生死、善悪、あらゆる対立を区切る「線」を引く -パウル・クレー『造形思考』より
神話的思考という切り口から人類に普遍的な「頭の働き方」の癖を捉えようとする試み。
そうした試みとして、ユングやレヴィ=ストロースに勝るとも劣らない独自性を発揮するのがパウル・クレーである。
パウル・クレーの『造形思考』日本語訳は、なんと文庫本で、クレーの描いた図像を大量に収録するというたいへんな代物である。
さて、読み始めるとのっけからこれである。
「二元論は二元論として扱われるのではなく、相互に補充しあう統一のなかで考えるべきである。確信はすでにできた。善と悪との同時存在である。」『造形思考』上巻p.23
対立する二項を、「統一」しあうものとして、ひとつのものとして捉えるという思考。
これは神話の思考を駆動させる「両義的媒介項」を生産することでもある。
※
対立関係は、予め孤立して存在する別々のふたつの項が、なにかの弾みで後から関係を結んで、対立するようになった…というものではない。
事情はまったく逆で、対立関係をなす項と項は、対立関係を区切りだし結びつけるプロセスが動き続ける中で、かろうじて、他方ではないそれとして、ひとつの項という外観を呈する。
クレーは次のように書く。
下を想定しない上というものがあるだろうか?
右がなければ何を一体左と呼ぶのだろうか?
前のない後とはなんだろうか?p.76
下は上下の下であり、右は左右の右であり、前は前後の前である。
下と切り離された「上」そのものは存在しない。
私達が、この世を整然と整理することを可能にする上下、左右、前後などなどの無数の対立関係も、もともとは「相互に補充しあう統一」が蠢くところで、その副産物としてつかの間、形をなしている。
二項の対立関係は、対立関係を区切り結びつける「動き」を通じて、後からヒトにとって知覚可能なものになる。
ここで重要なのは、クレーによる次の一節である。
過程が本質的なものであり、生成は完成した存在よりも重要である。p.40
過程、生成が「本質的」である。
区別を区切りつつ結びつける動きは、まさに生成の過程である。
そして二項対立関係は、その過程を通じてつかの間、静止した、「完成」の外観を生じることになる。意識の明晰さはかえってこの完成した止まった外観をものごとの正体だと思い込み、生成の過程の方を、秩序の解体や流出のように思い描きがちである。
クレーは「カオス」と「コスモス(宇宙)」の二項対立の下に、底に、区別以前に動く一元的ななにかを見据え、それを「死、あるいは誕生」と呼ぶ。
真のカオスと対立概念としてのカオス。
対立概念としてのカオスは、本来の、本当に真実のカオスではなく、宇宙という概念に対して区域的に規定された概念である。p.57
本来のカオス。永遠に測定されぬ、無と名付けられることもできれば、なにかまどろんでいる存在とも名付けられる。死、あるいは誕生と呼ぶこともできよう。
死と誕生が一つである「本当のカオス」。そこに「宇宙」つまりコスモス、あらゆる秩序が発生する傾向が充満している。
クレーはこうした対立関係の正体を、イメージで、というよりも少数の線で、描き出そうとした。それは私達の感覚器官に直接作用する。
クレーの線は私達の末梢神経から脳へ、その低次から高次へと重なり合ったカテゴリー化のプロセスと、そのプロセスにリズムを与える価値中枢とを、一挙に叩きおこすかのようなシグナルである。クレーの線は、神経システムの様々な部分での「区別しつなぐ」対立を引き起こす傾向を実際に駆動する。
クレーの造形学は、どうやら対立関係学であり動的区別学であり、ことによると情報学の本義でさえある。
しかもクレーの造形学は、徹底的に「形」の最小単位を取り出し、組み合わせ、変容させる。そうすることで、形を知覚する私達の神経のネットワークそのものの区別を区切り結びつける動きを、意識の対象へともたらすのである。
こういう思考ができる人を生んだという点こそが、「情報化」の20世紀が情報的であることの真骨頂なのかもしれない。