三角関係/三項関係を発生させる頂角を選ぶこと
意味するということを三角の関係で記述する。
例えば、吉本隆明著『言語にとって美とはなにかI』のはじめのほうでマリノフスキー経由で引用される、オグデン=リチャーズ『意味の意味』の図。
これも三角である。
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これを三角の関係といわず、三項関係と言ってもい。
ただし、「項」というコトバが"自性において存在する実体的個物"的な感じの意味に翻訳・置換・変換されてしまうところでは、よくよく気を付けてこの自動翻訳が走り出す様子を注視しておかないといけない。
項というコトバを使うなら、そこには常に”無自性で関係論的な出来事である”という注記をくっつけておいたほうがいい。
レヴィ=ストロース氏が両義的媒介項について書くときも、アクターネットワーク理論が「アクター」について書くときも、それらを"自性において存在する実体的個物"の極ではなく、”無自性で関係論的な出来事”の極に寄せようと、注意深い記述が重ねられる。
両義的媒介項は互いに相容れないものとして鋭く対立する二項を、同時に一身に背負った項として記述される。それはある対立の一方の項であると同時に他方の項であり、どちらの項でもありながら、どちらの項でもない者として記述される。
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それなら実体的個物と誤解されがちな「項」というコトバは避けて、「極」とか「角」とかを用いたほうがよいという気もするが、しかし極でも角でも、それはそれで何か「点」のようなもの、”広がりこそ持たないが、やはり孤立自存するモノ”へと自動翻訳されそうな気もする。
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ところで、ここまで書いたところからすると、孤立自尊する実体的モノでもって言ったり考えるということは、完全に停止すべき誤った行いであるかのように読めなくもないが、そういうつもりはない。
モノに執着することが煩悩であるように、モノを消去するということこと自体を何か確かなことだとしてそれに執着するのも煩悩である。
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あるとかないとか、消すとか消さないとか、二項対立の二極の「どちらか一方」を反復継続的に選び続けようとする企ては、長い目で見れば深い苦しみを伴う。
もちろん、当面このように生かされている以上、例えば食べられるものと食べられないものははっきりと分け続けたほうがよい。私たちは二項対立する二極からどちらか一方を選ぶコトで生きている。
こだわる必要もないし、こだわらないことにこだわる必要もない。
コトバについて言葉にするときにも、モノだかコトだか、項だか極だか角だか線だか、どちらだかどれだか分かる分からないような…という具合のコトバがちょうどいい。
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戯論寂滅というためにも、「戯論寂滅」というコトバが必要である。
ただしこの場合のコトバは、対立する二項のどちらかを選び切ってしまおうとする行いに供されるものでなく、どちらでもあってどちらでもない、あるいいはあるともないとも言わないようにする行いそのものである。
後者のようなコトバを考える時に、個人的には「分節」というコトバがとても都合が良いように思うのであります。
分節は、分かれ終わっておらず、分かれつつあることである。
分節は、分かれていないでもなく、分かれ終わってもない。
刃先を皿にカツンとあてないケーキ入刀のようなことである。
分けながら半分つながっており、つながっているが分かれかけている。
三角の図でいえば、どれかひとつの角を頂角に選ぶとその頂角に対する底辺が決まる。どの角を頂角に選んでもよいのだが、同時に選べる頂角がひとつであるということになっている世界が、意味分節の世界である。
ところで、こういうはっきり分け切らない言葉から、果たして共同性のようなものが発生するのかという疑問が浮かぶところであるが、この疑問に対する答えはYesしかない。なぜなら共同性はおそらく、この複数の「三角」のパッチワークを二次元以上の次元で縫い合わせていくことで常に発生し続ける事柄だからである。
逆に、はっきり分け終わったコトバによって律せられた共同性は、果たしていったい何と何の共同性なのか。
いや、つい筆が滑ってしまった。はっきり分け切らないとはっきり分け終わるを、はっきり分けようとするところであった。
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いずれにしても、最近の世の中の様子からは分節するということの生命力を取り戻す、ということを考えざるを得ないような気配を感じる。
井筒俊彦氏の『意識と本質』や、空海の『秘密曼荼羅十住心論』あたりから、もういちど学び直したいところである。
参考文献