鬱が爆発してSNSやめたらむしろ快適
思えば高校生の時からSNSに極度に依存していた。
普段から人間の価値がインスタのフォロワー数や投稿のセンスの良さで決まると本気で思っていた。
鬱のときはTwitterやTikTokを何時間も見続けて眠れなかった。
大学の講義なんてTwitterを見るのに忙しくてまるで聞いていなかった。
そんな自分が嫌で何度もアプリをアンインストールしたり、アカウントを削除してみたりした。
でもTwitterやTikTokがないと電車で何を見たらいいのか、鬱でベッドから動けない時にどうやって時間を潰せばいいのか分からなかった。
Instagramで仲のいい子の親しい友達に入れてもらうことで優越感に浸るのが気持ちよくてリア垢を消せなかった。
だからずっとSNS中毒だった。
友達が居なくて人付き合いが下手な自分が逃げ込める先にはSNSしかなくて、でもそこですら実は誰とも繋がれてはいなかった。
SNSを見てる時間は最も充実していて最も虚しかった。
だけど2025年の正月、鬱が爆発したある日衝動的にTwitterもTikTokもインスタのリア垢もBeRealも消してみた。
(本稿では以上の今回私がやめたSNSを”SNS”と総称する)
その数ヶ月前にLINEも消して作り直しているため、今日に至るまで1ヶ月以上私は誰とも繋がっていなくて誰のリアルも知らない。
結果としてこれは非常に良策であった。
今回はどうして自分がSNSを断つことができたのか、この行動が自分にどのような変化をもたらしたのか振り返ってみる。
SNSを辞められた理由
本気で「SNS終わった」と思ったから
ラランドのYouTubeチャンネルのこの動画をご存知だろうか。
この動画ではサーヤさんがTwitterのどんなところが「オワコン」なのかを語ってくれている。
私のようにTwitter周回が日課になっていた人には思い当たる節も多いと思う。
私も近年Twitterにノイズを感じることが多く、キーワードのミュート数は上限ギリギリだったし、アカウントもかなりの数ブロックやミュートをしていた。
奢り怒られ論争、芸能人に対する一般人のお気持ち表明、男叩き女叩き、頭の悪いおじさんを釣ろうとするエロアカウント、無断転載、etc。
もう見る度に本気で嫌気がさしていた。
でも愚かな私はTwitterでやたら語彙力豊かに自論を語っている人を見たりクズに沼っている人を見たりした時、「面白い文章を見た時」の刺激の中毒になってしまっていた。
刺激が欲しかった私は砂の中から砂金を探すかのようにTwitterに僅かに残った「面白いと感じる」部分を探し当てて摂取していたのだが、次第にTwitterには砂ばかり増えて砂金は減っていき、その作業に虚しさを感じようになった。
そんな折に前述の動画を見つけて本当に共感した。
そこからとりあえずThreadsをメインとして使い始めてみた。
それでもTwitterとの癒着はかなり強く「Twitterやめる!」▶︎「やっぱTwitter好き!」▶︎「やっぱTwitter終わってるわやめる!」を何回か繰り返した。
しかし今回でなんとか完全にTwitterを辞めることに成功した。
TikTokも同様である。
私はアイドルや可愛い女の子が好きなので彼女たちが踊っている姿を見られることには満足していたのだが、民度としてはやはり終わっていると感じていた。
一般人のVlogを装ったステマ、ライブ動画の無断転載、中身のない流行りしか気にしていない音源、加工の強い女の子たち、Twitterに比べてさらに正確性も重要性も終わっている情報しか流れてこない。
はっきり言って民度に関してはTwitterよりも終わっているだろう。
しかしこれもまたTwitterと同様に手軽に刺激が得られるため終わっていると分かりながらもズルズルと使い続けてしまっていた。
何度もアンインストールとインストールを繰り返した結果運良く今はやめることができた。
つまりSNSはやめたいと思い続ければ中毒になってしまっていてもいずれはやめられる程度のものだった。
「人のリアルなんて全然どうでもいい」と気づいたから
今まで見た他人のInstagramやBeRealの投稿で見ることに価値やメリットを感じたものはどれほどあっただろうか?
