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粘菌は曼荼羅であり深層意識である ー安藤礼二著『熊楠 生命と霊性』を読む


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南方熊楠といえば、大英博物館で文献を読み漁ったり、粘菌を採集して観察したり、『ネイチャー』誌に寄稿したり、不思議な曼荼羅を描いてみたり、神社合祀反対運動を牽引したりと、大きく異なるいろいろなことに手を広げた人のように見える。

『ネイチャー』に掲載された熊楠の文章は、オンラインにもアーカイブされている。

曼荼羅というのは「南方曼荼羅」と呼ばれるもので、それについては下記の文献の中沢新一氏による解説がおもしろい。

また粘菌というのは現在でも(でもというか、ますます)生物学はもちろん、コンピュータサイエンスやアートまで、「かたち」を作り出す「知性」に想いを巡らせる様々な分野にインスピレーションを与え続けている。

こういう多才(?)な様子の南方熊楠をみると、一点集中で「専門」を極めたというよりも、多様で幅広い領域に粘菌のように触手を広げた人と映るけれども、それはどうやら表面的な印象らしい。

安藤礼二氏の『熊楠』の冒頭には、次のように書かれている。

南方熊楠は、おそらく、その生涯をかけて、一つのヴィジョンを追い求め続けた。それを一言でまとめてしまえば、非生命と生命の差異、物質と精神の差異を乗り越え、森羅万象あらゆるものが発生してくる根源的な場を探究すること、となるであろう。(安藤礼二『熊楠』p.6)

熊楠はAと非Aの「差異」と対立する「ひとつ」のことを追い求めた。それが何かといえば、「森羅万象」が「発生してくる根源的な場」である。

差異というのは、Aと非A、何かふたつのことが対立関係にある姿である。そして「森羅万象」は何であれ何らかの対立関係にある二つのことの片方なのである。

森羅万象あらゆるもの、物質も、精神も、人間も、動物も、生命も、非生命も、すべてのものが「ある」ということは、それらを「ない」(互いに区別されない、差異がない)ところから「ある」(区別がある、差異がある)へと転換する作用が働いたということである。

すべての「ある」ものは「ない(あるいは「あるではない」)」ところから発生して、「ある」へとかたちを成すに至ったものである。


私たち人類が物事を思考するやり方には、あるものが「ある」ということを前提として措いた上で、他の「ある」との関係を考えるというやり方がある一方で、「ある」が「ある」に至るまでの発生のプロセスの動き方を問うというやり方もある。

熊楠は後者なのである。安藤礼二氏は上に引用した文章に続けて、次のように書く。

熊楠は、そのような根源的な場を、まずは粘菌に求め、さらにはそれが曼荼羅という形に昇華され、最終的には潜在意識の構造的な把握というかたちに落ち着いた。(安藤礼二『熊楠』p.6)

粘菌、曼荼羅、潜在意識の構造。一見すると異なる「専門分野」の領域に分かれて見えるが、熊楠はその深層に「ひとつ」のことを見ていた。それが即ち、あらゆる「もの」が「発生」する根源的な場、その場の働き、動き方である。

例えば熊楠は粘菌をつぎのように捉えていたという。

熊楠は、粘菌がもつ「多」として展開される胞子(植物)としての側面ではなく、そのなかに無限の分化と変化の可能性を孕んだ「一」なる原形体(動物)として活動を続ける側面を重視していた。(安藤礼二『熊楠』p.15)

「無限の分化と変化」、そして「活動を続ける側面」とあるように、粘菌の動く姿、「分化」し「変化」し続ける動き、その動きを通じて多様な形態を成すという「発生」のダイナミックな動きが、熊楠を捉えたという。

粘菌も、曼荼羅も、潜在意識も、いずれも静止固着したものではなくて、動き、蠢く。その多様な動きのなかに生じる反復的なプロセスが動きのパターンを描き、そしてその動きの痕跡として、一定して安定しているという外観を呈する「もの」たちが織りなす一貫性をもった世界が発生する。

潜在意識の構造、『燕石考』、神話論理、分節化作用と意味分節体系の発生

ちなみに曼荼羅というのも、根源的な「一」から無数の「多」が分化し発生する動きを表している。例えば密教の胎蔵界曼荼羅では、いっぱいに描かれた様々な菩薩や神仏などは、すべて中央の大日如来が姿を変えたものだという。描かれた個々の神仏は大日如来と一にして多、多にして一の関係にある。

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ところで潜在意識というのはどういうことなのだろうか?

安藤礼二氏は熊楠が考える潜在意識について、次のように書く。

潜在意識は曼荼羅のように、あるいは粘菌のよう構造化されている。(安藤礼二『熊楠』p.55)

ここで構造と呼ばれるものは、かっちりとした部品を正確に組み上げて形成される不動のものではなく、ダイナミックな分化・発生の動きである。

外部と内部、自然とこの私、物と心という相対立する二項の間引かれ、その両者を縦横無尽につなぎ合わせる無数の「事」の総体、原因と結果を結ぶ「事」の線の集合でもあった。(安藤礼二『熊楠』p.60)

事(ものではなく事)の「線」(項に対立するものとしての線)が、対立する二項のあいだを「つなぎ合わせる」(二項対立関係を区切るのではなく)。そしてそういう線が「集合」して束になる。

構造は、二項を区切りながらも付かず離れずのペア関係を保ち、その上で、そうしたペアをいくつも重ね合わせては、第一のペアの片方の項を、第二のペアの一方の項と、異なるが同じという関係に置いてはペアとペアを接続する。

この区切ること、付かず離れずの関係を保つ事、重ねること、異なるが同じとすること、といった一連の動きこそが、この構造を構造として不断に発生させ続けている。

この動きのどこか一部でも止まってしまったら、構造は消えてしまうだろう。

潜在意識の動的な構造とはこういうものであり、そこから夢や神話が生じる。

夢?

