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コンビニ人間として生きてるじゃないか

昨日の朝。月曜の朝。たった2泊の逃避行から、現実へ戻る朝。

目が覚めて、シーツのパリッとしたベッドで大きく伸びをして、この誰かが洗ってくれた清潔で真っ白なシーツを最後のギリギリまで堪能しようって、また布団を手繰り寄せてベッドに丸まった。同時に「家に帰ったらそろそろ春夏物のシーツに替えなきゃ、替える前に一度洗って干して・・・」と、「シーツ」というキーワードで自動プログラムが反応したみたいに、家事脳が起動しはじめようとしたので、意識的に、強制的にそれをかき消した。本の世界に戻ろう。今はまだいい。春夏のシーツのことはまだいい。

前日の夜読み始めたコンビニ人間(著:村田沙耶香)を再び開いて、続きを読み進めた。この本は随分前から読みたいなとは思ってた。どこかのコンビニで売られてるのを見かけて、「コンビニ人間がコンビニで売られてる・・・シュール・・・」と、誰かにわざわざ言うほどでもないけど自分的には面白かった光景がずっと心に残っていたりもした。

今、初めて誰かに話した。

この話は18年間コンビニ店員として生きている恵子の話。恵子は自分の振る舞いや容姿や言葉、睡眠や生活のすべてを「コンビニ店員」というアイデンティティで形成してて、そうじゃない、いわゆる「普通」な人たちを恵子側の目線で見ていく話。コンビニにふさわしい話し方をして、コンビニにふさわしい容姿をして、コンビニにふさわしい人間として生きている恵子。読んでいくとまるで自分もそのコンビニにいるような錯覚に陥るのは自分の感覚にコンビニっていうものが染み付いているからだろうな。日本のコンビニって、綺麗で、白くて、明るくて、整っている。いらっしゃいませ、袋はおつけしますか、ポイントカードは、お箸は、あたためますか、ありがとうございました。マニュアルとはいえ、規律の箱っていうイメージだ。その中での恵子と、恵子以外の人間たちの世界が、自分の感覚と重なって、話に吸い込まれる。この本は、多言語に翻訳されているらしいけど、日本のコンビニが生活に根付いていない国の人が読んだとき、この本はまた違う感覚なんじゃないかと思う。

この本を、昨日の朝、家に帰るまでに読みあげた。ホテルで読み進めて、チェックアウトの支度をするために止めて、9:59まで読んだ。そして帰りのバスでまた進めて、最寄りの停留所につく直前に、読み終えた。

その間に娘からLINEがきた。朝の挨拶、今自分はベランダで庭にきてるオナガを見ているってこと(娘は鳥を眺めるのが好き)、オナガがぎゃあぎゃあ言ってるってこと、天気がいいってこと、朝ごはんはもう食べたってこと、そして早く帰ってきてねって文字が書きこまれたベランダで撮ったらしき娘の自撮りも。

その度にわたしは本の世界と自分の世界を行ったり来たりした。もうすぐこの逃避行は終わるんだなと実感しながら。この時間を終えるリハビリみたいに、娘からのLINEが届く。もう、すぐそこで現実が待ってる。早く帰ってきてねって、はっきり、言われちゃったし。

多分娘は「早く帰ってきてね」って言うのを、月曜の朝まで我慢したんだと思う。いつもの娘なら土曜の夜の時点で言う言葉を、月曜の朝、わたしがもう帰ってくる支度をしているであろう時間まで、ぐっとこらえたんだとおもう。

それを頭の片隅で考えながら、コンビニ人間を読み進めた。

これはわたしの、超個人的な感想文だけれど。

コンビニの一部として生きてる恵子も、そうじゃない側の人間も、わたしも、かわらんのじゃないか。(もちろん絶対的に違うところはあるとはいえ)わたしはコンビニ店員ではないし、コンビニ基準で生きてないけど、恵子みたいに、自分に求められるものを見極めようとするし、そこからある程度、人に迷惑のかからない程度で逸脱しないように生きてる。妻基準、母基準、30台後半の女性基準、会社員基準。みんなそうだ。みんなその中で、自分の個性やらなんやらいってもがいたりしてるけど、結果、みんなある意味コンビニ人間じゃないの?だからこのストーリーの最後は、あとがきに「バッドエンドともハッピーエンドともとれる」って書いてあったけど、確かに、とも思ったし、むしろニュートラルでは、とも思った。


恵子も私も、自分が周りに形成されてるのは変わりない。周りがいるから、自分が存在してる。このSNS時代なおさらだ。みんなに見られてるし、みんなに見せてる。わたしが2日逃避行したこともこうやってnoteに書いちゃって、これで「なんて母親だ」って受け取る人もいれば「わかるわかる」って共感してくれる人もいるだろう。それでわたしの外側は、その人から見える私に作り上げられていく。

中身なんて、だれも知らないのだ。それでいいし、それが面白い。

コンビニ人間を読み終えて、バスを降りて、家へ向かった。この2日間、普段の自分の基準から外れて生きたのが非日常過ぎたからか、家へ向かう気持ちがいつもと違う。新鮮。すっきりしている。

玄関に鍵を刺して、がちゃがちゃしてたら、ドアが内側から開いた。

「おかえり!!!!!!!!!」

くっちゃくちゃの笑顔で娘が飛び込んできた。私の胸に抱きつく。遠距離恋愛カップルかよっていう情熱さで、ぎゅううううっとわたしを抱きしめて、私を見上げて、笑って、また抱きつく。

ああ、ごめんねっていう気持ちと、良かった、っていう気持ちが同時に生まれた。土曜日私が家を出た日、我らは最低最悪に険悪だったから。一緒にいすぎて煮詰まって、ドロドロだった。

玄関から一歩家に入ると、まるで何もなかったかのように日常がまた始まった。しばらくして、私のいなかった時間のことを娘が話し始めた。「寂しかった。でも・・・・結構楽しかった。パパと二人で過ごすのも。」ってちょっと私に言いにくそうに、言った。楽しくていいんだよ。ママも楽しかったよ、一人の時間。って言ったら、ちょっとだけ複雑な顔をして、そっか、よかった。って娘が言った。

この時点で「たまには思い切り1人休憩をとること」っていうルールが私の妻&母基準に書き加えられた。次に逃避行をするときはもう、今回みたいな後ろめたく、本当によかったのだろうかという負の感情は生まれないと思う。なんなら「いってきまああああっっす!」ってスキップして家出てくかもしれない。娘は私の帰りを心待ちにしながらも、パパと2人の特別な時間を楽しむんだろう。私の知らない時間を。

思い切って、逃げてよかった。

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