【*】"ある"ように"なる" 神話の論理と近代の論理、論理を息づかせるコミュニケーションの問題 -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(68_『神話論理3 食卓作法の起源』-19)
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クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第68回目です。『神話論理3 食卓作法の起源』の第四部「お手本のような少女たち」を読みます。これまでの記事は下記からまとめて読むことができます。
これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。
いま、目の前にボールペンがひとつ”ある”。
窓から空を見上げれば、大きな雲が”ある”。
もうすぐ雨が降るでしょう、という情報が”ある”。
そして、「雨が降ったら、蒸し暑くなるだろうなあ」などという言葉を思いつく私という存在者が”ある”。
ある/ない の区別は
”ある”でもなく”ない”でもないことから
『神話論理』は第三巻に至って、いよいよ佳境に入る。「神話」の「論理」とは一体何がどうなっているのか、ということを手っ取り早く知りたいという関心をお持ちの方であれば、まずはこの三巻を徹底精読なさるとよろしいかと存じます。
起源
神話は、しばしば、ある何らかの事柄の(例えば「夜」でも「月」でも、「人間」でも、「季節の交代」でも、「タバコ」でも)の”起源”を説明したところでその語りが閉じられる。
起源ということは、要するに「あるように、なる」ということである。
もともとなかったことが、”ある”ようになった。
*
例えば次のような”月の隈”の起源神話がある。
これを”ある何らかの事柄(いまの場合は隈がある月)”に至るまでの、他の事柄たちが連なる直線的な因果関係の連鎖として読んでしまうと、「風が吹いたので桶屋が儲かりました」式の怪しげな展開に見えてしまう。
カエル?
月が人間の姿をしている??
カエルが月の兄弟と結婚???
自然科学的な実験と観察に基づく物事の成立の説明と比べると、この手の神話は分けのわからないものにみえる。そうであるからして「〇〇安全神話」のように、確かな根拠も理由もないことを、あたかもはっきりと定まっていることかのように主張するような語り口を「神話」と呼んで非難するということもできる。
+ +
神話の論理と科学の論理
ところで、「神話の思考」というのは、科学的な因果の論理とは、大きく異なる論理で動いている。神話の論理の「わからなさ」は、今日の私たちが教育において、マスメディアにおいて、あるいはその残響のような日常の会話において、科学の論理だけでなんとかしてやろうと頑張っていることの裏返しである、といえようか。
科学的な思考では、ある事柄xについて、その原因、元になる物事は、x-1であり、x-1の元はx-2であり、x-2の根拠はx-3であり、といった形で順番に項を遡るように説明がなされる。これをある謎の項を、最初の原因となる項に帰属させるということで「還元主義」と呼ぶ。
Δxは、じつはΔ1で・・・Δ1は・・結局、Δnだったんですよ!
Δx→Δx-1→Δx-2→Δx-3→Δ…→Δ…→Δ…→Δ…→Δn
という具合に「還元」していく。
そしてこの線形配列が一度定まれば、今度はΔnの方からΔxを作り出せるようになる。そうであるから、誰が作っても同じ商品を大量に生産できるという産業革命と自然科学は親和性が高い。
+
神話論理
一方、神話の思考は、xや、x-1や、x-2、x-3といった「項」たちが、「ある」ということを前提にしないところから動き出す。
・・・
自然科学の論理
自然科学が、Δx→Δx-1→Δx-2→Δx-3→Δ…→Δ…→Δ…→Δ…→Δn のリニア配列を結んでいくとき、Δに収まることができるのは、感覚的、経験的、統計的に大多数の人間にとって”そう感じられるもの”である。例えば、飛行機が離陸できるのは、「風の精霊が人間には見えない神秘のロープを機体に結びつけて引っ張り上げてくれているから」ではなくて、「高速で地上を走行しながら翼の下の方に空気を押しつけるようにして、翼の上下で空気の密度に差をつくり・・」といったような説明になる。ここで密度とか圧力とか速度というのは、なにも霊感がなくとも、適切な測定装置を用いることができる人であれば、誰が測定しても同じように「ある」と言える。
+
測定器の規格化量産化
