沈黙のコミュニケーション -空海 著(加藤精一 現代語訳)『般若心経秘鍵』を少し読む
弘法大師空海さんの『般若心経秘鍵』。
かの弘法大師があの般若心経を解説してくださるという大変な一冊である。
秘鍵は「ひけん」と読む。秘密の箱を開ける鍵ということになろうか。
こちらを加藤精一氏の現代語訳により、まるで現代の僧侶の方からお話を聞いているように読むことができる。
ちなみに同じく加藤精一氏の手による空海現代語訳には『即身成仏義、声字実相義、吽字義』などもある。
これについては下記の記事でご紹介していますので、よろしければご参考にしてください。
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さて『般若心経秘鍵』を記すにあたって、空海さんは次のように書かれている。
(大日如来は)が人々を救済する場合、相手の機根(志向とか意向)をよく観察し、それぞれに一番ぴったりした教えを説いて指導するものですし、賢明な人物は、時と人をよく考えて、ある時は説き、ある時は黙するものなのです、と。(空海「般若心経秘鍵」 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫)p.59)
注目したいのは、あるときは説き、あるときは黙する、というところである。
黙することが、教えを説くことになる、とも読める。
これは一体どういうことだろうか?
思ったことをマシンガンのように口から放出しては他人に打ち込み、そうして他人を動かすのがGoodだとされている現代の感覚からすると「黙っていたら、伝わらない、人を動かせない」となる。
ここであえて黙ってみよう。
一字の中にすべての教えが ~重々帝網~
『般若心経秘鍵』は般若心経を「真言密教の立場から見たもの」である。
それはすなわち「大日如来の説法すなわち真言密教では、一字の中に全ての教えが含まれて」いるという見方である(空海「般若心経秘鍵」 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫)p.58)。
経文の一文字一文字、一音一音、その一つ一つに教えの「全て」が含まれている。
この様子は華厳の「重々帝網」に例えられる。
これについては前に下記の記事で書いたことがあるので、よろしければ参考にしてください。
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経文の一文字一文字、一音一音、その一つ一つに教えの「全て」が含まれている。これは相当に大変なことである。
私たちは通常、日常生活においては「AはBで、BはCで、CはDで、せやからAはDでっしゃろ?」という具合にモノゴトを思考し(たつもりになって)ている。
細切れになったパーツを一列に並べて、一つの模型を組み立てるような具合で思考しようとする。
その場合、一つひとつのパーツがどういうかたちで、他のどのパーツとくっついたりくっつかなかったりするのかということが大きな問題になる。
私たちは一つ一つのパーツの形なり中身なりをあらかじめ仔細に調べておいて、その上で、何かを組み上げる材料として採用するかしないかを決めて、選び出したり捨てたりしながら然るべき場所をあてがおうということになる。
ここでは一つ一つのパーツ、つまり文字や音は、互いにバラバラに孤立しており、それぞれに本質を現したり秘めたりしながら固まっているという感じになる。
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私たちは、この「A」という文字の本当の意味はー、この「A」という音の本当の意味はー、などと表層意識の表面をぐるぐると彷徨い始め、そして「Aは○○だ」という断言をどこかの何かの書物から引っ張ってきては彷徨うことをやめて止めて、何かが「わかった」つもりになる。
いや、わかったつもりになる、という言い方は失礼だろう。
わかるというのはそもそも「分ける」であり、分別をつけて、振り分ける先を一意に決めることなのだから。
そして他でもない般若心経の言葉もまた、そういう具合に読むこともできないわけではないし、そういう具合に読まれてきたと、空海さんは見ている。
つまりこれまでは、密教の深い趣を理解できる人がいなかったので、『心経』の密教的意味が説かれていなかったのです。(空海「般若心経秘鍵」 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫)p.59-60)
