【大内家の野望 新生】 第11話:大内家新当主就任 〜織田信長包囲網
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メールマガジン『ビジネス発想源 Special』にて約8年、400回にわたって連載し、AmazonのKindleストアで多く電子書籍化もされている、歴史から経営やマーケティングのヒントを学ぶビジネスコンテンツ『歴史発想源』。
今年7月に新発売となったコーエーテクモゲームスの歴史シミュレーションゲーム『信長の野望 新生』を使って、その第1章「大内二代篇」の状況から天下統一を目指す番外篇「大内家の野望 新生」を連載しています。
▼第11話:大内家新当主就任 〜織田信長包囲網
■大内義隆、引退して後継者に道を譲る
ついに西日本最大のライバル・毛利元就の毛利家を滅ぼして、九州・四国・畿内に加えて中国地方全域をも支配下に収めた、大内家の当主・大内義隆。中国地方統一エンディングを迎えたが、次は天下統一に向けて動き出す。
今作『信長の野望 新生』では3つのエンディンがあり、1つは最初の地方を統一する地方統一エンディング、1つは全国の半数の城を押さえて朝廷の要職に就く三職推任エンディング、そして全国全ての城を制覇する全国統一エンディングだ。
一応、畿内を制しておいて、かつ全国の半数を支配できれば最強の大名ということで天下平定ということになるらしい。今のところ大内家は畿内制圧という条件はクリアし、城の数も86で、全国半数までは残り17城らしい。
激しい戦国時代を生き抜いた10家の中で、最大兵力でいうと約20万で第2位の北条家を大きく引き離し、大内家は約50万と大きく引き離していることになる。しかし、他の東日本9家が一致団結すれば、1位の大内家は軽く超えてしまう。この辺りが過半数でなければまだ天下平定とは言えないという所以なのだろう。
そして、距離的にも西日本全土の領土から兵を回すわけにもいかないので、そのまま戦力差というわけではない。上位勢とガチンコで戦うと、かなりの消耗戦になるだろう。安心はできない。戦略を間違ってしまうと国家経営を揺るがしかねない。よく考えていこう。
さて、現在の日本の勢力図を見てみる。
これまで同盟を結んできた織田信長の織田家が、大内家が西日本平定に集中している間に、太平洋から日本海を貫いていて、行手を遮る形になっている。つまり、大内家がここからさらに勢力を広げるためには、どうしても織田家と戦わなければならないことになる。
小早川隆景も「織田家については外交関係が変化したときに次の目標とすることもご一考を」と言っている。あと数ヶ月の同盟期間が終わった時に戦うことになるが、織田家は全国3位である約17万の兵力を持っており、大内家は西日本を広く支配しているといっても、前線に回せる兵数で言えばさほど変わらないだろう。かなりの消耗戦になると言ってもよく、もし織田家に勝ったとしても、その疲弊しているところを後方の武田家や北条家に潰されるかもしれない。よく考えなければ。
まずそのために、織田家との同盟期間が切れるまでに、もっと国力を増強できるように内政に力を入れよう。まずは……
本拠地の移動だ。これまでは当初からずっと山口館(山口県山口市)を本拠地としていたが、中部日本を攻略していくためにはあまりにも後方すぎる。かといって遠くに移すと莫大な費用がかかる。そこで徐々に移していくことにして、まずは岡山城(岡山県岡山市)あたりに本拠を移転することにした。そして後方の国々は軍団長に委任して、前線開拓に集中しよう。さらば山口。
そして、次が大内家最大の改革だ。
現在、当主の大内義隆の年齢は59歳。そろそろいつ寿命を迎えてもおかしくない頃だ。事前のテストプレイでは大内義隆が突然亡くなったことで、代替わりはめちゃくちゃ大変だったので、ここは満を持して、生前に隠居して次の世代に後を託すことにする。
史実では大内義隆が「大寧寺の変」で自害後、その甥にあたり、大友宗麟の弟である大内義長を大友家から迎えた後に大内家は滅ぶ。テストプレイでも大内義長が後を継いだら、あまりに能力値が低くて大混乱を起こした。なので今回は、きちんと後継者問題は考えていたぞ。
