黒板-チョークの粉-宇宙の卵をテトラレンマで意味分節する 〜檜垣立哉氏の『バロックの哲学』 C.S.パースの章を読んで考える
意味分節について考える上で、C.S.パースの記号学も非常に参考になるのではないか、と以前から思っていたところ、ちょうど手に取った檜垣立哉氏の『バロックの哲学』の第七章でパースが取り上げられている。
さっそくパラパラ眺めてみると、”白”と”黒”を「分ける」という話が出てくる。これは!ということでさっそく拝読する。
檜垣氏はパースの思想のポイントを次のように捉える。
ここに潜勢から現勢へ、未確定から確定へ、という転換がある。
これはさらに「曖昧なもの」から「確定的なもの」へと「進む」こと、「未分化なもの」が「分化する」こと、と言い換えられる(檜垣立哉著『バロックの哲学』p.230)。
分化といえば、意味分節である。
分化を、分化した後、確定した後のほうから眺めて、潜勢から現勢が発生する、未確定から確定が発生する、などと記述することもできる。
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そしてこの未分化から分化への転換について記述すること、現勢化したもの・確定したもの・発生したものについて記述すること自体が、これまたひとつの潜勢から現勢へ・未確定から確定への転換の作用であり、まさに意味分節である。
未確定から確定したものを”取り出す”ことが記述することである。
ここで記述するということは言語による意味分節である。意味分節とはまさに未分化(未分節)からの分化(分節化)のプロセスを異なりながら同じ二項の対立を区切りつつ結びつけつつ、そういう二項の関係をいくつも重ね合わせていくこととして記述してみる方法である。
ちょうど意味分節システムの二項対立関係の対立関係を織りなす「項」たちは、まさにパースのいうシンボルである。
すなわち項=シンボルは連続的なものを連続的なまま非連続に切り分け、異なるものを異なったまま同じにする作用によってつかず離れず分かれあい=結び合う動き・出来事であるということになる。
そうしてシンボルとシンボルの関係を編んでいくことが、項と項の関係の関係を未確定のなかから発生させ、構造化しては仮に確定しつつ、また解体していく一連のプロセスである。これこそが記号の論理を構成しつづける「推論(アブダクション)」であるといえようか。
檜垣氏は次のように書かれている。
思考することは、記号がなすことである。
思考する者、「推論する「者」」とは、「記号」である。
パースにおける思考する者とは、檜垣氏によれば「デカルト的な内観」でもなく、「カント的な超越論的自我」でもなく、「予め個人という枠組みに閉ざされた」なにかでもない。
思考するものは「記号」であり、記号は「個人」を超えた「共同性」「集団性」のもとにある(檜垣立哉著『バロックの哲学』p.224)
個人を超えた、共同的で集団的な習慣化した記号化のプロセスとその変動。これは井筒俊彦氏のコトバを借りて「超個的な言語アラヤ識の意味分節修行」と読み替えてみるとおもしろいかもしれない。
私たちは”思考する者”のことをしばしば「人間」とか「自我」といったコトバで呼ぼうとするが、そうした事柄も、あくまでも記号の働き、シンボルとシンボルを異なるが同じ=同じだが異なる関係に切り分けつつ結ばれたままにする動きの反復(習慣)である。
ここで檜垣氏は岩波文庫版のパース著『連続性の哲学』にも収められている「黒板にチョークで線を引く」話を詳しく分析する。ここがとてもおもしろい。
線を引くこと、その動きの中で白と黒のような対立関係が分節されること。
そういう線がいくつも走り、絡まりあい、習慣的な束が発生すること。それとともに束が密になっている部分=習慣と、束が密になっていない疎なところ=習慣化していない疎な領域との差が際立って分かれてくる。
これぞ意味分節である。
ついでに『連続性の哲学』の方の該当箇所も眺めてみると、おやっ!と驚いたことがあるので詳しく引用しておく。
まず未分化=未分節のシンボルとしてのまっさらな黒板について。
ここにチョークで線を引く。チョーク、という粉の塊の、圧で砕けて広がっていく感じが重要である。
チョークの「線」は幅を持たない線ではなく、黒板の表面をルーペでみればわかるように白い粉が塗られた「面」である。
ここに、白い面(チョークの「線」の白い幅)と、黒い面(ベースとなる黒板の面)の区別が区切られ、この区別こそが分化させる線=分ける線である。
そして黒を白く塗ることで発生した線について、パースは非常に面白いことを書いてくる。
白と黒との断絶・区別・非連続は、あくまでも「分離される」動きによって「生じた」事柄である。それはモノではなくコトであり、止まっておらず動いており、予め与え確定されておらずいつまでも未確定と確定の間にある。
連続と非連続の区別=分節は、まさに分けるコトをやめないコト、繰り返し続けることによってのみ発生し、発生しては消え、また別のところで別の線とし発生する。
しかもこの「線」、白と黒の境界線は「線」と呼ぶことすら憚られるような、「なにか」としての自性を解除された、確定的な記述を逃れる事柄である。
そのことを強いて言語によって、分節言語によって、シンボルシステムによって記述するために、パースはまさかのレンマの論理を連れてくる。すなわち「黒でもなく、白でもなく、両方でもなく、どちらでもないものでもない」というくだりである。
黒でもなく
白でもなく
白と黒の両方でもなく …第三レンマ
白と黒のどちらでもないものでもない …第四レンマ
これはナーガルジュナの『中論』にも繰り返し登場する論理である。
パースが”分けるコト”・分節しつつある動きのことを、分節システムの内部に写像させて記述しようとするときにレンマの論理が用いられているとは!
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さて、そういう分ける動きが走り回るところから「宇宙の卵子ともいうべき原初の一般性がこのような印によって分割される」とパースは書く(パース『連続性の哲学』p.264)。
この「宇宙の卵子」を発生させる分割=分節する動きは、「単なる偶然」の動きであり「消去することもできるもの」であるという(パース『連続性の哲学』p.264)。
分割=分節する動きは、繰り返し反復されつつ「習慣」として「確立」されてこそ「短時間でも留ま」ることができるようになる。「偶然的な生起の重なりによって一般化する傾向が新しい習慣を形成する」のである(パース『連続性の哲学』p.266)。
ここでパースの論は急展開する。
直線の多数化とはどういうことかというと、次の図のことである。
一本一本の線が集まって「卵」の「外皮」を成している。
ここで一本一本の線は卵の「外皮」の一部になることで、それぞれの線としての個別性を失っていく。つまり、自由に走り回ったり現れたり消えたりするのではなく、ただ外皮の構成要素としてそこにじっとしているようになる。
外皮に吸収されることで、線は分割=分節=分ける動きを失い、「添え物」になる。
ところで線たちを添え物として従える「卵」たちは卵たちで、こちらはこちらで、多数発生しては互いにぎっちり並んで詰まっていく。そうして次に引用するように、ひとつひとつの卵=システムもまた、上の図の場合のひとつひとつの線と同じように、より高次のシステムにおける「添え物」となり、「個体性」を「溶融させていく」ことになる。
分節の多重化、分節化する”線”が束になり、この束がさらに束になり、塊になる。パースの「シンボル」のシステムが俄然おもしろく見えてくる。
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そういうわけで『バロックの哲学』を引き続き読むことにする。
なんと最後の章はレヴィ=ストロースである。
その章題はなんとなんと「レヴィ=ストロース『神話論理』のバロック」である。第六章のジェイムズも早く読みたいが、次はレヴィ=ストロースを読むことにしよう。
つづく
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