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文化「と」自然、文化「にとっての」自然 −岩田慶治著『コスモスの思想』を読む


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文化人類学者岩田慶治氏の著書『コスモスの思想』読んでいる。読み進めるにつれて、岩田氏の論は核心へと入っていく。そして次のような一文がある。

われわれの眼写った自然言葉に転化した自然はすべて半自然である」岩田慶治『コスモスの思想』p.121

半自然というのはどういうことだろうか?

文化と自然

文化人類学では「自然」ということが「文化」の対立項に設定されてきた。

自然 対 文化
野生 対 文化
動物 対 人間

この両者のちがい、両者の差異から、ものごとを考えてみようというのが文化人類学の大きな枠組みである。

例えば動物は自ら衣服をデザインして着ることは無いが、人間にはそれがある

動物は祖先の墳墓を作らないが、人間にはそうする事例が多々ある

動物は金属を精錬しないが、人間はそうする場合がある

なにより、動物は言葉を喋らないが、人間は言葉を喋る。

この差を比較することで、「動物にはない」「人間特有の」営みを浮かび上がらせて、それによって人間の概念を仮止めする。

文化人類学に限らず、専ら「人間とはなにか」を定義しようとする学問であれば、こういう概念の組み方が行われる。

もちろん、動物でも死んだ仲間の骨を懐かしそうになでるであるとか、人間の言葉とは違うがシグナルを交換しあっている、といった事例は探せば出てくるが、問題はそこではない。

例えば、上の「動物は言葉を喋らないが、人間は言葉を喋る」という区別は、素朴実在論的に「言葉を喋る動物は決して実在しない」と言っているわけではなくて、実在云々とは無関係に、まずそのように「仮に区別をしてみる」という話である。

私たちが考えつくことができるあらゆる区別は、実在する(と想定される)なにかによって予めその区分線を引くべき場所を決められていたものではない。人間の外部の自然界にうごめく複雑で多様な蠢きに対して、何かの差異を感じ取り、区別ができるかもしれないと気がついてしまうのは、あくまでも人間の側の癖なのだ。

文化にとっての自然−半自然

区別は、自然の側に予め属するものではなくて人間の側に属するものである。人間は、その知性は、知能は、神経系は、感覚器官は、すべてこの区別の処理を行うメカニズムである。

ここで頭がこんがらがってくるのは、この自然と人間の区別もまた、人間がおこなったひとつの区別であることだろう。

区別するメカニズムは人間だけのものではなくて、あらゆる「生命」の動きに通じるものではある。生命は自分の外部と内部を区別し、外部に内部と「同じ」もの(内部の材料になる養分等)を見つけては取り込み、内部に内部ならざる異物を見つけは排出するという、区別のメカニズムとして動き続けては、生と死を区別している

この生命というものが少なくともこの地球上では有機物によってできているわけであるけれども、その根底には、ある条件のもとでタンパク質の大規模な分子構造が、他ではないある特定のパターンで構成されるという分子レベルの区別の動きがある。

自然と人間の区別をどうするかという問題を飛び越えて、”自然“科学は対象となる客観性の領域にいくつもの区別を見出す。もちろん、その客観性の領域は、観測装置とシンボルの体系の組み方を訓練された人間とのハイブリッドシステムのなかにシミュレーションされるものであり、はじめから区別された区画のあつまりとしてある。

区別すること、差異化すること、というのは思想の鍵なのだ。


半自然と<隠れた自然>

私たち人間が「自然」というとき、それが人文科学者の言葉であっても、自然科学者の言葉であっても、いずれにしてもその自然は「人間にとっての自然」である。それは人間とは無関係な自然それ自体としての自然ではない。こういう人間が自然だと思って自然だという自然のことを、岩田慶治氏は「半自然」と呼ぶ。

さて、ここからがおもしろいところである。

人間は「半自然」を自然だと思って生きている。

自分たち人間がその全存在をもって自分自身と区別した、自分自身にとっての外部を自然と呼ぶ。しかし、それは人間が人間と区別した領域としての自然であり、人間が区切りだし、人間が識別した領域としての自然である。

ここで私たちの「区別」する性能を更に駆動させれば、私たちはその半自然に対する自然の全体、自然の本体ということを区別することもできる。人間と自然を区別したとすると、今度はこの人間と自然という区別で「自然」じたいを切り分けることができる。そうして自然の側をさらに「半自然」と「隠れた自然」に区別する。

気をつけておきたいのは、この「隠れた自然」とは、人間が行う区別と無関係にそれ自体として存在する物自体ということではない。隠れた自然もまた、あくまでも人間に対して「隠れて」いる。隠れた自然もまた人間と区別される限りで、人間と対峙する限りでの自然である。