後継者は、史実では「大寧寺の変」で7歳で殺害されてしまう実子の嫡子、大内義尊(おおうち よしたけ)に決めた。能力値は統率75、政務73とそこそこなのだが、21歳という若さの当主を擁して大内家はさらに若返るのだ。
大内義尊が新しい大内家当主となり、引退した大内義隆は大内家の一将として働くことになる。九州や山口あたりの後方の軍団長は大内義隆に担ってもらって、大内義尊はどんどん東日本へと出ていくことにしよう。
新生・大内家の始まりだ!(タイトル通りになった)
代替わりのデメリットは、忠誠度が多少下がる武将が出てくることともう一つは、「威信」の値がリセットされてしまうことである。朝廷や幕府と結びつくことで大内義隆の「威信」は最大まで上がっていたが、それが一気に低下する。そこで大内義隆が自ら取次役となって、朝廷に対して維新を積み上げていく役に徹することになった。大内義隆は従三位下まで昇進していたが、大内義尊はまずは従六位下から推認を目指していく。
次に外交戦略だ。織田家と全面戦争となれば、その後方の勢力とうまく友好関係を結ばなければならない。残念ながら甲信地方の武田家の武田信玄は織田家と同盟関係にあって共闘してくれない。だが越後の長尾家の長尾景虎(後の上杉謙信)、そして駿河の今川家の今川義元は織田家と同盟関係ではないので、親善を重ねる。
そして、ついにその日がやって来る。
■同盟関係が切れた織田家との全面戦争が始まる
織田家との同盟期限が切れ、停戦が期日となった。四国鎮定の頃からの長い同盟関係ではあったが、ここからはいつ敵対してもいい。織田家は以前から今川家と交戦状態にあったから、うまくタイミングを見計らって、上手に攻めなければ。
翌月、朝廷から使者が来たので謁見などしていると、よく見ると背景の勢力地図の織田家の領地が真っ赤になっている……! 他家が真っ赤になったのは、抗戦がはじまった証である。
え、じっくりタイミングを図ろうと思ってたのに、いきなり対戦中になるなんて。今川家と交戦中のはずの織田家が、一体どこの城からどこを攻めてきたんだ……!? しかし、どこの城を見ても攻められている様子がない。おかしいな……と思ってよくよく見ると、……ん?
画面下に戦闘中の武将の顔が表示されるので、さっきから誰かオッサンの顔が一人出てるなあと思っていたら……。「田辺を取れ!元々俺らのもんだぞ!」と、日本海側の建部山城(京都府舞鶴市)の城主を任せていた龍造寺隆信が、勝手に織田領に攻め込んでいた。なに調子に乗ってんの! こっちは慎重に戦略を組み立てようとしてるのに、龍造寺隊のたった4000足らずで、総勢17万の織田軍を激オコにしてしまった……。こうなったら織田軍との全面戦争しかあるまい。
同盟中の長尾家に、背後をついてもらうことにしよう。長尾景虎には越中から金沢御坊(石川県金沢市)を攻めてもらうことにする。龍造寺隆信隊へ行く織田軍の気も逸らすことができるだろう。
本当は武田信玄の武田家に背後を攻めてもらうのが一番いいのだが、武田家は織田家と同盟関係にあって織田攻めはしてくれない。武田家は内陸部で多くの強豪と接していながら、今川家・北条家と甲相駿三国同盟で婚姻関係によって深く結ばれており、長尾家だけが敵対する隣接勢力だ。今後は長尾家も守ってやる必要がある。
今川家の今川義元には以前から織田と敵対関係にあるので、織田攻めにはノリノリだ。さっそく、那古野城(愛知県名古屋市/後の名古屋城)に兵を進めてもらう。
長尾軍・今川軍が北と南から攻め込んでくれたおかげで、織田軍は城からどんどん出て行っている。前線に援軍を送りすぎて、西側の諸城はどこも数百程度しか城兵が残されていない。
龍造寺隆信が見切り発車した若狭湾沿いは仕方ない。奥の後瀬山城(福井県小浜市)に向かって、龍造寺隊の後方からも1万騎ほどを進軍させる。すると城から8000騎ほど出撃してきて、朽木谷城(滋賀県高島市)からも数千の援軍が飛び出てきた。その2城をはじめ織田家の領内の城の兵はどこも数百になっている。
