意味分節理論応用編(2) 詩的言語で表層の裏側ー表層でもなく深層でもない分かれつつある未分へ分け入る: 知る/知らぬ 橘/時鳥 永遠/今
檜垣立哉氏の『バロックの哲学』を引き続き読んでいる。
第九章「九鬼周造の文学論」で檜垣氏は九鬼が記した「永遠の今」という言葉を取り上げている。
◇
永遠の今
えいえん の いま
「今」と「永遠」は素朴には対立する言葉である。
今、といえば、今この一瞬、分厚い過去と際限のない未来に挟まれた小さな部分という感じがする。対する永遠といえば、過去から未来までを貫いて果てしなく広がるなにか、という感じがする。
今 / 永遠
小さいもの / 大きいもの
短いもの / 長いもの
このような具合に対立する二つの事柄をひとつに結びつけるのが、永遠なのに今、今なのに永遠という「永遠の今」ではないだろうか。
プラスとマイナス
aと非a
真逆に対立する二極を短絡しつつ、しかしあくまでも二つの極はそれぞれのまま、はっきり区別できる。「今」と「永遠」を直結し、「今」に「永遠」を浮かび上がらせ、「今」を「永遠」にする営みとして九鬼が論じたのが”詩”である。
九鬼による詩論の中で、特にここで檜垣氏が取り上げておられるのは、次の芭蕉と蝉丸の歌である。
無粋を承知で、この詩歌を意味分節理論で読んでみよう。
まず芭蕉の句である。いつのの「の」、野中の「の」。「の」という音の連なりと(母音の類似でいえばほととぎすの「ほ」も似ている)、橘の木にとまってさえずっているであろうホトトギスのイメージにおいて、以下のような対立する二極が一つに重なり合う。
(いまここの橘の木)/ いつかの野中
いま / いつか
今 / 永遠
植物 / 動物
動かないもの / 動くもの
声を発するもの / 声を発しないもの
香るもの(柑橘の香り) / 香らないもの(動物の香り)
地(に根を張るもの) / 空(を飛ぶもの)
…
こういう一連の、鋭く対立する二項の対立関係が、この句の中で一つに重ね合わされ、結び合わされる。そのムスビの糸となるのが、橘の樹に隠れた時鳥のイメージであり、「の」あるいは母音「お」の連打である。
*
次に蝉丸の歌である。
これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関
これまた大変な句で、kの音(?)の連鎖と、sの音(?)の連鎖を、aの音が挟み込むという音の対立構造と、そこで展開される以下のような対立する二極の短絡・直結が、どちらがどちらかわからないようなわかるような、根源的な未分節からいままさにあらゆる事柄が分かれ始めつつある(今/永遠の区別も)様子を、歌の全体でもって象徴する。
これ / この
行く / 帰る
知る / 知らぬ
別れる / 逢う
この鋭く対立する二極を、二本の子音の連鎖の線でムスビ合わせていく。
この二つの歌は、意味分節ということを考える上でも非常におもしろい事例だと思う。
プラスとマイナス、aと非a、真逆に対立する二つの事柄を短絡する。
実はこの短絡ができるということこそが人間の言語の真骨頂である。
というか、真逆に対立する二つの事柄を含め、互いに異なる二つの事柄を、異なったまま一つに重ね・まとめることができることこそが、人間の言語の「意味する」ということを可能にしている。
あらゆるものを、他のあらゆるものの象徴にしうる、ということこそが人間の言語のような意味分節システムの発生を、その動態を、その静態を、支えているのである。
類化性能
この話について、ちょうど手に取った中沢新一氏の『古代から来た未来人 折口信夫』でとてもわかりやすく解説されていたので参照しよう。
注目したいのは「一見するとまるで違っているようにみえるもののあいだに類似性や共通性を発見する」という一節である。
違うのに似ている。
違うのに共通性がある。
じっくり読めば読むほど不思議な話である。
違うと言っているのに、違わないような気がする、と言う。
違うと言うのに、共通しているような気がする、と言う。
ものごとの区別がつかなくなっているわけではない。分別はついている。違うものは違う、と区別することができている。しかしその上で、似ている、共通している、と言う。
この区別しながらも同時に区別しないということができる能力を「類化性能」と呼ぶのだという。「類化性能」を中沢氏は「アナロジー」と言い換える。
アナロジーとは、「詩のことばなどが活用する「比喩」を生み出す力である。比喩とは、ある何かを他の何かで(に)”喩える”ことであり、そこでは「ひとつのものごと」を「別のもの」に「重ね合わす」ことが為されている。
