#14. 旅立ち 【虹の彼方に】
2020年 9月25日 金曜日
早朝、病院から連絡が入った。
「すぐに病院に来てください!」
妻の状態が良くないことをすぐに察した。
ボクは慌ただしく病院に向かった。
病室に着くとすでに彼女の意識はなく、横になったまま「はぁー、はぁー」とゆっくりだが大きな呼吸音が響いていた。
明らかに昨日までの様子とは異なっていて、これはきっとヤバい状態なのだと直感した。
ボクはそんな彼女の手を握った。
「あいぽん、大丈夫?」
ほんの少し、弱々しく握り返してくれた。
(良かった!)
(気付いてくれてる!)
「あいぽん、大丈夫?ずっとずっとそばにいるからね。」
ボクは何度も何度も優しく声をかけ続けた。
看護師さんが近寄ってきて、
「さっき呼吸がかなり弱くなったのでお呼びしました。念の為お身内の方を呼ばれた方がいいかも知れません。」
「・・・わかりました。」
ボクは溢れそうになる涙を必死で堪えながら、彼女の両親に連絡を入れた。
「もしもし、お義父さん・・・あの・・・ちょっと・・・もう・・・ヤバいかも知れません、すぐこちらに来れますか?」
「わかりました、すぐに向かいます!」
少し慌てたようにお義父さんが答えた。
しばらくして彼女の両親が到着した。
ボクは必死で涙を堪えながら状況を説明した。
でもボク達には、彼女を見守ることと声を掛けること以外にしてあげられることは他になかった。
お義父さんとお義母さんは交互に彼女に声をかけてくれた。
ボクはずっと彼女の手を握っていた。
主治医の先生がきた。
聴診器を当てたり、様々な数値のデータを見ながら、
「大変厳しい状況にあります。おそらく今週が山場になるかと思われます。」
なぜかその時、その言葉が頭に全然入ってこなかった。
いや、受け入れることができなかっただけなのも知れない。
先生が病室を出た後、ボクは廊下に出て先生を呼び止めて、もう一度尋ねた。
「先生、あの・・・ホンマに・・・実際これからどうなるんですか?」
「本当にいつ何が起こってもおかしくない状況なんです。もしかしたらこの日曜日も・・・越せないかも知れません。本当に我々にも、どうなるのかわからない状態だということしか、申し上げられません・・・」
「・・・そう・・・ですか・・・」
頭を殴られたような衝撃だった。
ボクはショックのあまり膝から崩れ落ちそうになるのを、壁に手をついて必死に堪えた。
頭の中が真っ白になったが、とにかく彼女に触れていたかった。
すぐに病室に戻ると、彼女の両親が彼女にたくさん話しかけていた。
ボクは彼女の手を再び握った。
すごく弱い力だが、彼女はまた握り返してくれた。
「はぁー、はぁー、はぁー、はぁー」
彼女の呼吸する声だけが病室に響いていた。
その状態がしばらく続いた。
やがて昼過ぎになって、彼女の親戚やボクの親が駆けつけてきた。
みんなショックを隠しきれず、各々が彼女に話しかける。
みんなが彼女の周囲に駆け寄ってきたので、ボクが一瞬彼女の手を離して席を譲ろうとしたら、彼女はとても弱い力だったが握り返してきてくれた。
まるで「離さないで」って言われているような気がして、ボクは彼女の手をそのまま握り続けた。
「はぁー・・・・・・はぁー・・・・」
やがて彼女の呼吸の間隔が段々と長くなってきた。
ボクは看護師さんの方を見た。
看護師さんは先生を呼びに走った。
彼女の呼吸の間隔がどんどんどんどん長くなっていく・・・
ボクは心の中で強く祈った。
(あぁ、神様!!!お願い!!!まだ・・・まだ彼女を連れて行かないで!!!)
(今週が山場って言ってたのに!なんで?まだ早いよ!お願い!まだいくなって!)
ボクの必死の祈りに反して、ゆっくりゆっくりと弱っていく呼吸音・・・
ボクは彼女の手を強く握った・・・
もう握り返してはくれることはなかった・・・
(ああ、お願いします!)