精霊の力は見える人にしか見えないが、密度や圧力や速度であれば、同じ測定器を使えば、誰がいつどこで測定しても(測定条件を統制することも測定器を使えるということの範疇に入る)「同じ」ように観測することができる。
近代以降の世界は、同じ(規格化された)測定器、あるいは同じ(規格化された)道具を大量生産できる、ということの上に成り立っている。
+ +
マスメディア式コミュニケーション
そしてつい数年前まで、いや、いまでも、と言った方が適切だろうが、「言葉」とその意味というものも、この同じ(規格化された)測定器、あるいは同じ(規格化された)道具の一種として、大量生産・大量複製・大量再生産されてきたのである。完成品としてパッケージ化された(意味を定められた)記号や象徴が、一度に大量に生産・複製され、一方通行で同時に同期を取りながら、国民国家規模にまとめられた人々(マス=大衆)の目や耳に注ぎ込まれる。
このようなマスメディア型コミュニケーションによって統一、平定された世界というものが、ここ最近、インターネットの急速な発展によって崩されはじめている。インターネットは少数対多数の一方通行ではなく、一対一にして多対多の双方向での言葉のやりとりを可能にし、そこではある記号や象徴の「意味」などということは、記号それ自体に付着して固まっているものではなく、、人によって、時と場合によって次々と変わっていくし、あっという間に真逆にひっくり返ったかと思えば、またくるりとひっくり返る。そういうことが日常茶飯事、常態である。
この状態は秩序の崩壊でも何でもなく、人類の言葉というのは、声による会話ということが始まって以来の数万年にわたって、そういう「意味が定まりようもないところを、あれこれ言い換えておもしろがる」という姿をしていたのである。
この辺りについて詳しく知りたいという方は、ウォルター・J・オングの『声の文化と文字の文化』、そしてティム・インゴルドの『ラインズ』あたりがおすすめである。オングがコンピュータネットワークによるコミュニケーションの世界を「二次的な声の文化」であると書いているところは特におもしろい。
いまこそ神話論理
さて、いまこのマスメデイア型の”一対多一方通行”により同期され規格化された固まった意味分節体系を理想とする世界に(ちなみに、生きた個々人の人生においてこの規格化がいつも必ず成功するわけではないことはいうまでもない)、近代以前にはるかに遡る意味分節がぐにゃぐにゃと動き続ける「声の文化」的な世界がハイブリッドに重畳するような状況にあって、言葉ということをもう一度、大量生産された観測装置ではない姿に組み直す必要がある。
個々人がつどつど遭遇する、端的に「謎」である他者たち(ここには人間以外の他者も含まれる。動物に、草木国土はもちろん、死者や、幽霊、天体なども含まれる)と繋がったり切れたりするための言葉へ。
その言葉は、あらかじめ完成させてパッケージ化して量産販売できるような言葉ではなく、わたしたちひとりひとりが現に生きたり苦しんだりしているところでたまたま拾い集めている(あるいは無理やり貸し付けられた)ことばたちを流用転用創造的に誤用しながら(これをレヴィ=ストロースの用語ではブリコラージュという)、分節体系として束の間、その姿をはっきりと現したかと思えば、いつの間にかバラバラになって転がっているような、そういいう残響たちの姿になるだろう。
* *
そしてそこでは、驚異的なことに(ごく当たり前のことだが)、「ある」などということ、「ある/ない」といったごく基本的な分節さえもが、対立する二極を際立たせたかと思えば、どちらか不可得に溶けてしまい、いやまたそうかと思えば、少しズレたところでまた二極を際立たせたりするという、そういう動きの痕跡として浮かんでくるようになる。
あるように、なる。
というのはこのことである。
+
起滅辺際不可得
諸項が”あるでもなくないでもない”ところから、「ある」と「ない」の二項対立が分かれてくる。ここで「ある」というのはそれ自体として独立自存している事柄ではなく、「ない」との関係において「ない-ではない」ということに尽きる。
この「ある」ひとつの項Δが、非-Δと分かれつつも対立関係(ペア)にあるものとして結びついたままになるように、対立関係の対立関係の対立関係としての二重の四項関係(八項関係)を安定させるのが神話の論理である。
この「安定させる」ための奥義が、上の図でいえばβと書いたところの項あるいは領域にある。
このβは、対立することになるある二つのΔのあいだに広がっており、二つのΔの一方でもなく他方でもない、どちらのΔとも同じであるが、同時に異なっている。このβもまた単独で孤立自存して「ある」なにかではなくて、他のβとの分かれるような分かれないような関係を通じて、束の間、他ではないなにかとして区切り出されてくる。
