寄る辺ない魂が寄り添い、愛を知る時/『えのないえほん』斉藤倫(作)・植田真(絵)
「だいすきな けものさん」
「あさやけや くもや もりや いずみや わたしの しらない たくさんの うつくしい ものを おしえてくれる あなたも きっと とても うつくしいのね」
誰かと比べられることで、自分では変えることのできない「何か」(環境、人の心、そして、容姿)によって、傷ついたことのない人は、たぶん、いない。そんなときどうするだろう? 自分より劣るもの、自分より恵まれないもの、自分より”みにくい”もの。それらを引きずり出し、目にし、嘲ることで、安心と安寧を得る。壊れそうな硝子の心は誰の心にもあるのに、残念ながら、無自覚な「残酷さ」を鎧として身につけられる者だけが、”こちら側”で笑っていられる世界。その世界の片隅で、斉藤先生の描く「みにくいけもの」は、ひっそりと生きている。文字通り息をひそめ。誰かに会うなんて、とんでもない。食料となる魚を捕る時さえ、”こんなみにくい生き物に食べられるなんてかわいそうだ”とまで自分を責める、優しさを持った彼なのに。
出会いはある日訪れる。屈託のない笑顔で、犬のようにふさふさ、シカのようにりっぱなつの、ほしくさのようにいい匂いのあなた――自ら手を伸ばして”みにくい”自分に触れてくれる女の子。彼女の眼が見えないことを知り、かわりにけものは、森にある、世界にある、様々なものを彼女に教える。「あれは なんのき」「あれは ななかまどの き だよ」「とても にがいから そのまま たべるのは とりくらいさ」女の子がためらいなく口に入れたことにけものはびっくりします。
「どんなに にがいか しりたかったの」おんなのこは わらいました
朗らかで眩しい彼女の、分け隔てなく迸るような愛情に、けものの心はゆっくりと、癒やされていきます。何気ない日々、ふたりで過ごす時間のかけがえのなさが、極限に短いセンテンスを通して伝わります。そして、冒頭の言葉――「あなたも、きっと美しいのね」けものは驚き、哀しみ、激怒し、それ以来、彼女の前に姿を現さなくなりました。彼女のせいでないことは、きっと分かっていた。それまでに堆く胸の内に苦しく重ねられてきた鬱憤が、「愛される」ことへの微かな希望を感じてしまったからこそ、激しい怒りとして彼女へと向けられてしまったのです。
彼女の呼ぶ声に耳を貸さず、じっと、森の奥、姿を隠すようになった「けもの」は、何が、許せなかったのでしょうか。”なんにもしらないくせに、自分の気持ちなどわからないくせに”心ない一言を吐いた彼女のことだったでしょうか。違う。自分自身が許せなかったのです。「みにくい」と感じ信じ込んでしまっているのは、実は自分自身だということ。そう生まれついたこと、そう言われ野次られること、恐れられること、誰も本当の自分をみてはくれなかったこと。全て、周りのせいにしていた。致し方のないことです。向き合うのは、誰にとっても余りに厳しい現実です。でも本当は、そうじゃない。「自分のせい」じゃないにしても、自分がどう生きるか、どう行動するか、どう、自分を愛せるかは、自分自身が決められるということ。
冷たい雨が降りつづいた日も、「女の子」はあきらめずに森の入り口でけものの名を呼び続けました。しかし次の日から、ぱたりと音沙汰は止みます。けものは3日3晩を過ごし、4日目、ついに立ち上がり村を目指します。恐怖の声、嘲りの声、おそろしい人間たちの姿、そして銃。攻撃を受け、血を流し、けものは病に伏せった女の子のベッドへと辿り着きます。その柔らかい大好きな毛を撫でながら、彼女は言います。
「ろばさん みたいで しかさん みたいで ほしくさ みたいで うみなり みたいな あなたを しっているわ」「あいに きてくれて ありがとう」
流れ続ける血に自分の命が既に尽きかけていることを知りながら、けものは、答えます。
「ありがとう きみに あえなかったら ほんとうに ぼくは みにくい けものに なるところだったよ」
私たちの世界は、前向きで、きっぱりと、希望に満ちた「ことば」に溢れています。美しくあること、強くあること、決して諦めないこと、そして勇気を持つこと。笑顔でいること、優しくあること、ポジティブでいること。
けれども実は、そんな「ことば」が指し示す生き方や時間からは、思う以上に沢山のものが、取り零されてしまっているのではないかと思います。本当は、どろどろで、醜く、怯え、不安で、人の目ばかりが気になり、「強い自分」「誇れる自分」を縁(よすが)としなければ折れてしまいそうだからこそ、エネルギッシュで「単純」な生き方に憧れるのではないでしょうか。
名も無きけもの、名も無き女の子の、寄る辺のない魂が出会い寄り添うとき、生まれるものは、他の誰かには見えないほどにささやかな灯りかもしれません。けれどもそれはどんな上っ面の「未来」よりも、「希望」を感じさせてくれる、”愛”という美しさなのだと思います。
ふと『遠野物語』に登場する、愛した白い馬とともに、その愛を赦されず死を選び天へと昇った女の子の話を思い出しました。遺された父親は悔やみ、やがて「蚕」が二人の思い出として、そしてその家の”希望”として与えられます。
認められること、理解してもらうことが何より重要なのではなく、互いの心の繋がりを強く信じられる心こそが、やがて自分以外の、何か大きなものさえ変えていく。『えのないえほん』に、私たちは何を感じ、何を「見る」のか。慟哭のように胸に突き刺さる痛みが、虚飾に塗れがちな世界の”上っ面”を薄皮を剥がすように少しずつ、変えてくれることを信じ、私もそうありたいと願います。
(了)
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