自然であれ人間であれ文化であれ、わたしたちが言葉で名前をつけた領域というものは、なんであれそれ自体で単立することはない。私たちが名付けることができるのは分割線を引かれ区切りだされた領域であり、その領域は必ずその境界で外部と接する。

そういう事情であるから、人間は、やりようによってはこの「隠れた自然」の領域にアクセスすることができる半自然と隠れた自然の境界線をずらす、といってもいいかもしれない。あるいは半自然と隠れた自然を区別するやり方を変えるといってもいい。

そしてそれこそが、この『コスモスの思想』で岩田慶治氏が問おうとしていることである。

言語レベルにおける人類のコミュニケーションを問題にしているのではなく、言語の彼方におけるコミュニケーションの場を尋ねようとしているのだからである。言語のフィルター−−言葉としては不適当である−−ではとらえることのできない生の自然をとらえようとしているのである。」岩田慶治『コスモスの思想』p.121

生の自然」を捉える。この生の自然というのは、上に書いた「隠れた自然」と同じことだとおもって読んでいいと思う。

そのための方法とは、まず、人類のコミュニケーションのレベルにある言語を停止させることであり、次に「言葉の彼方」のコミュニケーションを開くことにある。

日常の言葉を止めること、区切り方を変容の可能性に開くこと

いわゆる言葉というのは、日常のリアルさを編み出しているシンボルたちの対立関係を最小単位として組み上げられる構造体である。

言語という構造体は固まっているようでありながら、ゆらゆらと揺れ、構造を保ったまま軋み、しなり、さらに部分を複製しながら、増殖するプロセスである

その動き続ける構造体の中に意識と呼ばれる領域が生じる。テレンス・ディーコンの説を借りれば意識は言葉という構造体の中にあるサブシステムとみることができる。

人類のコミュニケーションのレベルにある言語を停止させるということは、この意識というサブシステムと日常性の言葉のシステムとを接続している回路、配管、流路を、一時的にシャット・アウトするということである。

そうすると意識のサブシステムだけが、日常性の言葉のシステムからのインプットなしに、ひとりで動き出す。ちょうどを見るような状態である。夢では、運動神経と感覚神経からの入力信号のレベルが低下し、意識だけが自らの生み出したイメージを自ら見る。

隠れた自然は「日常性においては見えない」が、「非日常性においては」わたしたち人間に「見える」ようになる。

そして岩田氏は、この非日常へとロックを解除された意識によって隠れた自然にアクセスすることが、伝統的な社会にとっては大きな関心事であったという。

「とくに安定した、古い歴史をもつ伝統社会は、いずれもこの<隠れた自然>に重大な関心を示している。」岩田慶治『コスモスの思想』p.123

岩田氏は続ける。

伝統文化は決して目に見える自然、あるいは半自然、あるいは、いわゆる自然環境の上に、そういう土台の上におのれ自身を構築しているのではない。そうではなくて、日常性においては眼に見えない、<隠れた自然>の上に、そういう土台のうえに、おのれの文化的支柱を建立しているのである。」 岩田慶治『コスモスの思想』p.123

目に見える自然、というのは、素朴な日常の意識によって当たり前のようにみることができるあれやこれやのものごとであるが、それはさきほど書いたように「半自然」なのであった。

そして伝統的な「文化」が自らと鋭く対立させて、それによって自らを際立たせる相手とする「自然」とは、人間に飼いならされた文化の一部のような「半自然」の方ではなくて、「隠れた」自然の方であるという。

そうして「伝統文化には、必ず、<隠れた自然>を見るための文化的装置がある」と岩田氏は書く。(「岩田慶治『コスモスの思想』p.124)

「単なるシンボルが文化を統合しているのでは決してない。われわれの文化はそれほど−−シンボル作用を容易に受け入れるほど−−ひよわなものではない。」岩田慶治『コスモスの思想』p.124

隠れた自然を見るための文化的装置は、観察者の目には、様々なシンボルとして映る。シンボルは言葉だったり、呪物だったり、儀式や儀礼の様式だったりする。

ここで岩田氏が指摘するのは、そうしたシンボルそれ自体が文化を統合するわけではないということだ。

文化を統合する力は「隠れた自然」へのアクセスを通じて獲得され、動き出す隠れた自然、生の自然と対立するものとして死にものぐるいで区切りだされ区別されたところに、はじめて文化という領域が、自然に対立する領域として成立する

特別な儀礼や呪術や儀式のシンボルたちは、隠れた自然と生きた人間とのコミュニケーションを開く営みに用いられてこそ、その結合能力兼分離能力を発揮する。

隠れた自然と生きた人間とのコミュニケーションを開くためには、意識を、日常の意識から、非日常の意識へと切り分け、切り替える必要がある。

日常の素朴で素直な意識にとっては、隠れた自然との呪的なコミュニケーションのためのシンボルたちもまた、その隠れた呪力に気づかれることのない、日常のリアルな世界を織りなすシンボルたちの中の風変わりな仲間のひとつに見えてしまう。