四つのβを過度にくっつけたり、過度に分離したりしながら、振れ幅をえがきつつ、その振れ幅の最大値と最小値を繰り返し区切り出していく。そうした極値のあいだに、反復的に現れ続けるΔの収まる位置がひらかれる。
これが神話の論理である、と仮に考えておこう。
もちろん、他にももっとみずみずしい跳ねるような感じの言葉でいうこともできるはずである。
上の言い方は、これは私の、1970年代の最後に生まれ、大量生産された企画品の「正解」と過度に同期することを強いらる剥き出しの暴力による強制心温まる指導をつうけつつも、その同期すべき巨大な「正解」の世界がガラガラと崩れていくのを目の当たりにし(ベルリンの壁崩壊、昭和から平成へ、阪神淡路大震災、オウム事件、バブル崩壊、就職超氷河期。そして、モバイルでリアルタイムなインターネットの登場と「正しさ」なるものの清々しいほどの吹き飛び)、ただひたすら「なんだこれ(いい意味とわるい意味の両方で)」と思い続けて生きてきた「私」のための手作り日曜大工ブリコラージュのカヌーと櫂のようなものである。
レヴィ=ストロース氏は『神話論理3 食卓作法の起源』の中盤で、次のように書いている。
たったひとつの神話しか論じていなかった。
ここまで第三巻で分析されてきたあれこれの神話、カヌーに乗った月と太陽の旅の神話も、すべて第三巻の冒頭に掲げられた「狩人モンマネキの結婚生活の災難」の神話と、異なりながらも異なるものではない。
あれこれの神話では、登場人物の姿形は大きく異なるし、そのやることなすことも大きく異なる。表面的に見ると、あれこれの神話はたがいにまったく違う、別々の神話である。しかしいずれも全て、同じひとつのことを実行している。
その同じ一つのこととはすなわち、分離と結合の対立関係を分離しつつ結合し、結合しながらも過度にくっつきすぎないように分離しておく、という操作である。
ここで「結婚」というのが重要である。
結婚は、元々別の家族に属していた二者が「ひとつになる」「一緒になる」ということであるが、これは”分離と結合の対立関係を分離しつつ結合し、結合しながらも過度にくっつきすぎないように分離しておく”ことの経験的事例である。
結婚の神話
というわけで、「狩人モンマネキの結婚生活の災難」の神話をあらためて眺めてみよう。
結婚の神話は、「結婚」の話をしているのであるが、それはたぶん、結婚の話をしたいからそうしているのではなくて、分離と結合の分離と結合をバランスよく調停したところに見事な対立関係の対立関係(四項関係)が安定して、良い感じよね、ということを言いたいらしいのである。
分離と結合のリズミカルな分離と結合を感覚させることができるのであれば、なにも結婚にこだわる必要はなく、カヌーの両端に乗った二人の人物の川下りでもよい。
ということで、M354「狩人モンマネキとその妻たち」である。
この神話では、主人公であるモンマネキという神話的人物が(神話的人物というのはつまり人間であるが通常の私たちが経験的にこれだと思っているような人間ではないということである)、5回(4回+1)の結婚(と離別)を繰り返す。
神話的結婚は五回、反復される
結婚というのは要するに、分離し対立する二極を結合するということであり、結婚からの離別への転換とは、分離から結合に組み替えられたところが再び分離するということである。
五度の結婚と離別を反復することで、
分離 → 結合 → 分離
という具合に、最大の距離から最小の距離へ、そして最小の距離から最大の距離へ、振幅を描くように脈動している。
M354「狩人モンマネキとその妻たち」の要約を再掲しておこう。
引用が長すぎだろう、と思われるだろうが、驚いてはいけない。
この神話をもっと細かく精読したものを上記の記事に掲載しているので、ご興味ある方はご参考にどうぞ。
* *
この神話を無理を承知でごく煎じ詰めると、時間軸上に写像するならば、減衰していく振幅を描く脈動を示している。
最初の結婚から最後の結婚へと移行する過程で、徐々に、人間から「遠い」動物から人間に近い動物へ、最後は人間同士の結婚へと、結婚によって結びつけられることになる所与の距離が狭まっていく。
分離と結合の分離と結合を調停するために、過度な分離状態と過度な結合状態を最大値と最小値にとるある振幅を、一定の幅に収めることが課題となる。さらにはこの一定の幅の間を同じ速度で、一定の周期で周期で回転する正弦波の波形を描けるようになるかどうかが、最重要課題になる。
