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縄文から伝わるもの‐読書メモ:『縄文時代の歴史』
去年の夏、当時2歳の長男と行った縄文展。
会場に入るなり「おウチかえる」という宣言する長男に、「絶対おもしろいから!」などと説得を試みるも理解を得ることはできず。ろくに見ることが出来なかった。その顛末はこちらのnoteに書いた次第である。
図録
さてその長男、今は3歳になったが、どういう訳だか縄文展会場で買った図録がすっかりお気に入りである。慣れた手付きで大型本のページをめくっては、推し土偶を探し出し、「見て!見て!」と大喜びである。
まずは表紙をめくってすぐのこちらである。
「これフクロウ!ほ~ほ~」とフクロウのマネをしながら喜んでいる。
ちなみに、これが本当にフクロウなのかどうか、当時作った本人に聞いてみないことには分からない。そのことをやんわりと長男に伝えた上で、しかしどう見てもフクロウにしか見えないというところにイコン的な記号過程の力強さを感じるね、と言って聞かせるも、なぜか特に返事はない。
次にこちら。
こちらも有名な土器であるが、この歌っているような姿が実に楽しいらしい。「これ、見に行った」と嬉しそうに話しているではないか。
一瞬で通り抜けた割によく覚えていると驚いた、が、問題はそこではない。あの「おウチかえる」は、一体なんだったのか??
質問攻め
そこで率直に尋ねてみた。
「あれ?縄文展に行って楽しかったの?でもあの時、入場と同時におウチ帰ると言ったよね?どうして??」
と質問攻めである。
すると一言、「電気が暗かった」と、意外な、いや、ごもっともな答えが。
土偶そのもののがコワイわけではなく、会場の照明の薄暗さでギブアップしたのだという。当時はまだ2歳、まだそこまで細かく、具体的にどういう経緯で家に帰りたいのかを言語化できなかったのである。
図録のページを一枚一枚めくっては、例えば貝輪や銅鐸などを見つけては「これ何?これ何?」と今度はあちらから質問攻めである。ただ、私はあいにく古代史についてはまったくの素人である。「これ何?」に応えるための知識を得るため、取り急ぎ縄文時代に関する入門文献を入手した。
国立歴史民俗博物館の先生である山田康弘氏による、今年の1月に刊行されたばかりの新書である。
縄文を知る鍵は移動&交易のネットワーク
面白く読んだのは、縄文時代前期・中期に発達した交易ネットワークの話である。
神津島から伊豆半島まで黒曜石を持ち帰り、関東、東海各地に運んだとか、糸魚川の翡翠を北海道から西日本各地にまで運んだとか、干し貝を大量に(集落での消費量以上に)作り交換用にしたらしいとか、なんとも豪胆である。
当時、すでにいくつもの集落と集落の間は道で結ばれ、網目状のネットワーク構造ができあがっていた。そこを様々なモノや、そして人が行き交っていたとは、いや、実に豪胆である。
著者の山田氏は、この交易のネットワークを発達させ、集落間の社会的紐帯を維持することこそが「縄文集落運営上の生命線だった」とする。
この交易ネットワークの維持、発展に貢献できる人が、集落のリーダー的な存在となっていた可能性がある。墓地の遺跡からは、一部の「特別なひと」だけが、そういう遠方からもたらされた品物と一緒に葬られている。
定住よりも前から道がある
道、といえば、かの藤森栄一氏の『かもしかみち』にこんな一節がある。
とまれ「土器を搬ぶ人々」の道は、われわれの生活からは遥かに遠い、ちょうど獣たちの通りつづけた「かもしかみち」の継承であり、またこれを追うための道でもあった。
やがてそれも上下に張り巡らされて、道は住居を連絡するものとなるのであろうが、われわれの知りうる最古の道は、このように獣たちのそれとひとしく、道は住居であり、同時に住居は道路であったのである。
「道は住居であり、同時に住居は道路であった」というこの一文。
生きる、あるいは暮らす、ということへの視野さえもすっかり定住してしまったところを、をひっくり返してくれる。
縄文の定住生活が始まる遥か以前の旧石器時代、人々は獣の移動ルートに従って、道を踏み続けてきた。それで長い時間をかけてはるばるアフリカからやってきたのである。
そもそも、もともと、道があった、というか道しかなかったのである。縄文時代の定住も、そういう道行きの小休止のようなものから始まったのであった。
道はあまりにも古い。
道はまた、新しいものを連れても来た。
