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夏の果てに沈黙について考える

夏の果てのひととき

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祖母きいこさんの浴衣で磯に降りて盆踊り
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遠くの花火よりも水面の反射と浜辺の犬に気を取られる
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夕暮れの田んぼで時の流れを感じさせるのは虫の声だけ
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一瞬風が通り抜けた夕涼みの畑
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田んぼでミズアブの猛攻に遭い、その(刺された)足で向かったMPの、なぜか懐かしく感じられる灯り
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この時期特有のもの悲しさは、生き物や植物の目まぐるしい移り変わりや過ぎていった人に思いを馳せたり、時の流れの速さにハッと現実に引き戻されたりして、じわりじわりと沁み入ってくる。

こうも暑いと体より頭が動いてしまって、言うことがどうもフワフワしてる。なので、若松英輔さんの言葉を借りる。

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死者のコトバが沈黙であることを私たちは忘れてはならないのだろう。沈黙はつねに言語を超えたはたらきを持つ。(『悲しみの秘儀』)
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私がきいこさんの浴衣を着ても、きいこさんが生きているうちに経験した辛さを代弁することはできない。それがどれほどの苦労だったのか、もう本人の口から聞くこともない。代弁には限界がある。

だから社会をよりよく変えていく過程では、代表性に重きが置かれる。その過程では、体験者のことば、当事者の表現の機会がまだまだ足りない、という議論がもっとあっていい。
ただし安全が確保できない状況で言葉を強いると、それがまた暴力の形になってしまう。
つまり発せられる言葉と同じように、発せられなかった言葉や沈黙にもメッセージがある。

沈黙しているひと、させられているひとがいたら、問いただすよりも、無理やり壇上にあげるよりも、先にそうしている・させられている背景に心を配りたい。
言葉をもたない/あっても性質が違って分かり合えない存在には、人間本位な都合の良い解釈を押し付けたくない。

声をあげることと同じくらい、いや時にはそれ以上に、沈黙にも意味があり、取るに足りない存在なんかじゃないとせめて忘れないように秋を迎えたい。

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