北の長尾軍、東の今川軍、そして西の龍造寺隆信隊などの侵入で各地に織田軍の兵が散らばったのを確認して、城兵がわずか720しか残されていない南の伊賀上野城(三重県伊賀市)を狙わせてもらおう。ここに畿内から大軍を投入する。
周辺の諸城から伊賀上野城に向かってまた織田軍の援軍が駆けつける。しかし東の今川軍への対応が大変そうで、1000や2000程度の部隊しか来ない。そこで、琵琶湖南岸の観音寺城(滋賀県近江八幡市)にさらに多い軍勢を向けさせる。四国からも集めたぞ。
4方向からの侵入で、織田軍の兵は完全に領内に4分されることに。まさに信長包囲網だ。しかし、大内軍の戦略はそこでは終わらない。実は織田家の領地に近い二条御所(京都府京都市)や八木城(京都府南丹市)などからは織田領に出兵せず城に兵力を温存していた。それは琵琶湖北岸の朽木谷城を狙うためだ。望月千代女という美女が城主として守っているが、城兵は各地に援軍を出したためにわずか450人しかいない。
その朽木城に、畿内各地の兵を集めて4万を超える軍勢をぶつける。二条御所からすぐ近くだから、他の城から援軍が駆けつけようとしても時間はないはずだ。
5方向作戦に加え、さらに南の鳥羽城(三重県鳥羽市)も狙ってやろう。しかしここは遠くて、紀伊半島南部の新宮城(和歌山県新宮市)の島津義久隊2500しか向かわせられないが、まあいいだろう。
畿内には城が集中しているので、大軍を集めて朽木谷城に攻め込ませられる。続々と数万の大内軍の部隊が琵琶湖北岸を東進。あまりの大軍勢に、織田信長は今川軍や龍造寺隆信隊などの対処に差し向けていた各地の軍勢を朽木谷城へと集めてきた。約7万ほどだろうか。しかし、遅い遅い。
織田軍が各方面から集めてきた軍勢が到着する前に、大内軍はあっという間に朽木谷城を攻め落としてしまった。しかも後続が次々に押し寄せるので、織田軍の援軍も朽木谷城を諦めて、慌ててまた各地へと引き返そうとする。
兵力を投入して城攻めをするだけではなく、謀将たちは次々に後方の城へ策を仕掛けまくる。闇討ちをしたり、一揆の扇動をしたり、流言を流したり。織田軍は一揆の鎮圧にも翻弄される。後瀬城城主の磯野員昌にも闇討ちで傷を負わせた。
智将・甲斐宗運が伊賀上野城の佐久間信盛に対して流言を放つ策を披露。佐久間信盛は流言に惑わされて去就に悩み始め、ついには降伏して伊賀上野城を明け渡してきた。なかなかの堅城だったので助かった。これで、伊勢国(三重県)への侵入ルートを手に入れたぞ。
伊賀上野城を落として伊賀越えルートができたので、すかさず亀山城(三重県亀山市)へ兵を向ける。滝川一益が守る亀山城もまた援軍に出て城兵が936しかいない。伊賀上野城を攻めていた長宗我部元親隊や鍋島直茂隊、弘中方明隊らも総勢で2488しかいないが、後続も来るだろうし、まあいいだろう。
朽木谷城を足がかりに、同じく琵琶湖沿いの小谷城(滋賀県長浜市)だけでなく、日本海側の金ヶ崎城(福井県敦賀市)にも宇喜多直家隊、島津歳久隊ら8600の兵を差し向ける。龍造寺隆信隊らが小浜の後瀬山城攻めに苦戦しているが、この金ヶ崎城からも援軍が集まっているからだ。わずか100人程度しか城兵がいないここが落ちれば、後方から援護もできるはず。越前国(福井県)も一気に制圧するぞ。
京都まで迫っていた織田信長の占領地も、どんどん東へと削っていって、前線を押し上げていく。紀伊半島も紀伊山地を越えて、織田信長の本拠である尾張国(愛知県)までもうすぐだ。
琵琶湖の東岸に当たる小谷城、観音寺城(滋賀県近江八幡市)、佐和山城(滋賀県彦根市)などにも強攻でどんどん守備力を削いでいく。織田軍も次々に琵琶湖へと援軍を送ってくるが、国力の衰えからかその数も減ってきているようだ。このまま一気に、中日本へとなだれ込むぞ!
【武将名鑑】(11)大内義尊(おおうち よしたけ)
山口の戦国大名・大内義隆の嫡男。40歳まで男児のいなかった大内義隆にとっては待望の後継者だったが、7歳だった1551年に、筆頭家老の陶隆房(陶晴賢)によるクーデター「大寧寺の変」にて殺害され、大内家は滅亡の道を辿る。今回の連載では、大内義隆の後を継いで大内家当主となる。
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