伝統文化が滅びるというのは、目前自明の、しかし<隠れた自然>の事実がシンボルに置き換わり、シンボルがきわめて手軽な便宜的、機能的な信号に代置されるからである。」岩田慶治『コスモスの思想』p.124

「<隠れた自然>の事実」へアクセスする非日常の意識が眠ったままになり、シンボルが非日常の意識から遊離してシンボルそれ自体として浮遊していく時、文化が滅びると岩田氏は書く。

まとめ

今日の私たちは、抱えきれないほど多数のシンボルを持っているし、そのシンボルたちは日々ものすごい勢いで増殖し続けている。

しかしそれらのシンボルは、果たして非日常の意識を呼び覚まし、私たちを文化の根源的な区切りだしへと直面させる「隠れた自然」「生の自然」のもとへといざなう呪力をもっているだろうか?

どうにも心許無いところではないだろうか。

最後に、ここは岩田慶治氏の『コスモスの思想』の中でも、特に読み応えのある一節だとおもうので、丁寧に引用してみよう。

死者の魂が他界に行き、そこにしばらく滞在したのちに現世にたち帰って再生する。それは一つの虚構である。したがって、この虚構がそのままに真実であるという私の言い方は、はなはだ非科学的であり、学問的でないと思われるだろう。その通りである。しかし、虚構の自己に生きているわれわれが、なぜ虚構のなかの一つの虚構を笑う資格があるのだろうか。ケンヤー族の虚構を突き崩すためには、その前に、われわれ自身の虚構の殻を破らなければならない。[…]われわれがそのように試みるとき、その<とき>、その<ところ>、において、突如として虚構が虚構のままで虚構でなくなる見えない自然が突如として見えてくる。p.132

問題は「虚構」である。

死者の再生ということも、あるいは現代社会の私たちが信じて止まない「自己」ということも、いずれも「虚構」である。

わたしたち人間が、周囲の仲間たちと同じような言葉を使って何事かを「わかった」と思って生きている限り、そこには虚構があり、シンボルがあり、虚構のシンボルの体系としての文化があるということになる。日常の言葉の体系のなかで、素朴に虚構という言葉と対立させられている「真実」や「リアル」や「事実」といったことさえもが、この人間の区別の性能というレベルでは「虚構」なのである

人生のあらゆる意味や、自分自身の存在もまた「虚構」だと言われると、驚いて残念な気持ちになる人もいるだろうけれども、それは虚構という言葉を「悪い意味」の方に区切りだしているからである。

いま問題になっている虚構とは、そういうレベルの問題ではない。すでに区切りだされた良いものと悪いもの、ほんとうとうそ、といった区別のどちら側に属するかといったことは問題ではないいま問題になっているのは、良いものと悪いものを分けること、ほんとうとうそを分けること、その分けること、区切ること、区別すること、それ自体の働き方である。

シンボルのペアが重畳していく運動は、本来、区別するという働きの多様で複雑な動きそのものであって、非日常の意識を開き、隠れた自然とコミュニケーションを試みる余地を開き得るものである。

ことをすっかり忘れてしまって、シンボルが他のシンボルを名指しする無限ループが増殖してゆくばかりになってしまったとき、私たち文化的な文明人は、文化が自然から区切りだされたものであることを忘れて、文化それ自体が全世界の全存在を網羅していると思いこんでしまうことになる。そうして全世界の全存在が、予め確固たるものとして固定的に区別完了済だと見てしまう。

そこに対して岩田氏は「虚構の殻を破らなければならない」と書くのである。

虚構の殻を破る。

シンボルを、隠れた自然との断絶を約束されたコミュニケーションへと赴かせること。

その先で「虚構が虚構のままで虚構でなくなる」のである。

虚構が虚構のまま虚構でなくなる。

虚構が、虚構でありながら、虚構でなくなる。虚構であって虚構でない。

これは人間の文化が自然から、隠れた自然から区切りだされる瞬間に起こり得ることであろう。

砂浜と海を、私たちはどこで区別できるだろうか? あるいは、どこで区別したいと望み、どこで区別「すべき」と執念を燃やすだろうか。

人間が人間であるかぎり、「区切る」ことを止めることができないとして(つまり区切ることをやめて自然そのものに溶け込むようなことはかなわないとして)、あくまでも自然と対峙し対立し対決する文化の領域を開き続けることが「生きる」ということだとすれば、この区切り方を変幻自在に変容させることができるということこそ、人類に与えられた最高水準の自由なのであろう

けれどもこの自由の力の使い方は、現代の日常性の自由、シンボルの組み合わせ方の自由としての自由とは、まったく異質であり、もう随分前から地球上のいたるところで忘れられてしまっているのかもしれない。


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