ひとつのものごと / 別のもの
↓
ひとつのものごと = 別のもの
A / B
↓
A = B
AとBを別々のものとして区別し、分別した上で、AとBを似ている、共通している、同じようなものだ、と置く(重ね合わせる)。AとBを区別しながら区別しない。このことから「意味が発生する」のである。
意味するとは、ある何かが別の何かのことを意味する、ということである。
ある何かが別の何かを意味することができるためには、ある何かと別の何かを分けることができていなければならないと同時に、その区別された二つを結びつけること、重ね合わせることができないといけない。
アブダクション
この「喩」について理解する上で、グレゴリー・ベイトソンの「アブダクション」の話も参考になる。
ここでいうアブダクションとは、ベイトソンによれば「ある記述における抽象的要素を横へ横へと広げていくこと」である。
つまり互いに異なるあれこれの事柄の間を「横へ横へ」と走りつつ、そのすべての事柄をあるひとつの抽象的要素に置き換えて記述すること、と言い換えられるだろうか。それは異なる物事のあいだに同じさを見つけていくことであり、異なることを異なったまま同じとしてつなげていくことである。
ベイトソンのこのくだりにちょうどトーテミズムという言葉も出てくるが、ここで思い出すのはレヴィ=ストロースの『今日のトーテミズム』の一節である。
現生人類の精神(心でもマインドでもいい)とは、「項の区別を維持したまま」つまり区別し、区別したまま、「一方の次元から他方の次元に変えることができる」ところにその際立った特徴があるというというルソーの話である。この区別したまま、一方の次元を他方の次元に変える、というのが類化性能やアブダクションと”似ている”。なんらかの対立関係にある二項を対立させたまま重ね合わせることもできるという人象徴の力=意味分節する力が、あちらにもこちらにも顔を出す。
ちなみに、レヴィ=ストロースの書いていることの中に重要なポイントがさりげなく隠れている。項と項の区別を維持したまま、一方の”項”を他方の”項”に変えるとは書いていないのである。変換が生じるのは項と項の間ではなく、項が互いに区別されつつ配列されている「次元」どうしの間である。象徴作用は、複数の項たちを混同したり区別できなくなったりすることではない。区別はできるし、対立もしている、し続けている。それにも関わらず「似ている」という点でひとつの類になる。
ここで似ているというのは第一の分節の系列(次元)に配列された項aと、第二の分節の系列(次元)に配列された項bとが、項どうしが、直接的に「そっくり」ということではない。レヴィ=ストロースは次のように書いている。
似ているのは、第一の分節の系列の内部での項aと他の項a1…anたちとの異なり方と、第二の分節の系列の内部で項bと他の項b1…bnたちとの異なり方である。
”○ と □ が 似ている” ーのではなく
”○/● と、□/■ が 似ている ーのである。
単に第一の項と第二の項が「似ている」とか「似ていない」という話になると、「どこか似ているのか」という類の問い方=論理が発動してしまい、二つの項それ自体の中身(?)であるとか属性(?)とか本質(?)のようなことの話へとスライドしてしまう。そこではしばしば、第一の項も第二の項も(その中身も属性も本質も)、それぞれいくつかの系列の中で区別され、分節され、切り分けられたもので、ある項がその項であるのは他の項ではないからであり、各項はなんら「自性」を持たない…、という肝心なところに論理の水準が組み変わっていかない。
(レヴィ=ストロース氏のこの一節についての精読は下記の記事にも書いているので参考にどうぞ)
* * *
さて、中沢氏の『古代から来た未来人 折口信夫』の続きを紐解いてみよう。
「ふつう」と「新しい」。
普通の分け方ー繋ぎ方と、新しい分け方ー繋ぎ方。
わたしたちの社会は何かと何かの分け方と繋ぎ方を、ある一定のパターンに限定することで意味のコードを安定させている。
社会的習慣的に許される分け方ー繋ぎ方と許されない分け方ー繋ぎ方を区別するのである。その区別を反復することで、世代を超えて社会を再生産する。
この社会のコードを安定させるための道具としての言語もまた、何が何を象徴しても良いという、根源的にはすべてが全てと結びつき=象徴になりうる力を飼い慣らして使っているようなものである。