この第三巻の神話は、いや、この神話に限らず、極めて抽象度の高い「神話論理」は、すべてここと目指している、と仮に言っておいてもよいだろう。
分別の起源、
二項対立の一方の項としての
あらゆる存在者の起源
神話というのは、私たち人間が物心ついたときはすでに書き込まれ刷り込まれてしまっている分別について(物心がつくということは、この分別の刷り込みが完了したということである)、「あれっ?この分別、どこから起源したのだろう??」と疑問を持ち、この疑問に言葉でもって答えてみる、という営みである。
神話は、生死の区別の起源を考えたり、人間と動物の区別の起源を考えたり、火を使うことと火を使わないことの区別の起源を考えたり、天地の区別の起源を考えたりする。
生 / 死
人間 / 動物
天 / 地
何と何でも構わない。
Aと、Aではない(非A)
この二つの区別=分別〜分節を、「もともとあるものだから」と言って特に疑問に思わないという生き方ではなくて、「どうして、分離したんだろう」と問い、その分離に至る経緯を考える。
ここに、区別があること・分離されていることに対して、区別がないこと・分離されていないこと、が突如浮かび上がってくる。
区別・分離を所与のことと考えないということが、区別・分離の起源、始まり、ということを考えざるを得なくする。そして区別・分離が「起源する=始まる」ということはつまり、それが始まる前、区別される前、分離される前ということを考えざるを得ない、ということになる。
分離 / 未分離
(分節 / 無分節)
ここで経験的な区別の起源を、区別の手前(区別が”まだない”)ことと対比して考えるという神話的思考は、分離と未分離と分離と未分離、分離と結合の分離と結合、といったことをどうしても思考せざるを得なくなる。
そして神話は、この思考を、抽象的な言葉ではなく、あくまでも経験的で感覚的な区別を概念の道具にして論理(分離と結合のシステム)を組む。
「結婚」は、抽象的な「分離と結合の分離と結合」を経験的に思考するためにうってつけのイベントなのである。
しかもM354「狩人モンマネキとその妻たち」の場合、結婚と離別が5回繰り返されながら、対立二極の間の振幅が徐々に狭まっていく。分離と未分離が分離しているでもなく未分離であるわけでもない、という分離しているのか結合しているのか、どちらか不可得というところから始まって、適度な分離が画定した均衡状態に至る。
八項関係を分節する
抽象と具体の両極の間も、振幅を描くように思考してみよう。
最長距離の分離が突如ショートして結合したかと思えばすぐに分離し、続けて別の方向で同じような長距離を短絡する結合が生じるもまた分離して、ということを繰り返しているうちに徐々に結合される分離の距離が狭まっていき、最終的に、過度な結合と過度な分離のどちらでもない適度な分離に落ち着く。
意味分節理論の観点からのこの神話の細かく詳しい分析は下記の二つの記事に掲載しているので、ぜひ参考になさってください。
レヴィ=ストロース氏はこのモンマネキの神話から「四つ」の「根本的な性格」が引き出されるという(pp.225-226)。
動物の妻たちと、人間の妻を対立させる。
最初の動物妻は「カエル」であり、最後の妻(人間の妻)も比喩的な意味で「カエル」である。
比喩的なカエルとは「しがみつく」(過度な結合)ということである。
性格が対照的なふたりが乗ったカヌーの旅
そしてこの四つの性格が組み合わさって「周期性という角度から見た太陽と月に関わる」神話群を発生させている。
*
カヌーに乗った月と太陽
対立する二項が、はっきりと別々に分かれつつ、しかし完全にバラバラに分離してしまうことなく、適度な距離を保ったまま「付かず離れず」になっている状態。これが神話の語りが仮に目指す地点である。
太陽と月が、はっきりと区別され対立した二つの事柄でありながら、付かず離れずに規則的に、ペアになって動いていること(太陽と月が一つのカヌーの前後の端に乗って旅するように)は、この神話が目指す調和の姿の一つの理想的な形態の、経験的な形である。この調和し均衡した分離と結合・二項の関係を安定させるために、上の1.〜4.が必要になる。
「動物」と「人間」は、経験的に遠く分離した二項の関係である。
この遠距離の分離が、結婚によって短絡、ショートする。この経験的に遠く分離した二極をショートさせるには、ある種の結合力のようなものが必要であり、この結合力の経験的な姿が「しがみつくカエル」である。