神話?

どういうことか?

粘菌としての潜在意識、曼荼羅としての潜在意識は「夢」を通してその働きをあらわにする。熊楠にとって「夢」とは、通常では分裂したままである二つの項を一つに結び合わせるものであった。…「夢」は…「もの」たちの重なり合いのなかから無数の論理の束、関係の束を導き出す。…熊楠はつねに二つの極のあいだを揺れ動き、二つの極の矛盾と相剋のなかから、「夢」を媒介として、特異な神話的思考方法を編み出していった。(安藤礼二『熊楠』pp.55-56)

二つの極。

たとえば物質と精神、非生命と生命もまた、二つの極からなるペアである。このペアもまた予め他と無関係にそれ自体として存在する二つのものが、後から二次的にセットにされたというものではない

精神と物質は、非生命と生命は、両者の区別は、区別以前の一つの動きを通じて発生する。

熊楠はこの区別以前で動く区別を生じる動きを「粘菌」あるいは「潜在意識」あるいは「曼荼羅」として、あるいは「そのなかに無限の分化可能性を秘めた一つの「卵」」(p.26)として思考した。 

この「卵」は「原初の細胞」であり、それこそが「原初の「魂」であり、…原初の「魂」とは原初の細胞のことでもあった…p.27

魂と細胞、精神と物質、心と物。この区別されるペアは、どちらも同じ一つのところで発生する。

この発生のプロセスは一つから二つへという方向で動くと同時に、二つを一つにする方向でも動く。

脳に発現する「狂気」、「粘菌」の生態の発見、「夢」にかわるがわる訪れる「死者」と「生者」の幻像…。三つの要素が一つに連結し、熊楠にとって、粘菌として活動をつづける潜在意識(アラヤ織)の原型が形作られた。私はそう思っている。(p.72)

一を二へと変換することと、二を一に変換すること、どちらが本物でどちらが偽物かといった区別をそこに重ねることはできない。

一を二へと変換することと、二を一に変換することは、ひとつのことなのである。一即二、二即一。

われわれ地球人は、というか生物全般は、なによりも「自」と「他」を、「内部」と「外部」を区別しつづけることで、かろうじて外部ではないものとしての内部、他ではないものとしての自己を不断に発生させつづけることで「生きる」。

食べ物という「外部」を破壊して摂取し「内部」を再生しつづける。

免疫システムがウイルスや細菌を「自分ではないもの」として区別することでかろうじて生き続ける。

神経ネットワークも脳も、ニューロンのオンオフという小さな区別する処理を無数に集めたものだ。

生命は区別をする。

ではなぜ区別を「する」のかといえば、それはこの世界の存在が根源的には区別がない、区別されていないからである。無分節。未分化。区別というのは出来合いの何かではない。区別はあくまでも「する」であり動きであり、処理である。そしてその動きが動く以前には手前には「区別された」何かと何かの対立はない。

しかし、区別以前からはじまりながらも、区別「する」動きのあとに残された出来合いの「区別」を大前提として、そこから始まるのが生命である。なぜなら生命は非生命と区別されないことには始まらないからである。

ちなみにこのあたり生命のはじまりの経緯については、こちら↓の動画が参考になります。

そうしてあらゆる生命は、一度はじまった生命と非生命を区別する動きを反復し続けるように動き続けるわけである

人間という珍しい動物の珍しさは、この区別することを肉体で行うだけでなく、言語という身体の外の記号のシステムの中で行うことができてしまう点にある。

言語における意味分節が、今度は生身の人体に取り憑いては自他の区別を意識や感情の問題を引き起こす。いわゆる「煩悩」や「我執」の始まりである。己のものに決してならない「他」を欲望しては苦しみ、己の分だとされるものを「他」に奪われることを恐れては苦しむ。

とはいえ言語は身体的、肉体的、神経的、免疫的、あるいは遺伝的な区別する動きとは異なり、極めて高速に区別の動きの動かし方を組み替えることが可能である。しかも複数の区別の仕方を重ねたり、複数の区別の仕方を高速で交代させたりすることもできる。

言語という意味分節システムは、分節のやり方を常に新たに発生させ、変容させることができる。そうして固着しかけた分節体系を動きの相へひきもどすこともできる。しかしもちろん、それは言葉の日常のお行儀のいい姿から想像もできないような深層での話である。

ところで熊楠といえば、ゲゲゲの水木しげる先生の『猫楠』。熊楠の伝記漫画である。

私は、随分前にこの『猫楠』を読んでしまってからというもの、熊楠という文字をみると無意識において自動的にこの水木先生の絵が想起されるようになっている。表紙で驚かれてはいけない。中身もすごいのであるが、水木先生の「線」の力で、すべてが生命の流れなのだと思わせてくれるのがよい。

熊楠を深刻な顔をして読もうとおもっても、いつもこの漫画の絵が頭の中でしゃべったり嘔吐したりする。もしどこかで大真面目な顔で熊楠について喋らないとマズイ事態に追い込まれた時、これは困るかもしれない。

そういうわけで、何か別のビジュアルを脳裏に焼き付けることで多を一にする多重変換をしておこうかとも思うのだけれども、熊楠ご本人が書いている「履歴書」を読むとこの水木先生の絵がこれ以上ないほど「すべて」をうまい具合に未分節のまま分節し、分節しながら未分節へと引き戻そうとうする「線」たちなので、そのままにしておく。


つづく

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