「脳内ストレス物質」が出ていない感覚…
昨日の記事のつづき、、、
カラダに意識をむけて、ずっと観察している
ネドじゅんさんならではの言語化だなあとおもう。
思考的探索(机上の空論)ではなくて、
自分自身のカラダでかんじていることを
描写しているところからの実感がある
この「脳内ストレス物質」がでていない体感覚
静けさ、穏やかさ、なんでもなさ
スン…( •ө• ) ファーーーー( ꒪⌓︎꒪)
わたしはミスター長嶋さんのような
表現しか出てこないけど、
こういう感覚的な擬音のほうが
いまここでかんじているものの
実感がはいっていて、しっくりくる。
この なんでもなさ でいろいろなことが起きている。
空 という器・スクリーンで
色 々なことが起きている
あるようでない、ないようである
この スン…とした静けさ
耳を澄ませてみる( •ө• )
自動思考が消えて、全体の思考量が減ることによって、
土台としてありつづけている器・スクリーンに
気づきやすい状態が起きてくる
もともとあったものが浮き上がってくる
(左脳ではなく、右脳が前面に立ち上がってくる)
右脳は器・スクリーンのほうに身を置いているからだ。
右脳=空 左脳=色
と言ってみてもわかりやすい。
どちらもイノチの機能なのだけど、
左脳過剰社会は左脳だけ…片方だけ…という極端さ
右脳としての「わたし」を見失っているアンバランスさ
この器としての「わたし」が
左脳からの思考やコトバによって
かき消されてしまっている社会・人間
左脳過剰な状態は
「雑踏の騒音」にも例えることができる
ずっとテレビやラジオがついているような状態。
静けさがない
(騒音によって完全にかき消されてしまっている)
あまりに左脳・思考・コトバという騒音が大きすぎて
背景・土台・スクリーンに気づく「静けさ」がない
静けさがなく、静けさそのものに気付けない
その「わたし」には、まったく気づかない。
右脳域はヘッドホンの
「ノイズキャンセリング機能」のようで
騒音・色の中でも、ここにあるスクリーンの静けさに気づいている。
色のストーリーに巻き込まれない。
けれど、いまここにいる。
右脳域は汽水域のよう。
いつも・ある・この静けさ
ここに重心を置いている右脳域
そして、左脳的雑音が少なければ少ないほど、
「見つけ出さなくて済む」
左脳過剰な場合には、左脳が生み出している騒音・砂利の中に埋もれたビー玉を探し出すような作業になってくる。このような場合、ほとんど砂利にまざったビー玉(探し物・必要なもの)を見失う。
わからない、わからない、、、が始まる。
「自分」探しが始まる。
それによって起きているのが
「しあわせ探し・探求」
自動思考が消えることによって、
そのあたりもシンプルになり、
より気づきやすい環境になってくる
それは イノチとのシンクロ率 ともいえるかもしれない。
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