心とは、学問とは。
たった今、哲学の授業の課題レポートを書いていた。大きく言えば、「心とはなにか」という問題について、江戸時代の思想家はどう考えていたのかを理解せよ、という課題。
佐藤一斎という思想家は、心の本質は「虚」であると考えていたらしい。ここでの「虚」は「何もない、虚ろな」という意味ではなくて、何もない故に存在しうる、宇宙のエネルギーの根源的なものを指していると言う。この宇宙の根源的なエネルギーである「虚」は、人間には天から先天的に与えられているものである。陽明学ではこれを「良知」と呼ぶが、それは例えば赤ちゃんが好きなものを食べたらニコニコし、不快なものに対してはぐずるというように、善を快とし悪を不快とする能力のようなものである。そのような能力が人間の「心」に備わっているのだから、心のままに振る舞えばよいのだ、というのが陽明学の考え方であるらしい。
教科書として指定された本の該当部分を3回くらい読んで、分かったような分かっていないような状態のまま課題は提出した。
なんというか、正直「なるほどな~」というくらいの感想しか出てこなかった。それは、心とは何か?という問いに対して、天から賦与されたものである、という説明をしているからである。天から与えられたとか、神が云々とか言ってしまうのは、現実の世界のものでは説明がつかなくなったときの最終手段のような感じがどうも拭えない。少なくとも今の僕には、そう思えてしまう。異論は認める。天から与えられたんだよとか、神がそうしろと言ったとか、そういう説が説得的であると思う人がいるのなら、ぜひそう思う理由を説明してほしい。
しかし、「心」という現実の世界に形として現れていないもの、具現化されていない存在について考えているのだから、それを現実の世界のもので説明するのが難しいのは当たり前だろう。だから、天や神の存在に頼りたくなるのも分かる気がする。そして、天や神の存在に頼らなければ説明できない、つまり、現実の諸事実だけでは到底説得的な説明をすることができない問いだからこそ、ああでもないこうでもないと考えられてきた歴史があるのであり、今、そしてこれからも私たちは考え続けていくのだろう。
しかしいくら自分で考え続けても、僕には「心とはなにか」という問いに説得的な説明を与えるのは難しいように思う。だって、よくわかんないもん。目に見えないし。
だから、ここはひとまず「心とは何か」という問題を「自分で」考えるのをやめてみる。そもそも心というものが見えない、概念的な存在である以上、これまで「心とは何か」という問いに対して歴史的に与えられてきた答えの総体、それこそが「心」であると思うことにしたい。そうしてまとめられた思想史の総体としての「心」には、様々な考え方が含まれているので、そうした先人たちの考え方を1つずつ見ていって、自分の感覚に近いものを見つける。それを見つけることができたら、その考え方を自分なりに解釈し直してみるのだ。そうして新たに加えられた解釈は、思想史の総体としての「心」の一部に組み込まれ、後に続く人たちがまたこれを見ながら、自分の解釈を加えていく。それを繰り返す。学問とは、そういうことだと思う。
まあしかし、佐藤一斎という1人の思想家の考え方を理解するだけでも「天から与えられたなんて説得的ではない」と余計なことを思ってしまうので、おそらく「心とは何か」という問題に自分の新しい解釈を付け加えるのは難しそうだ。一斎さん、ごめんなさい。だけど、何かを考えることは楽しいです。なので、僕はちょっと違うフィールドで学問をすることにします。
卒論と院進について、教授に相談した日の夜に。
参考文献