ここで何と何を重ね合わせるのかについて、定型化したパターンと、意外な組み合わせとを区別することができる。
現在の人類の心と、旧い人類や他の大型の動物たちの心とのおおきなちがいは、互いに異なるものとして区別した別々の事柄を、異なったままひとつに重ね合わせるということができるか否かにある。
象徴
ある何かAがある何かXを象徴する、というとき、AとXはそれぞれ異なる別々のものとして区別・分別されるが、同時に結びつき、ひとつになる。
ひとつになるといっても区別できない姿に混じり合って溶け合ってしまうということではなく、あくまでも二つに分かれながら、ひとつになる。
異なるが同じであり、同じでありながら異なる。
二でありながら一であり、一でありながら二である。
この分けることもできるし、つなぐこともできる。そして分けながらつなぐこともできるし、つなぎながら分かれたままにすることもできる、というのが現生人類の「心」が、象徴を発生させるしくみであり、性能である。
現生人類以前の人類の”ことば”がどういうものか録音されたデータがあるはずもなく、文字に残されてもいない以上、客観的に検証することはできないが(そもそもそれを言葉という言葉で呼べるのか、という議論もある)、現生人類以前の人類が仲間とのコミュニケーションに用いていた音声は、おそらく動物の鳴き声などと同じようなものだったであろうと推定される。現在でもさまざまな猿たちが、さまざまな鳴き声を組み合わせて、仲間同士で情報伝達を試みている。
動物の鳴き声や唸り声や吠え声などの場合、音声と、その意味内容の結びつきが固定している。意味するものと意味されるものの結びつきが固定している。
鳴き声や唸り声や吠え声 =固定= 意味内容
意味するもの =固定= 意味されるもの
例えば、うーっと低い唸り声を出しつつ歯をあらわこちらを睨んでいる犬が居るとする。この場合の鳴き声の意味は「噛むぞコラ」だと推定される。
もちろん犬にもいろいろいるわけで、この犬に聞くことができれば「実はこのウーッは、僕的には親しみの表現で、一緒に遊ぼうよ!の意味なんですよ!」など言う可能性はゼロではないかもしれない。が、この後者の可能性に賭けて、低く唸る犬をハグしにいくのはやめた方がよいのではないか。
少なくとも私はしない。
犬のような動物や鳥たちが空気の振動に託した音声の場合、その意味はほぼ固定的に決まっている。
*
これに対して、現生人類の言葉では、意味するものと意味されるものの関係を動かすこともできる。固定することもできるし、動かすこともできる。
固定されている姿と動いている姿、どっちら本当の姿でどっちが仮の姿か、と問われれば、どちらも本当の姿であると答えたい。固定されている姿は、実は動いていることの効果である。動きが同じような動きを反復するところから残像のようなものとして固定した姿が仮に浮かび上がってくる。
止まっているというのはそのような動き方で動いているということである。
この動きを通じて、あるひとつの意味するものXに対して、それと結びつく意味されるものはいくつにも増えていく。
意味するものX = 意味されるものA1
= 意味されるものA2
= 意味されるものA3
= 意味されるものA4
= 意味されるものAn
…
= 意味されるもの非-A1
そしてここが一番肝心なのだが、何かのはずみで、あるひとつのXと結びつく相手に、A1と非-A1が同時に収まるという事態が起きる。真逆に対立するA1と非-A1が、同時にあるひとつのXの置き換え先になる。
こうなると、Xは美しく醜い(醜く、美しい)とか、Xは清浄であり穢れている(穢れており、清浄である)とかいうことになる。
ここでまた、なにかのはずみでXが姿を消してしまうと、”美しいは醜い”、”醜いは美しい”、”清浄は汚穢である”、”汚穢は清浄である”と言う具合に、通常の意味では真逆に対立する相入れない二つの事柄が、ふたつのままひとつにショートされることにもなる。汚穢こそが清浄性の象徴であるとか(その逆も)、醜さこそが美しさの象徴である(その逆も)ということでもある。
詩や小説、文学では、しばしば言葉は上記のように、通常素朴には自らと鋭く対立する対極にある項の象徴となり、その意味をひっくり返したりする。
知るも知らぬも、行くも帰るも、である。
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異なるが同じであり、同じでありながら異なる。