この「しがみつき」は分離を結合へと変換することはできるが、しかし「くっつきすぎ」になる。神話は、分離を結合に転換したいのではなく、分離と結合を分離しつつ結合したい、つまり二項関係の付かず離れずのバランスを目指している。
この付かず離れずのバランスの経験的な姿こそ、カヌーの両端に乗った二人の人物である。二人の人物は一緒になって、一方が漕ぎ、他方が舵を取ることで「カヌーが進む」ということが実現される。この二人がどちらか一方の端によってしまうと、カヌーはひっくり返ってしまう。
カヌーに乗った月と太陽の旅については、上記の記事で詳しく書いているので、参考にどうぞ。
何千キロという距離をへだてて同じ構造が
さて、このような分離と結合の両極の間での、過度な分離から過度な結合への急転換から始まって、安定的に調和した付かず離れずの二項対立関係が形をなすという神話の構造は、南米の神話に限らず、北米の神話にも見られる。
そこに「何千キロという距離をへだてて見つけ出された[…]ひそかな類似」があることに、レヴィ=ストロース氏は注目する(クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』 p.227)。
レヴィ=ストロース氏は次のようなパターンの北米神話に注目する。
北米の太陽と月は、カヌーにのっているのではなく、一緒に暮らしており、そして一方が人間と、他方がカエルと、結婚する。
ところがこのカエルの嫁が太陽と月の兄弟の実家で疎まれ(食べ物の食べ方=食卓作法がなっていないことを非難される)、結婚している状態から分離されそうになる。天地(水)という遠距離に分離した天体と動物の間の結婚という、過度な分離を過度な結合に転じた状態は、ここでバラバラに分離する。
ここで一転!カエルの嫁は夫の兄弟(義理の兄弟)に飛びついて、へばりついて(過度な分離からの過度な結合)離れなくなる。
>>>太陽 / 月>>>>
|| || || ||
カエル/人間 → 人間/カエル
これは例えば、次のような神話になる。
人間と天体、経験的に遠く分離された二者の登場から話が始まる。
この分離が、結婚という形で、一挙に短絡される。
人間と天体の結婚である。
ふたり?ひとり?
この際、人間の娘の方が「ふたり」であると強調される場合がある。
神話では、過度な分離から過度な結合へと急転換するような、最大スケールの振幅を描いて動き回る項は、しばしば”一即二二即一”の姿をしている。
それは経験的で感覚的な「一(他と無関係にそれ自体である)」であるような項のままでは、かっちりと地上界に据え付けられてしまっており、天空に飛び上がったりすることはできないからである。一であるような非一であるような、経験的感覚的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないような、どちらか不可得な状態に励起されることで、初めて経験的な諸項たちは分離と結合を自在に分離したり結合したりする媒介者の役割を演じることができるようになる。
つまり、ひとりなのか、ふたりなのか、一体どちらなのかよくわからない、というのが良いのである。
月と太陽の兄弟
この二人の人間の娘と結婚する天体とは、太陽と月である場合が多いという。
ここに日本を含む東アジアの神話にもしばしば登場する、”人間の娘が太陽と結婚して息子を産む”というモチーフがつながる。太陽の子を産む女神の話は中沢新一氏が『アースダイバー神社編』で詳しく解かれているので、ぜひご参考に。
ここで神話M425「アラパホ 天体の妻たち(1)」を見てみよう。
この神話は、私たち人間が感覚的・経験的に知っている”隈があり、満ち欠けしながら周期的に天に現れるあの月”が起源したところで閉じられる。
月が起源するということは、すなわち天体たちが起源するということであり、天体たちといえば経験的には天空に静止しているものではなくて、長い周期や短い周期で規則正しく天を駆け巡るよう動く。
この最終的に起源する「Δ月」は、「β1カエルの娘」と「β3人間やヤマアラシに変身自在な月」とが、違いに怒り憎しみ合うという”過度に分離”した状態のまま、それでいて”過度に結合”することで生まれている。
過度な分離と、過度な結合とが、はっきりと分離しつつひとつに結合しているのが、経験的なこの「月(Δ月)」である。
月に限らず、私たちの経験的で感覚的な日常に溢れるあれこれの項は、じつは、論理的にはすべて、このような過度な結合と過度な分離が分離するでもなく分離しないでもない、という緊張状態から析出されている。
+ +
