意味は星空のように構造化されている −月と惑星と彗星/コズミックフロント
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テレビは主にNHKを観ている。
そう言うと「田舎のおじいちゃんみたいだ」などと応じてくる人がいる。
その発言、おそらく下記のような意味の構造に基づいて発せられたのだろう。
田舎 − 都会
│ │
おじいちゃん − 若者
│ │
NHK − NHK以外
田舎と都会が対立し、おじいちゃんと若者が対立する。
この二つの対立が「田舎の−おじいちゃん」という構文で重ね合わされる。
ここに他のいくつもの対立が引き寄せられる。
「老い/若さ」「衰え/栄え」「嘲り−尊敬」「価値有/価値無」…。
こういう具合での対立関係の設立と、その重ね合わせのパターンのことを意味の構造と呼ぶ。
意味の構造
意味の構造というのは対立する言葉のペアを複数重ね合わせたものである。
何と何を対立させるのか、どの対立と対立を重ねるのかは、人それぞれの自由である。
対立関係の重ね合わせ方のパターンは個々人の頭の中で作られ、作り直されるものであり、予めどこかに規則として刻まれているものではない。
もちろん同じ言語コミュニティに育てられた人同士であれば、概ね似たような対立の重ね方をするし、他人がやっている重ね方が自分のそれとは異なったとしても、だいたいなにを考えているかは理解はできる。これが同じ言語を解するということである。
ちなみに私は「NHK」を「田舎」にも「おじいちゃん」にも重ね合わせていない。だから「田舎のおじいちゃんみたい」と言われてもピンとこない。ただ「なるほど、そういう意味構造で考える人もいるのだな」とおもしろく思う。
人類と星
NHKを観るといっても、テレビをつけっぱなしてずっと観ているわけではない。時間があれば主にレヴィ・ストロースとかユングとか、最近では『レンマ学』とか、安藤礼二先生の『列島祝祭論』とかを読んでいるので、テレビに配分できる時間は限られている。観るのはピンポイント、観るべき番組だけを観る。
最近放送された「コズミックフロント」。星の話であるが、今回は「人類と星のファーストコンタクト」ということで、私が大好きな「神話」の話である。それもアフリカを出たホモサピエンスが、星に導かれながら星に託して思考したであろう神話の話である。
番組には『世界神話学入門』の著者、後藤明先生のコメントもある。
人類は何万年もかけて進化してきたわけであるが、元々はアフリカの一地方だけに生息する一種であった。
それがある時を境に旅にでた。
歩き、またおそらく船を使い、アラビア半島から地中海周辺へ、インドへ、そして今はタイランド湾に沈んでいるスンダランド、さらにはオーストラリア、東アジアへ。そして中央アジアを通ってきた仲間と混交しながら、南北アメリカ大陸へ。
生まれた時の環境に内在して充足していた先祖の類人猿たちと異なり、なぜ私達ホモサピエンスは、わざわざ見知らぬ土地を目指すようになったのか?
その背景には、言語で思考する力の獲得があったという。この出来事を『サピエンス全史』のユヴァル・ノア・ハラリは「認知革命」と呼び、たくさんのページを割いて論じている。
言語で思考する力とは何か?