(どうか・・・どうか・・・お願いだから・・・戻ってきて・・・)
ゆっくりと長い間隔だった彼女の呼吸音が、やがて聞こえなくなり、深く眠るように沈黙してしまった。
しばらくして先生が瞳孔にライトを当てたり、脈を取ったりしていた。
「・・・9月25日午後15時06分・・・誠に残念ではございますが・・・ご臨終となりました。本当に明るく、そして力強く闘病されて・・・我々医師と看護師も・・・愛子さんからは、何度もたくさんの勇気と、そして元気をいただきました。心よりご冥福をお祈り申し上げます・・・」
先生は目を真っ赤にしながら、必死で涙を堪えて彼女が亡くなった事を告げた。
お義父さんは「今まで何もしてあげられなくて・・・・」と泣き崩れた。
病室にみんなの悲しむ声が響いていた。
ボクは手を握ったまま、彼女の顔をずっと見つめていた。
なぜか大きく取り乱すこともなく、妙に静かな気持ちだった。
闘病してからは薬の影響で全然眠れていなかったので、最後はゆっくりと眠るように空へと旅立てて良かったな・・・そんな風に思っていた。
静かな水面に雫が落ちて、波紋が広がっていくように、最愛の彼女への優しい気持ちがたくさん、そしていつまでも込み上げてきた。
あぁ、本当に空へ旅立っちゃった・・・
これからオレ、どうすればいいんかな・・・
ワンキチとちくわにも、最後は会わせてあげたかったな・・・
でも・・・
あいぽん、こんなオレと一緒になってくれて本当にありがとうな・・・
オレ、すごくすごく楽しかったよ・・・
本当に出逢えて幸せだった・・・
いっぱいいろんな事を教えてくれてありがとう・・・
家族になってくれてありがとう・・・
大好きだよ・・・
心から愛してる・・・
また逢おう・・・
ありがとう・・・
ありがとう・・・
ありがとう・・・
ボクは心の中で彼女に何度も何度もそう呟いて・・・
そして深く静かに泣いた・・・
彼女が空へと旅立ったあと、現実はいつまでも悲しませてくれるわけにはいかなかった。
病院側からは、これから彼女の身体を清めてから衣服を整えたり、顔に薄いお化粧を施したりするので、その後の事を親族で決めたり、荷物をまとめたりするようにやんわりと促された。
ボクは何をどうすれば良いのか頭が回らなかったので、お義父さんに頼ってしまった。
きっとお義父さんも戸惑っていたはずなのに・・・
とにかく葬儀屋さんを探すところからだった。
スマホで調べていただいている間に、ボクは彼女の身の回りの物の片付けをした。
傍らで荷物の片付けをしているボクに、彼女の顔に薄化粧してくれている方がこう言った。
「美人で綺麗な奥さんやね。ここでは最後苦しんで亡くなる人が多くてね・・・じつは結構苦痛に顔を歪ませた表情のまま亡くなる方がとても多いんやけど・・・彼女はホンマに安らかで綺麗な顔してはるわ・・・」
「・・・そうなんですか・・・ありがとうございます。」
ホントに安らかに旅立っていくことができて良かった。
そして最後まで自慢の奥さんだなと、少しだけうれしくも思えた。
急だったこともあり、葬儀は家族葬にして身内だけで送ってあげようということを、そこにいる皆で決めた。
葬儀屋さんを手配していただいて、準備を進めていった。
大阪市内で比較的近くにある、小さな葬儀屋さんにお願いをすることになった。
そちらから寝台車の手配をしてもらって、彼女の身体を運び出した。
自分が寝台車の助手席に乗っているということにまったく現実味が無くて、気持ちが全然追いついていないボクは、ボーッと外を眺めたままだった。
途中で運転手さんが何か話しかけてくれていたが、なんと聞かれたのか、そしてなんと答えたのか、今となっては全然憶えていない。
葬儀屋さんに到着したら、彼女の身体を葬儀屋さんの屋内へと移動した。
そして布団の上に仰向けに寝かせてあげた。
彼女の身体が痛まないよう、葬儀屋さんは丁寧にドライアイスを施してくれながら、これからの段取りの説明をしてくれていたのを、ボクはただただその様子を眺めて聞いていた。
その日は金曜日の夜だったので、翌日の土曜日にお通夜、日曜日に葬儀という日程に決まった。
ボクは病院からの荷物を持って、一旦家に帰った。
どうやって帰ったのか、よく憶えていない。
ただ帰る途中で、ワンキチを預かってくれているおばちゃんに連絡を入れて、妻が空へ旅立った事を告げた。
ボクは、妻が息子同然に溺愛してきたワンキチと最後のお別れができていないことがどうしても気になっていた。
おばちゃんにお願いして、ワンキチを家に連れてきてもらった。
ほとんど衝動的にワンキチを自転車に乗せて、その夜のうちに彼女の眠っている葬儀屋さんへとこっそり連れていった。
到着して扉を開けると彼女がそこに眠っていた。
今にも起き出してきそうな安らかな顔だ。
ボクはワンキチを放した。
ワンキチはママの顔のところへ近寄ってゆき、しばらくクンクンと匂いを嗅いでいた。
「なぁワンキチ・・・ママな、先にお空に行っちゃったよ・・・」
ボクはそうワンキチに言い聞かせながら、また深く静かに泣いた。
やがてワンキチはママから離れ、部屋の隅々の匂いを嗅ぎだした。
(あれ?もしかしてママが亡くなった事に気付いてないのかな?)
