ライターになりたいと思ってよかった。その世界に手を伸ばしてよかった。
今日から、原稿と取材に向かう1か月間が始まる。
もうすでにいくつかは始まっていて、1件は完了している。だけど、これからドドドっと増えてくる。編集の人もついてくれている。
学んだことを活かせる環境と、試せる機会があることに「ありがとうございます」という気持ちが指と、口を中心に全身に回る。それと同じくらい、いやそれ以上に心臓が早鐘を打つ。
オンライン取材。zoomのURLを何度も確認して、開こうとするたびに指が震える。いざ始まると、聞きたいことより言いたいことが多すぎるあまりに、結局何も言えなくなる自分。聴け。訊け。また私が喋る。一瞬で流れていく言葉の音。今まさにできあがっていく譜面を追う。それに合わせて伴奏をつけられない自分にもどかしさが募る。今、私は何を聞こうとしているんだけっか? 私は何を聞けていないんだっけか? どこまでこの人は弾いてくれているんだろうか?
たった今しかない、一瞬の時間と、一期一会の場がどんどん過ぎていく。
今日、同席してくれた編集の人にアドバイスを聞くと「たなべさんは沈黙が怖いのかな?」と言われた。自分の発話と言葉の量が、無意識のうちに多くなっていた。
それらは特に文字起こしをしているとわかりやすく後悔に変わる。もっとここを聞けたかもしれない。この質問よりこっちの質問をしたらよかったかもしれない。相手はここでもっと言葉を繋げたかったかもしれない。もしかしたらその機会を私が奪ったのかもしれない。私ばっかり話してるな。それ以上、聞くのが怖くて文字起こしが、作業というよりもそっちの意味で億劫になる。
だけど、根底にあるのは、バトンズの学校で古賀さんから教えてもらったことだ。
「取材というのは、『好き』な相手を『もっと好きになる』ために行う。取れ高、素材集めではなく、その一瞬を楽しむためにある。会話を転がそう。心を動かそう」
教科書を開いてその文字を見つめると、ほんとうに自分はそれをできているのだろうかと泣きたくなる。でも、できるようになりたいと強く思う。後半の言葉、その一瞬を楽しむのも、心を動かすのも自分だ。とにかく自分と向き合う。自分の内側の変化を、相手の変化を見つめるのだ。
そうして思うのは、トップを知れてよかった、ということ。
サッカーの久保建英選手も子供のころからトップ選手に囲まれて過ごしていたからこそ、彼にとっての基準はそこになった。
トップの高さを思い知って「高い……」という前に、私は古賀史健さんに教えてもらえた。出会えた。
その何にも代えがたい(代えるつもりも全然ないけど!)凄さは、きっと私の長い長い道の確かな道しるべになる。
どこに行けばいいのか、何を目指せばいいのか、そういう行方不明みたいなことにはならない……と思う。壁にはあたるだろうけど(笑)
原稿を書いているときもそうだ。とにかく言葉を捕まえる。音源にある声と、自分の心で起きた変化を言葉で捕まえる。そして、繋げる。1つ1つの言葉を、ゆっくり丁寧に縫い合わせていく。もっと面白くできる構成はないか。自分が生んだアイデアに寄りかかっていないか。そのアイデアはほんとうに面白いか。もう一度問い直す。その言葉は相手のボキャブラリーと不一致はないか。もう二度問い直す。
私は何を伝えたいのか。この人は何を伝えたいのか。この人の“素敵”な部分を私がもっと拡声するんだ。この人の“好きだ”と思う部分を私がもっと翻訳するんだ。この人の“複雑さ”を私がもっと録音するんだ。
すごい。奥も深いのに、道も無限で、距離も長い。ゴールだと思っていたものはゴールじゃなくて、また別のスタートラインになっている。見えていたゴールも、近づくほど、それはどんどん遠ざかる。正解も、成功もない。それは自分で真っ暗な中見つける。見つけ出す。
ライターになりたいと思ってよかった。ほんとうによかった。