こういう縄文時代の交易ネットワークは、遥かな未来に、水田稲作の知識や担い手、道具の通り道になったらしい。
弥生時代の話は、こちらに続くということなので、また読んでみたい。
稲作の集落と集落をつなぐ道は、後には、農耕に不可欠な道具の材料となりながらも、集内でゼロから生産することがほぼ不可能だった金属、特に鉄の通り道にもなった。
そうしてはるか朝鮮半島や、その先にまでつながる鉄の道をどう維持し続けるかということが、各地に散らばる稲作集落を束ねるリーダーたちの主要な関心事になった。これこそが日本列島各地の地元の勢力をひとつの国に「まとめる」原動力になったらしい。古墳時代に至る王権の誕生である。
縄文のおわりと価値観の転換
『縄文時代の歴史』は、いわゆる「弥生時代」へと移行していくところで終わるのであるが、最後に山田氏が言及する興味深い議論は「縄文農耕」についてである。
縄文時代からすでに、栗の木や、漆の木を集落の周りに選択的に増やしたり、豆類を栽培したらしい痕跡が見つかっている。農耕の有無で縄文と弥生を区切ろうとすると、この「農耕する縄文」はどちらに位置づけられるのか。
ここで山田氏は、植物管理の有無だけがポイントではないとする。種を集めたり、蒔いたり、雑草を取ったり、という作業をするかしないかに加えて、社会のシステムの変化、社会構造や思考様式の変化がポイントになる。
農耕とは「農耕文化複合」である。
そこには植物を増やすよう管理することやそのための技術に加えて、植物管理のための行動を価値あるものとして推奨したり、植物管理を邪魔する行為を悪しきものとして禁じたりするルールなども含まれる。
たとえば大祓詞にある「天つ罪・国つ罪」。天つ罪には畔放、溝埋、樋放、頻播、串刺と、灌漑水田での稲作を邪魔する行為が列挙されているが、ここには農耕を、水田稲作を基軸とする社会の価値観が明らかに示されている。
狩猟採集の時代から「農業革命」への移行。
その鍵は、作物を栽培する人びとの集団の社会構造、農耕の営みへと人びとの行動を方向づけるものの考え方、価値観の変化といったものにある。
あるいは逆に、価値観の転換こそが、狩猟採集から農耕へ、狩猟採集民たちに暮らし方の転換を決断させる際の鍵になるという考えもある。
人類は、必ずしも農耕のほうが狩猟採取よりも安定しているから、とか、経済的に合理的だから、効率が良いから、という理由だけで、自動的に慣れ親しんだ生業を変えたりはしない。あるいはそもそも農耕と狩猟採取、どちらの生産性が高いかは一概には言えないという話もある。
たとえばこちらの『先史学者プラトン』という本には大胆な仮説が示されている。
狩猟採集的な暮らし方よりも、農耕牧畜に従事する暮らし方こそ、神の意志に適う「正しい」ものである、という考え。そういう考えをメソポタミアに広めたのが、ゾロアスター教の開祖ザラスシュトラの教えであった、という説。
そういう価値観の転換が伝わり、広まっていくのも、道があってこそである。通信技術のない時代である。SNSもない。ものの考え方、好悪の区別のやり方、価値の高低の区別のやり方が、シンボルの体系を媒体として伝わっていくためには、誰か個々の人が歩き、喋らなければならない。道は情報通信メディアの、チャネルでもあったのである。
伝わるもの
いずれにしても、なにか「大切なもの」についての価値観ががらりと変わったからこそ、縄文土器は、ある時から作られないようになったわけである。
誰かあるひとりの「縄文人」の方が、あるひとつの土器に込めた意味、それが一体何のシンボルで、どういうシンボルの体系の中にあったのかは、ほとんどまったく分からなくなった。
土器はもうシンボルではなくなってしまったかもしれないが、インデックスとして、イコンとしてはいつでもどこでも息を吹き返しうる。フクロウの土偶を作った人が、これを完成させた時に覚えたであろう、なんともいえない嬉しい感じが、2019年の三歳の子どもにも「伝わる」のである。
伝わる、といっても、何か実体的なものが時空を移動してきたということではない。
そうではなくて、まったく勝手にひとつの解釈が生産されたときに、そこにひとつの新しい意味が生まれる。それはもともとの意味のコピーなのかどうか、照合しようもないことであるが、それこそを私たちは「伝わった」と感じるのである。
おわり
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