二でありながら一であり、一でありながら二である。
なにかとなにかの結びつきのパターンを自在に発生させることができる点に、現生人類の言語と旧い人類の「言語」の違いが際立つ。
両者の言語の違いを、C.S.パースの用語を援用して、シンボル的言語とインデックス的言語との違い、と言うこともできるかもしれない。シンボルというのは象徴であり、意味するものと意味されるものの関係を自在に動かし結び直すことができる。一方のインデックスは熊の糞は鹿の糞ではなく、熊が存在することの記号であり、鹿の存在の記号ではないではない、というレベルで意味する記号と意味される内容が分かち難く固定的に結びついている。
* *
C.S.パースといえば檜垣立哉氏の『バロックの哲学』でも取り上げられている。これについては下記の記事に書いているので参考にどうぞ。
*
こういう現生人類の言語が表向きの社会のコミュニケーションの道具としての姿の下に深く深く隠している、象徴する力、アナロジーの力、類化の性能を、まさに表向きの言葉の表面でもって自在に躍らせるのがさきほどの詩にあるようなコトバたちなのである。
先ほどのベイトソンは次のように書いている。
表向きの社会のコミュニケーションが失敗に失敗を重ね、お話にならないような状況になったところでも(従来からの分節のコードを反復するだけでは、ダイナミックに変動する環境と人間の心身系のシステムを分節できなくなった場合でも)、現生人類ならば、言葉の深い底に隠れた未分節の分節の動きを引っ張りで出しては新たな意味のーー新たな区別と重ね合わせのーー新たなイメージの可能性を思考するための言葉の組み合わせ方を仮設し、試すことができる。
もちろんそのためには、全てが全ての象徴になりかねない鬱蒼としてありとあらゆる何かが蠢く不気味な「象徴の森」を、その地表を剥ぎながら歩き回るような”野生の思考”(レヴィ=ストロース)とか、”秘密荘厳心”(空海)の論理を鍛えないといけない。
そこでは意味するものと意味されるものとの関係は、固まっておらず、安定しておらず、動き変化し続ける。
これもベイトソンによる一節である。あれこれの前提、つまり何と何を結びつけることができたりできなかったりするのかをはっきりと固めたコードを、弛緩させ、矛盾を引き起こすことこそが、「変化」の動きが動かざるをえない余地を開く。
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表向きの社会に表層で固まった安定性という外観を停止ている記号たちの関係も、実は、ずるずるごそごそと蠢く「象徴の森」の表土の深みの中で怪しげな生き物たちが動き回った影なのだ。わたしたちはそういうモノに憑依されて、およそ思考し、語りうるすべてを分節させられている。
表層の硬直した意味するものと意味されるものとの関係を弛緩させ、矛盾を発生させる。そうすることで、何と何を置き換えることができるのかについてコードは変化せざるを得なくなる。その後に、私たちは新たな記述のための言葉と、新たな意味、新たな意味分節のやり方を束の間、仮設できるのである。
動きつつ止まり、止まりつつ動く。
動くか、止まるか、どちらか一方を選べ、というのではない。
動きつつ止まりつつ、止まりつつ動く。動いているような止まっているような。そこに「意味する」ということが、「象徴の森」が生きるのである。
物質的なシステムと違って意味分節のシステムは、この動くことと止まることの間を瞬時に飛び移ることができる。
同時に動きながら止まる、といった対立する両極をひとつに重ねる動きを、いつでもどこでも動かすことができる。
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詩を読んだり、口に出したり、書いたり、という営みはそうした精神の野生へのジャンプなのではないか。
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AIが意識をもったら怖い、という話がある。
個人的にはAIが無意識を持ったらもっと怖いと思う。
なぜなら無意識こそが類化性能の躍動であり、アブダクションの暴走であり、現生人類が現生人類である所以に他ならないからである。
無意識の好き勝手にもさせず、表層意識の好き勝手にもさせない。
深層と表層を、分節しつつひとつにつなぎ、つなぎつつ分節する。
その実践の一つの形として、詩や神話や曼荼羅と、その論を読むことがあるのではないかと思うのであります。