「理解できる人がいなかった」
すごいことが書いてある。
そして理解できる人がいなかったから、説かれなかった、というのである。
そうであった。教えを説くということは、聞くひとの機根に応じて、色々言い換えたり、ときに沈黙することでさえあったのだ。
この「理解できない」を、現代の学校システムにおいて成績が悪いとか、論理的思考に弱いいう意味で理解してはいけない。むしろ極めて論理的で合理的で頭脳明晰、スバスバと即断即決切り分けられる人の方が「密教の深い趣」を「理解できない」こともある。
ここでは求められている「わかり方=分け方」が全く違うのである。
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空海さんの真言密教の立場からの経文の読み方(わかり方)とは、すなわち般若心経の一字一字を全ての教えと「重々帝網」の関係にあるものとして、(こう言って良いかどうかわからないが)創造的に読み直すことなのである。この読み方(わかり方)をレクチャーするのがこの「秘鍵」なのである。
ここで「読むこと」は、静止したパーツを互いに分けて固めて(分別)、順番に並べて固めておくという、いわゆるロゴス的な表層意識の上をすべる営みではなく、ある一つのパーツが他のパーツと分化してくる深層の隠れた動きに触れようとする「レンマ的」な営みになる。
一つの文字や一つの音が他の文字や音と違うものとして区別されるのは、私たち人間が、ちょうど大海のその表層に一つの渦があるという視覚を経験するような具合に、全てが全てと繋がる中でその繋がり不均質さから生じる脈絡の違いである。これが重々帝網や縁起だといえようか。
意味分節システムは、一面では安定的に固定した区別と重ね合わせ方のルールという姿をあらわし、別の一面では区別の発生、重ね合わせの発生という動態を示す。
この辺りのことについては下記の記事でまとめているつもりですので、参考にしてください。
いうべき時でなかったから言わなかったのか
ところで、ここで空海さんは続けて次のように書かれている。
しかし前来の学匠たちがこの深旨を述べなかったのは、言うべきであったのに言わなかったのか、言うべき時で無かったから言わなかったのか、私(空海)にはわかりません。もし私がここで『心経』の密教的意味を説くことが、まだ時機ではないと非難する人があるなら、私は甘んじて責めを受けましょう。(空海「般若心経秘鍵」 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫)p.59-60)
空海という人はまさに「曼荼羅」のような方であったと読める。
「ある時は説き、ある時は黙する」とも書かれているように、黙っていること、言わないこと、の重要性を説かれているのである。
分節化された後の固まってしまった日常の表層意識の世界はニセモノで、重々帝網の全てが全てと一つにつながった深層がホンモノだ、というような分別の付け方をしない。
ご存知、ニセモノとホンモノを区別して、何かと何かの区別をそこに重ねるというのは、それこそロゴス的分別織のやることであって、般若の智慧ではない。
分節システムとして分かれて固まっている表層世界も、分化分節が発生消滅発生し続ける動きつつある深層も、別々に異なるけれども一つ、一にあらず二にあらず、二而不二なのである。こういうことを視覚で経験できるようにしたものが両界曼荼羅なのだろう。
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あえて言わない・黙することによって、胎蔵界曼荼羅の輪郭部というか、分節システムがかっちりと固まった領域を守り育てることもできる。
試行錯誤する子供に、あれこれ口出しせずに、黙って見守るのがいい、というのもこれである。
子供が自分で、自分と世界、自分と外部の対象との区別と関係の取り方を発生させていこうとする瞬間に、大人の口出しはあっても良いが邪魔にならない程度がいいという話である。
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とはいえ「黙っていることに価値がある」というのは、「思ったことをなんでも言える自由がいい」という近代現代の理念からすると、何か抑圧されているように思われるかもしれない。