ここで、βカエル娘とβ月が分離したまま結合する直前に何が起こっていたかをみてみよう。それはすなわち、月の正妻であるβ人間の娘(天に昇っていると言う点で、経験的なΔ人間の娘ではない)が、「壺を持って水汲みに出ていった」ということ、β月のもとから、β月と安定的に結合しているはずの正妻β人間の娘が、束の間「離れた=分離した」隙をみて、βカエルはβ月にへばりついた(罵りながら)。
ここで、
β人間の娘 / βカエルの娘
が、
テキパキと家事をこなす嫁 / モタモタしている嫁
という二項対立関係に重ね合わされて分離し対立している。β人間の娘とβカエル娘は臓物料理を食べる時の音という点でも対立している。
β人間の娘は、コリコリとリズミカルないい音を立てながらよい作法で食べる。
一方、βカエル娘は、噛み音を立てることができず、木炭同士がぶつかる音で誤魔化しつつ、黒い唾液を垂らすという無作法をはたらく。
*
ここでふと思うのは、カエルの「ケロケロ」と鳴く音は、人間がモツ煮込みのある部位を食べる時の「コリコリ」という音と、よく似ているが、異なるもの、として非同非異の関係にありそうだ、ということである。
人間は、臓物煮込みという異物を口の中に入れた時に、コリコリと言う音をたてることができるが、何も噛んでいないとそういう音は立てにくい。
一方カエルは、口に何も含まなくても、ケロケロ、コロコロという良い音を立てることができるが、口に石炭を含んでしまうとそういう素敵な音は出なくなる。
じつに細かいところで、カエルが立てる音と人間が立てる音とが異なりながらもよく似ていて、よく似ているが異なっている、という関係を織りなおしている(β二項の関係)。
+ +
さてこの臓物料理の食べ方比べに至る前の、分離と結合の動きもみてみよう。
神話のはじめ、天/地の両極の前者の方にβ太陽とβ月が、後者の方にβカエルとβ人間の娘とが、遠く分離していた。
β太陽/β月
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βカエル/β人間
ここで気をつけてほしいのは、この語りはじめの段階では月や太陽は、私たちが経験的に感覚しているあのΔ太陽、Δ月ではなく、どうやら人間の姿をして言葉を交わし合うような神話的な登場人物の姿をしている。
ここで月と太陽は、他の神話では「兄弟」として描かれるほど近しい関係にある。
一方、β人間の娘とβカエルの娘は、前者は目を細めて眩しがり、他方は目を開けたまま眩しがらない、という点で真逆に対立する=差異が際立つ。
ここからまず、月が人間の娘にアプローチする。
ここで人間の娘は、人間の娘というだけですでに経験的で感覚的なΔ人間の娘のことだと誤解されやすい項であるため、すかさず「四人でワンセット」であったことが強調される。「四即一」であるということは、すなわちβ四項が一点に凝集したり四方に広がったりする動き方に対応できる、ということであろう。
四人セット、あるいは二人セットで出てくる人間は、神話では、両義的媒介項であって、分離された二極の間を結合したり、結合しすぎた二項を切り離したりする役割をはたすのだろうな、というつもりで読むといい。
* *
ここから月が天/地の両極の間を移動して、地上に降りてくる。
そして「ヤマアラシ」に変身することで、その針を裁縫道具として欲する人間の娘たちを誘き寄せる(分離から結合への転換)。月=ヤマアラシは、人間の娘を自分の方に引き寄せつつ、同時に人間の娘を地上から引き剥がして、上へ上へと誘き出していく。
こうして人間の娘は、元々いたところから分離され、元々いたところとは対極に位置する天界へと移動する。そこで月と娘の結婚=β二項の過度な結合が成就する。
そしてそこから転じて、月と人間の娘は分離して、代わりに月がへばりつく、という急転換へと物語はすすむのである。
そしてそして、ここにきて突如「それ以来、月には、壺を手にしたカエルの姿がずっと見られるようになった」とあるように、二つのβ項の、どちらでもあってどちらでもないところに、「隈のある月」という、経験的感覚的に「ある」ものが、その収まりうる位置・領域として、起源するわけである。
神話の論理はこのようにして「ある」ように「なる」プロセスを、経験的に対立する二極のどちらか不可得であるβ項たちを、過度にくっつけたり、過度に分離したり、縦にながーくのばしたり、横にながーく、伸ばしたりしながら、四方にぐーっと引っ張り出しつつ、その極のあいだに、四つの「辺」を開く。この辺が、経験的な事物たちが「他ではないそれ」として「ある」ように「なる」ことができる場になる。
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