[読書体験]『ピダハン』との出会い
春本番を迎えていますね。桜が舞い散る、出会いと別れの季節です。今回は、アマゾン川のほとりに住む民と出会い、自身の世界観が大幅に塗り替えられた方の本を紹介します。
ダニエル・L・エヴェレット著『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』 ▼
著者紹介
エヴェレット氏は二つの顔を持っていた。キリスト教の伝道師と、科学者である。
そもそもアマゾンの奥地に向けて漕ぎ出したのは、聖書の福音を、ピダハンという少数民族にも浸透させるためだった。だが、彼らの話す言葉は、言語学理論の常識が通じない。
エヴェレット氏は、ピダハン族の生活の文脈に触れることで、謎の記号を読み解いていった。それは後に、光と影の両方を、彼にもたらすことになる。言語学界を揺るがす発見をした一方、信仰で繋がっていた家族が離散する事態を招いたからだ。
“わたしは、自分が持ちきれない自分の信仰を、失うことのできないものを得るために諦めた。わたしが失うことが出来なかったものは、トマス・ジェファーソンが「精神の専制者」と呼んだもの――自分自身の理性より外部の権威に従うこと――から、自由になることだった。
ピダハンに出会いわたしは、長い間当然と思い、依拠してきた真実に疑問を持つようになった。”
ピダハン――神話に実証を必要とする文化
“見ろ!やつがいる、XigagaÍイガガイーだ、精霊だ”
わたしは深い眠りから揺り起こされた。
“何事だ?”
“あそこにいるのが見えないか?”
“どこだ?見えないよ”
全員が向こう岸を注視しつづけている。するとすぐそばから、6歳になる娘、クリステンセンの声がした。
“みんな、何を見ているの?”
“わからない、お父さんには何も見えないんだ”
――『ピダハン』より抜粋して記載
神話とは何だろう。エヴェレット氏は、「集団の結束を高める物語」と定義している。ピダハンにも神話はある。彼らの視点から捉えた物語が、共同体のなかで、日々語られるのだ。
であるならば、日本の地ではどうか。私たちも、物語を共有し合って生きているはずだ。職場で、家庭で、友人との語らいで。目に見えぬ気配(けはい)を読み、「今はそういう空気じゃない」などと話し合う。
ここで、ピダハンの文化がユニークなのは、物語に実証を必要とすることだという。どれほどエヴェレット氏が福音を伝えようと工夫しても、全く響くことはなかった。
“ピダハンに福音を拒否されて、自分自身の信念にも疑念を抱くようになったのだ。それがわたしにも驚きだった。”
“しかし同時にわたしは、科学者としての訓練も積んでいた。大事なのは実証であり、ピダハンがいまわたしに実証を求めているように、科学者としてのわたしなら、何らかの主張には実証を求めて当然だった。ピダハンが求める実証を、いまわたしは手にしていなかった。あるのはただ、自分の言葉、自分の感覚という補助的な傍証だけだった。”
具体的であることに踏みとどまる人達と暮らす
“ピダハンの文化には「右と左」や、数の概念、色の名前さえも存在しない。”
ピダハン語には、抽象的な言葉が極めて少ないという。彼らには必要がないのだ。例えば家族が何人か数えられなくても、顔と名前を記憶していれば事足りる。
わたしは『ピダハン』を初めて読んだ時、その認知世界に衝撃を受けた。以来、折に触れて読み返している。
そして、目の前の景色が、高精細に見える状態を保とうとしている。見る時は見る。考える時は、手を動かしながら考える。焦点は、「今ここ」にある。
なぜなら、上の空にいると、虚無感に覆われそうになるから。エヴェレット氏は、こうも述べている。
“ピダハンはただたんに、自分たちの目を凝らす範囲をごく直近に絞っただけだが、そのほんのひとなぎで、不安や恐れ、絶望といった、西洋社会を席巻している災厄のほとんどを取り除いてしまっているのだ。”