と、思った。
そこら中にマーキングをされても困るなと思ったので、また自転車に乗せてワンキチと一緒に家に帰った。
家に帰るとワンキチはまた下痢で部屋中を汚した。
やっぱりワンキチはちゃんと気付いていたのだ。
そして彼なりに大きくショックを受けていたに違いなかった。
ボクはワンキチを抱っこして、涙を流しながら部屋の掃除をした。
掃除が終わってから、彼女のスマホのアドレスや履歴を見ながら、たくさんいる彼女の友人や知人、そして仕事関係の人達に手当たり次第に訃報を知らせた。
関係性の深さや優先順位などはボクにはほとんど判らないので、過去のやりとりがあったであろう履歴順や聞き覚えのある名前を元に送信していった。
気が付くといつの間にか、もう朝になってしまっていた。
早朝にワンキチを預かるために、またおばちゃんが来てくれた。
おばちゃんは喪服姿で、家族葬なのは理解しているのだけれど、どうしても妻の顔を見せてほしいというので、おばちゃんの車で葬儀屋さんまでワンキチと一緒に送ってもらった。
おばちゃんは彼女の綺麗な顔を見て手を合わせ、そして泣き崩れた。
ワンキチはまたママの顔のところに匂いを嗅ぎにいっていた。
ワンキチを預けて、おばちゃんは帰っていった。
ボクは彼女のそばに腰を下ろした。
何度見ても、今にも起き上がってきそうな穏やかな顔だった。
彼女の顔に触れた。
とても冷たい。
ああ、もうぬくもりはないのか・・・
そんな事を思っていた。
ボクは何度も何度も、彼女の冷たくなった顔や髪に触れていた。
ゴメンな・・・
絶対に助けてあげるって言うたのに・・・
約束守れなくて・・・
強く願えば叶うっていつも言ってたけどさ・・・
もしかしたらオレの願う気持ちが弱かったんかなぁ・・・
だからこんな風になっちゃったんかなぁ?
ホンマにゴメンな・・・
あいぽん・・・
そんなとても強くて大きな罪悪感が押し寄せてきて、ボクはまたひとり泣いた。
彼女の古くからの親友から連絡があって、お通夜の前にどうしても彼女の顔を見てお線香をあげたいとの連絡が入った。
ボクは快諾して葬儀屋さんの住所を送った。
彼女がとても仲良くしていた古くからの親友2人が来てくれて、お線香をあげてくださった。
会いにきてくれて、きっと彼女はよろこんでいたと思う。
やがて夜になりお通夜が始まった。
だがあまり憶えていない。
家族葬なので、そんなに時間はかからなかった気がする。
確かお通夜の始まる前だったと思う。
お坊さんがやってきて、喪主であるボクと別室で妻の話をさせていただいた。
生前の彼女の性格や立ち振る舞い、印象に残るエピソードなどを尋ねられ、ボクは思ったまま、感じるがままに答えた。
彼女の話をしているうちに、お坊さんの優しい口調と、なにか大きな包み込むようなオーラを感じて思わず感極まって泣いてしまった。
お通夜が終わって、ボクと彼女の両親で寝ずの番をすることになった。
夜を通して線香を絶やさないようにするのだ。
早い時間帯はご両親のご厚意に甘えて、その間にボクは家に帰ってシャワーを浴びたり着替えたりさせてもらった。
仮眠といってもあまり眠れないので、夜の深い時間帯はボクが寝ずの番を買って出た。
彼女の安らかな顔を眺めていて、楽しかった事を思い出しては涙を流したり、冷たくなった顔に何度も触れたりしていた。
そして、たくさん話しかけた。
もしかしたら、いつものようにあの優しい笑顔で起き上がってきてくれるんじゃないかと思って・・・
やがて夜が明けた。
葬儀の前にまたお坊さんに呼ばれた。
昨日ボクがお坊さんに話した、生前の彼女の性格や振る舞いの話を元に戒名を付けてくださった。
【美照妙愛信女】(びしょうみょうあいしんにょ)
それが妻の戒名となった。
美しく可憐で、いつも明るい笑顔で、そしていつも誰かの幸せを願っていた・・・
そんな愛に満ち溢れた彼女のイメージにピッタリの素敵な戒名を付けていただいて、ボクはとてもうれしく思った。
やがて葬儀が始まった。
喪主としてやるべき事をやったつもりだが、終盤にコメントを言うところで、途中で泣いて言葉に詰まってしまった。
(ああ、でもそういえば結婚式の時の方がもっともっと泣いてたよな?)