まず投稿主が会話をしたことがほとんどないレベルの知り合いであれば、そもそも内容に問わず、旅行に行ったのもご飯を食べたのも自撮りも風景も何もかもどうでもいいだろう。
その人が何をしようと自分の人生にまるで関係がないからだ。
続いて投稿主が友達や距離の近い知り合いであればどうだろうか。
確かにその人の近況を知れるのは便利かもしれない。
恋人とのツーショットを見れば微笑ましく思うだろうし、おしゃれなカフェや面白そうな映画を知れるかもしれない、相手についての知識を増やせば会話のネタにもなるだろう。
しかしその人と話をしていて「この間𓏸𓏸に行ったんだよね」と言われて「あ、それインスタで見たよ!」と言っても却って気持ち悪い気がする。
そもそも相手は自分の投稿の内容を相手が覚えてるとは思っていないため、知らないフリをして「へーそうなんだ!」と返す方が無難な感じがする。
だとすれば、会話のネタとして相手の近況なんて知る必要はないだろう。
このように、他人のSNSの投稿を見ても有益なことは何もないと気づいた。
それどころか今まで私は他人のSNSを見ても、後述の内容と被るが病んでしまうことが多かった。
そして極論、他人が何をしたかが自分にプラスの影響をもたらすことは無いと気づいたときにリア垢を消すことができた。
「他人からの承認」に価値がないと気づいたから
ここまで、「他者の投稿を見ること」について考えてきたが、次は投稿する立場としてもSNSが不要であると感じたことを伝えたい。
いわゆる「SNS映え」することをして、SNSに投稿して、いいねをもらう。
果たしてこれになんの意味があるのだろうか。
自分がどれだけ素敵な内容の投稿をしても、それに「いいね」をするかどうか決めるのは他人だ。
いいねで承認欲求や自己顕示欲を満たすことは、このような「他人の判断」によって自分が満足するかどうかを決めてしまうことになる。
「いいねつくかな」と思うことは他人に「いいねしてくれるかな」と期待することであり、他人に期待することはメンタルヘルス的には最悪である。
これではいつまで経っても自分で自分を認めてあげられず、常に不安定な状態になる。
SNSをすることが悪いのではなく、本当に必要なのは自分の投稿を自分で認めること、他人からの承認がなくても満足できることだと思った。
自分で自分を承認できるようになれば、SNSが必要であってもフォロワーは不要であると感じた。
SNSを消してよかったこと
病むことが減った
SNSをしていた時の私は常に人と自分を比較していた。
友達のInstagramのフォローフォロワーの数が自分より多ければ「自分より人と関わりがある」と思って病み、自分が1人のBeRealを撮っている時に友達が誰かとBeRealを撮っていると「私は友達がいないから1人なんだ」と病んでいた。
しかし、SNSを辞めてからそもそも他人のリアルを知る由もないので気にする事は無くなった。
また、今後ライフステージが上がると結婚や出産の報告をリア垢に投稿する人が現れ、それにダメージを受けることもあるそうだが、そもそもSNSが繋がっていなければ知る由もないため病むことは確実に無い。
私は中学の同級生や高校のクラスメートが今後結婚や出産をしても一生知ることはない。
この点について私は今は清々しい気持ちでいっぱいである。
使える時間が増えた
今まで私はSNSにかなりの時間を奪われていた。
移動の時間、お風呂に入っている時、講義中、布団に入ってから寝るまでの時間、朝起きてから起き上がるまでの時間、友達と過ごしている時、常にSNSを開いていた。
気になる化粧品はTikTokやTwitterで口コミや使用感を徹底的に確かめないと絶対に買えなかった。
映画やアニメを見たあとはTwitterで自分と似た感想を抱いている人を探すのに躍起になった。
SNSをやめてからはこれらの時間を別のことをする時間に充てることができた。
具体的にはお風呂にゆっくり浸かってみたり、読書をしたり、散歩をしてみたり、長めに寝たりできるようになった。
この結果以前より心身ともに健やかになった気がしている。
取り入れる情報量が減った
SNSをしているとよくも悪くも毎日多くの情報を目にすることになる。
これは自分にとって有益な情報もあれば、マイナスな感情を引き起こす情報もある。
また、単純にSNSを使えば使うほど取り込む情報数も増える、この膨大な情報に人間の脳は耐えられない。
SNSをやめることで、無意識に取り入れる情報を減らし、自分に本当に必要な情報だけを取り入れることができた。
当初は世間の流れに置いていかれるような不安感があったが、しばらく生活してみて特段困ることはなかった。
おわりに
今回、鬱を抱え込みすぎた結果、衝動的にTwitter、TikTok、Instagramのリア垢、BeRealを消してしまったわけだが、結果としては全く後悔していないし当分再開するつもりもない。
私のように他人と比較するクセがありメンタルが弱い自覚がある人には、ぜひ一度これらのSNSを断つことを試してみてほしい。