻の戦艦も失うことなく大勝利を収めたのです。
 この戦いは、一般に「ナイルの海戦」と呼ばれます。

 カイロに駐屯していたナポレオン軍の将兵たちは、フランス本国に帰る艦隊を失ったことで、退路を断たれたことに青ざめてしまいます。
 フランス軍のエジプト遠征軍は、完全にエジプトの地に孤立したことになります。
 ところが、将兵たちが不安にうろたえる中、総司令官のナポレオンは、まったく焦ることなく余裕の表情を見せていました。


【教訓1】多少のトラブルにも動じないチームを作る。



■ナポレオン不在の間に、フランス本国滅亡の危機


 なぜエジプトに孤立してしまったフランス軍の中で、ナポレオンだけが焦らず余裕だったのか。
 それは、ナポレオンにはエジプトにいる間にやろうと思っていた事業が山ほどあったからです。
 その一つが、農地開拓でした。
 エジプトはフランスよりも歴史の古い肥沃な大地で、ナイル川を使った灌漑設備を整備すれば食糧も自分たちで作れるようになるし、火薬の原料になるものも豊富に見つかるでしょう。
 ナポレオンはエジプトを植民地化することを考え、エジプトを自給自足の地にする計画も練っていました。
 また陸戦になればイギリスに勝つ自信もあったので、必ずまたイギリスに勝つ機会はくるだろうと考えていたのです。

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