とか、そんなどうでもいい場違いな思いが、急に湧き上がってきたのをなんとなく憶えている。
葬儀は終わり、最後にみんなでたくさんの花を彼女に捧げて棺を閉じた。
そして斎場へと向かって移動した。
斎場に到着すると、どちらかといえば動線などとても事務的に促された気がする。
彼女の姿形としては、本当にここで最後のお別れになってしまうんだなぁと思った。
しかし斎場でのことも、もうあまり憶えていない。
ただテレビや映画みたいに、斎場の煙突から立ちのぼる煙を見て感傷に浸るなんてことは有り得ないのだと思っていた。
そもそも新郎新婦の時もそうだったが、葬儀の喪主なども一緒で、そういった冠婚葬祭の主役というものは、段取りが多くて周囲にそれなりに気を遣わないといけないし、なにかと忙しいものなのだ。
家族葬でこれなんだから、もっと大きい規模での葬儀となると、本当に大変なんだろうな・・・とか、なぜか客観的にそんな事を思っていた気がする。
この後、斎場近くで皆での昼食となった。
親戚の人達から彼女の昔話を聞いたり、彼女とボクとの馴れ初めの話をしたりして、みんな比較的明るく談笑していたと思う。
それは彼女をよく知るみんな共通の思いとして、彼女はきっと明るい雰囲気を望んでいたと思うから・・・
そんな空気感だったし、それはそれでとてもアットホームな雰囲気があって、ボクはとても良かったと思った。
相応の時間が経ち、再び斎場へと向かって、彼女の「お骨」をみんなで「骨壷」に入れた。
納骨は天王寺区にある一心寺さんにお願いしようと既に決めていた。
彼女を偲びたいと思った人がいつでも行ける場所にあり、いつもたくさんの人がお参りに来ているから賑やかで彼女に相応しい場所だと思ったから。
裏側には彼女が大好きで、時間があればよく一緒に行った天王寺動物園もあるしね。
葬儀の一通りが終わった。
まるで夢の出来事のように、断片的にしか記憶がない。
ボクは葬儀屋さんの車で自宅まで送ってもらった。
自宅に着くと「後飾り」という祭壇のようなものを葬儀屋さんに組み立てていただいた。
四十九日まではここで妻の白木位牌と遺影にお供えをしたり手を合わせたりする。
ワンキチがお供えを食べてしまったり粗相をしなければいいんけど・・・
そんな一抹の不安をボクは感じていた。
葬儀屋さんが帰って、さっそく線香に火をつけた。
ちょうどそのタイミングで、おばちゃんが預かってくれていたワンキチを連れてきてくれた。
おばちゃんも涙を流しながら妻にお線香をあげてくれた。
おばちゃんが帰ったあと、ワンキチを抱っこして祭壇に向かって正座した。
「なぁワンキチ?・・・ママはここにおるからな。お供え物を勝手に食べたり、祭壇にオシッコとかしたらあかんねんで、わかった?」
すると驚いたことに、ワンキチは彼女の遺影の方をジッと見つめたままポロリと涙をこぼした
(ああ、ワンキチは全部ちゃんとわかってるんや!)
「わぁぁ・・」
思わず声をあげて、ボクはワンキチを抱っこしたまま号泣した。
ずっとずっと悪い夢を見ているかのような淡々とした感覚だったのに、ワンキチの涙、そして後飾りの上の位牌や遺影がそこにあることで、急に残酷な「現実」に引き戻されてしまった。
強烈な喪失感と虚無感に襲われて、ボクは声を出して泣き続けた。
改めてそこに「彼女がいない」という圧倒的な「現実」を目の前に突きつけられたのだ。
ワンキチの涙を流した仕草は、もしかしたら偶然だったのかも知れない。
けれどボクは、ワンキチがちゃんと状況を理解をしているのだと今でも信じている。
その後、ママ同様にかなりの食いしん坊だったはずのワンキチだが、お供えには一切手をつけることもなく、眠るときは必ず祭壇の方に頭を向けて眠るようになった。
もちろん粗相も一度もしていない。
こうして彼女という大きな推進力を失ってしまったボク達「家族」は、荒波の中に漂流してしまったかのような「絶望感」という爆弾を抱えながら、新たな旅に踏み出していかなければならなくなってしまった・・・
彼女のいなくなってしまった「現実」を、彼女がたくさん紡いでくれた「愛情」を頼りに・・・