しかし「言わぬが花」とか「金持ち喧嘩せず」ではないけれども、思ったことを思ったように相手構わず言い回ることは、必ずしもその人を幸福にはしない。
むしろ余計なことは言わない、黙っている、当たり障りのないことを言っておく方が、余計な対立や軋轢に巻き込まれて感情を爆発させた他人の罵詈雑言を憑けられて(これを近代以前では生霊と呼ぶのであるが)心を壊されたりするリスクを回避できる。
沈黙はワクチンのようなものなのかもしれない。
人は一人の人としてまだ死なずに生きている時点で、「宇宙は全て一つ」などと言いながらも、あくまでも自他を区別する分節システムの中で絶えず再生産されている小さな区画なのである。この分節の動き、区切り出しをやめてしまうことは、即、個体としては死である。
ここでせっかくまだ生きているのに「死んでしまっても構わない」などと言い、「どちらかを選ぶ」式のロゴス的分別をつけてしまうのではなくて、どういう縁起だかわからないけれど、気がついたら生きていたので、とりあえずこのまま生きましょう、という具合に、余計な「はからい」なしに流れに乗っていくのが曼荼羅的な生き方ということなのかもしれない。
重々帝網を「理解できない」人であっても、それこそ理解できようができなかろうが、すでに重々帝網の中の一つの小さな小さな粒状の宝珠なのである。
沈黙の技術
自由と対話を理想とする現代であっても、私たち一人一人が受け継いだ言葉たち、私たち一人一人に憑依する言葉たちは、それぞれ違った分節システムである。万人が全員で、全く同じ単一の意味分節システムを共有しているわけではない(もちろん全ての人間に単一の意味分節システムをインストールすることは近代以降の社会の「理想」の一つであり続けているが、SNSと異世界転生ブームの中ではお先が見えているようにも思える)。
自分という小さな粒の分節システムは、他の人や、動物やその他生命や物質それぞれにとっての多数無数の分節システムと「全く同じ」ではない。むしろ「似ているところもあるけれど、まあ全く違うな」というくらいのものである。
私たちの対話は、異なる意味分節システムをすり合わせながら、異なる意味分節システムの間に、それらをハイブリッドにした「第三の」意味分節システムを仮設していく中でしか始まらない。
この仮設工程をすっ飛ばして、小粒な「私」の分節システムだけで多様な他者を「わかろう」としたり世界を「わかろう」などとすると、そこには悲劇的な孤独しか残らないのである。
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というわけで、「私」の小さな意味分節システムを、他のひと(これもまた私と同じようにおそるるに足らない微粒子レベルである)の小さな意味分節システムとすり合わせていこうとするときには、「沈黙」は重要な接続技術になる。
「お前は何を言っているんだ?」と感じながらも、相手の言葉を黙って聞く。その言葉の端端から、相手に憑依し、相手を無意識のうちに操りしゃべらせている隠れた分節システムの死霊のような生霊のような姿が、次々に浮かび上がるのである。
意味分節システムを変容させること。
そのための技術は、沈黙することと、説くこと、両方を緩急つけつつ脈動させて、至る所に繋がりを発生させては切断し、また発生させては切断し、その先に残る影のようなものとして第三の意味分節システムを次々に生み出しては消し、また生み出していくのである。
意味分節システムというと何かかっこいいことや、難しいことだと思われてしまうといけないので、例えばこれを「生霊もしくは死霊」と言い換えてもいい。
怖いことをいうと思わないでいただきたい。
なぜなら、私たちが喋っている言葉は、ほとんど全て、他人の口を、それも多くはすでに亡くなっている無数の死者たちの口を、真似ているものなのだから。
こうなると意味分節システムの発生と消滅のプロセスは、「私」という一個の身体の口がしゃべろうが、ほとんど全く黙っていようが、自分たちの都合で勝手に離合集散していくといえなくもない。
と、これが深層意味論のおもしろさなのである。
(おまけ)
ここまで読んでいただいて恐縮ながら『般若心経秘鍵』の中身の話に至りませんでしたので、ご興味ある方はぜひ直接文献の方を読んでみていただけると幸いです。
続く
関連note
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