それは「意味」を作り出す力である。目に見え耳に聞こえる感覚的な世界の秩序の上に、高次の秩序を重ね合わせる。そうすることで目に見える世界の「先」に、別の世界が開かれていると信じ、その確信を仲間と共有する力である。
言葉で考えることができるようになった人類にとって、星は、なによりもその言語的想像力を刺激するネタであった。
なぜかというと、夜空の星々の規則的運動は、人間の言語の構造(意味を生み出す仕組みの動き方)と見事にリンクするからである。
天体運動の規則性(論理性)は、ホモサピエンスの中枢神経系の作動パターンと同期する。人は天体運動の規則性に喩えて、地上の存在の起源や存在理由を語った。それが神話である。神話の論理は、人間が知覚できた天体運動の規則と翻訳可能である。
安定してペアをなす星々
冒頭で書いた意味の構造の話。意味の構造というのは、対立する言葉のペアを複数重ね合わせたものである。
夜空を眺めると、大多数の天体がいつも同じ並び方で並んで動いているように見える。
オリオン座はばらばらにならないし、プレアデス星団もばらばらにならない。プレアデス星団はいつでも「7人姉妹」で、ひとまとまりである。天の川も溢れたり涸れたりしない。古代の人間が経験できる時間軸で眺める限り、そう見える。星星はあまりにも一貫して規則的に並び歩調を合わせて同じ向きに動いている。
安定したペアを横切る星と、その運動の規則性
夜空に浮かぶ天体の中で、例外的なのが月、そして惑星と彗星である。
月は、あの輝きとサイズ感で、無数の星々が整然と並ぶ中を猛スピードで横切っていく。
その動きの軌跡は星々の中でまったくの特別である。ただし、その横切り方はランダムではなく(ランダムだと非常に困る)規則的にずれていき、そして注意深い観察者の頭の中に高次のスケールで規則性を示す。
金星に代表される惑星もその名の通り、フラフラと惑い揺れうごく。もちろん、よくよく観察をすれば規則的に動いていることがわかる。
彗星はこわい
静かな秩序を乱すようでいて、その動き自体に規則性があるということは、規則の重層性、コードの階層性のようなことを人類に感じさせる。
厄介なのは彗星で、これは古代の人の観察できる時間軸内では、まったく不規則に飛び込んでくるものに見える。静謐な動的リズムを刻むスイス製高級腕時計のような宇宙の機構の中に、どこからか砂粒が混入し引っかかってしまうようなものだ。宇宙のリズムが壊れるかも!と古代の人はこれを大いに恐れたのである。
対立関係に息を吹き込む媒介者
規則的に並ぶ星々。
その星々の配列の中に、古代の人はいくつものペア(対立関係)を見出す。「織姫と彦星」とかである。このペアは付かず離れず、いつも一定の距離を保っている。ペアはふたつでありながらひとつ、ひとつでありながらふたつである。
このペアの間を、月や惑星が「横切る」。向かい合う関係にある二つの星の間を横切る月は、ペアでありながら決してひとつにはならないふたつの星の間に束の間のコミュニケーションを引き起こしては、去っていく。そういう具合に古代の人は考えたのであろう。
「対立する要素のペアを複数重ね合わせたもの」としての意味の構造。 そうした認識を構成せざるをえない傾向を脳の中に持ってしまった人類にとって、天体の動きの規則性は格好のネタを提供したのである。天体の構造は意味の構造と「同じ」ではないか、と。
しかも夜空の星々にあいだには、月があり惑星がある。月や惑星はかっちり固まった対立関係の静的秩序のなかを、高次の運動規則をもって動く。
運動規則を持った惑星や月は、現代の人間が不得意になってしまった両義的で媒介作用をもつ言葉、そのものである。
「かぐや姫」は月であり、だからこそ、離れすぎた対立や接近し過ぎた対立をつかずはなれずの固定的秩序を媒介し結び直したところで姿を消すのである。こういう項を「第三項」という。そういう役目のかぐや姫は月でなければならず、彗星であってはならないのだ。彗星は媒介者には見えず、破壊的に擾乱する項に見える。
あるいは、はらぺこあおむしは、月と太陽が交代するとき、ぽんと卵から生まれるのである。月と太陽という対立関係の隙間を通り抜けた時、誕生以前の世界から誕生後の世界へ、潜在空間からこちらの世界へ、あおむしは躍り出る。
太陽と月は対立する二項として付かず離れずの関係を結びながら、一緒にカヌーの前と後ろに乗って、上流と下流、水界と人界を媒介しもする。
対立関係の固定的構造から離れて、対立関係自体を壊したり新たに作り直したりする結び目になる、月的な「第三項」。
古代の先祖たちに比べて、現在の人類が「第三項」を扱う力を衰えさせてしまったかに見えるのは、おそらく、夜空の星々を毎晩毎晩眺めるという夢の時間を奪われてしまっているから、なのかもしれない。
関連note
対立関係と両義的媒介項。太陽と月について
意味について
両義的媒介項としての双頭あるいは二匹の蛇
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