「良い物作れば売れる」そんな考え方はもう通用しない→エモ消費。
昨今ニュースなどでよく「若者の〇〇離れ」が取沙汰されますが、勘違いしてはいけないことは「消費行動は世代で違うのではなく、その時代の社会環境によって変わる」ということです。
いいモノを作れば売れる、そんな時代は終わりました。
広告で認知させれば売れる、そんな時代も終わりました。
割引やオトクを提示すれば売れる、そんな時代は終わっています。
独身がマジョリティとなるソロ社会のマーケティングにおいて必要な観点とはなんでしょうか?
日経COMEMOのコラムに書きました。ぜひご覧ください!
「エモ消費」については、拙著「超ソロ社会」にも詳しく書きましたし、2017年1月の日経MJにも寄稿しました。2017年10月には東洋経済オンライン「ソロモンの時代」でも記事を書きましたし、同じく佐々木俊尚さんのラジオに呼ばれてこの「エモ消費」についてお話しました。
基本は、既婚者や家族生活者と独身者とは消費に対する考え方が根本的に違うのだというところからきているのですが、どうも最近は独身者だけではなく、一般的に広がりをみせている気がします。それは社会全体が個人化している流れの中では当然なのかもしれません。
消費が「モノからコトへ」なんて言われたのははるか昔の2000年の頃です。いまどき「コト消費」とか「体験が大事」とか言ってるマーケターは周回遅れも甚だしいと思いますが、現実にはたくさんいます。
たとえば、音楽市場です。
かつてCDが何百万枚も売れた時代がありましたが、今ではAKBグループ以外売れません。AKBに関してもあれは「音楽」を買っているのではなく、握手権や投票権などの「体験」を買っているのだ、と指摘する人がいますが大間違いです。握手や投票などという「体験」は所詮手段であって目的ではない。
では、ドルオタたちがなんでCDを買うのかというと、それこそ自分の「精神的充足」のためです。
アイドルたちを応援しているという立場に自分自身を置くことで、承認と達成が得られるとともに、「ああ、俺はここにいて役に立っているんだ」という社会的役割を感じられるからです。それは人間が根源的に持つ「コミュニティへの帰属意識」と同じです。。
つまり、彼らは別にコト消費などという体験を買っているわけじゃない。体験も握手もライブで大騒ぎすることそれ自体は目的ではなく、それによって得られる「今この瞬間の自己肯定感」を買っているのだ。
言い換えると、「瞬間的につながる」そんな刹那のコミュニティを作るために消費しているのです。
コミュニティと言っても従来のようなものとは全く性質が違います。別に友達とか仲間意識のようなワンピース型コミュニティは求めていない。絆とかうざいだけだから。そうじゃなくて、一瞬一瞬刹那の感情を共有して、その瞬間だけ通じ合えればいい、むしろその刹那のつながりが刹那であればあるほど幸せ感は高まるのです。それはマーク・グラノベッターのいう「弱い紐帯の強さ」と同じことです。
人見知りなオタクたちが、今まで一度も会ったことがないのに、同じアイドルを推しているとわかると急に親近感を持つのもそれに近いものがあります。
…とここまで聞いて、「なんて不幸な人たちなんだろう」と思いますか?
その通りです。不幸感があるから、日常に何らかの欠落感があるからこそ、それをエモ消費によって無意識に埋めようとしているのです。既婚者と未婚者とではそもそも幸福感が圧倒的に違うという話もこのコラムに書いています。
消費というと、お金を使ってモノを買うことばかりと考えがちですが、時間の消費も同じです。たとえば、時間を忘れるほど仕事に没頭する人もいますね。そういう人も仕事によって時間を「エモ消費=自分の社会的役割を感じている」人と言えます。
そもそも所有することに価値があったモノ消費は、自分の外にモノを置けば幸せだった。高いブランド品の服を身に着けたり、高級車を乗り回したりすることは、自分の外にモノを揃えることです。
続いて、体験することに価値があったコト消費とは、自分の外にある刺激を自分が体験することで部分的に取り入れる行為です。しかし、あくまで外からの刺激が先です。
精神的に充足することに価値があるエモ消費とは、上記ふたつとは異なりもっと内発的なものです。
そういう意味で、モノ消費とは外動性であり、コト消費は中動性、エモ消費は内動性と言えるかもしれません。外の刺激でなんとかなるという時代の論法では内動できないことがわかるでしょう。
モノ消費もコト消費も動機はロジカルなものですが、エモ消費は理屈は関係ない部分があります。
どうしてこれを買うのかわからないが買ってしまう。
そんな行動をみなさんもすると思います。それは衝動買いとは違います。エモ消費は衝動買いのように後で理屈付けをしてその買い物を正当化したりはしないし、後悔もしません。
そういう意味では、エモ消費は恋の感情にも似ているのかもしれません。
かつてマスマーケティングの時代はいい商品を作って認知させれば売れた。たとえていうなら、美人がいてそれを知ればみんなが恋した時代です。クラスのマドンナとかいて、男子はみんな同じ女の子に恋していましたよね。
でも、そんな美人に恋したところで叶うはずがない(自分の幸せにつながらない)ことがみんなわかってきた。だからそもそも恋をしなくなったりしたわけですが、容姿は別にして困っている女子から「あなたの助けが必要なの」と訴えられたらよほど最低な男じゃない限り助けますよね?で、助けるとこう思うわけです。
「あれ?なんかうれしいぞ」と。
そうすると、そんな感情を抱かせてくれた元の彼女に対して特別な感情を持ってしまいます。それを恋心というのかもしれませんが、本質的にはそれこそが自分の社会的役割を感じることであり、帰属意識の充足であり、自己肯定感です。彼女の存在によって自分を肯定することが可能なんだから、彼女が必要なのです。というか、いないと困るのです。
そこまで思ってしまえば、もうある意味彼女の虜のようなものです。それを傍から見ている人は「あいつなんであんな女に入れ込んで」って思うかもしれませんが、当の本人は幸せだからいいんです。
作り手・売り手はとかく完成品を提供したがりますが、そうじゃなくて、未完成での提示こそが動かすのです。消費者がなんらか加担できる余地、助けてと巻き込む仕組みが重要なんです。未完成で提示することこそがこれからのマーケティングのキモになるでしょう。