関係論を関係論的に生きるー読書メモ:ヴィヴェイロス・デ・カストロ 『食人の形而上学』(1)
人類学の分野で、多文化主義をひっくり返しす「多自然主義」として話題を集めているヴィヴェイロス・デ・カストロの『食人の形而上学』を読む。
あまりにも圧倒的な言葉が詰め込まれているので、まだ全体を丁寧に読めていない。この読書メモはまさに読書の途中のメモである。
あるいは読書とは永久に「途中」なのではないかとも思う。「本を完全に読む」などということがあり得るのか、その時の「完全」とは何と何との間を一致させているというのか、あるいは「読む」ということは一致させること、複製することから逃れざるを得ないのではないか、などと思うこともあるが、これは別の話である。
単一の自然と、多数の文化が対峙する?!
人類学といえば、以レヴィ=ストロースを読んでいても、レヴィ=ストロースの影響を受けて書かれた諸々の論考を読んでいても、最後の最後になんとも言えない「何かが語られていない」感が残るような気がしていた。
頭の中に概念群のネットワークを思い描けるようになった後にも、そこに重要な「何か」がつながっていないような気がする。
『食人の形而上学』の多自然主義はその「何か」にひとつの言葉を与えてくれるように感じている。
自然は「身体の言説」によって区切りだされる何かであり、身体の言説は動物種によって、部族によって異なり、その身体の言説の数だけ多なる自然がある。その全てに共通する唯一の実在としての「自然そのもの」という考えは勘違いである、と。
私自身も「自然」の単一性というのは当たり前だと思っていた。
自然という唯一の客観的な実在がまずあり、それに多種多様な記号を貼り付けることが認識であるという思想を疑うことなく前提としていた。唯一の実在と、それに貼り付けられる気儘な記号、という区別は、それ自体として端的に「ある」という気がしていた。
ヴィヴェイロス・デ・カストロの『食人の形而上学』はこの最初の「ある」をひっくり返してくる。
自然と文化を区別する
自然と文化の区別というのは、もともとそういう区別が「ある」ということではなくて、人間がそのように区別を「する」ということが第一なのである。
区別は区別するという操作である。自然と文化の区別においても、自然が文化ならざるものとして、文化が自然ならざるものとして、区切りだされる。
この区別する操作に先立って、自然そのもの、文化そのもの、というようなものが存在することはない。
この関係論の思想に繰り返し立ち返ることが「他自然主義」の思考を実践する鍵かもしれない。
『食人の形而上学』を最後まで読みつづける導きとなるのは、おそらく最初の方のこの一節でああろう。
問題は、記号と世界、人格と物、「われわれ」と「彼ら」、「人間」と「非人間」を統合ー分割する境界を破棄しなければならないということではまったくないからだ。還元主義の安直さや一元論の気軽さというのは、融合主義のきまぐれとまったく同様に問題外である。むしろ、あらゆる分割線を限りなく複雑な曲線に捻じ曲げ、それらを「還元しない」(ラトゥール)こと、規定しないことが重要である。輪郭を消してしまうのではなく、それらを折りたたんで稠密化し、虹色にして輝かせ、回析させねばならない。(『食人の形而上学』p.23)
あらゆる分割線を複雑な曲線に捻じ曲げる。
区別は動き続ける。
区別することは区別しつづける。
その区別の仕方は、ずれ動いていく。
区別の仕方はずれる、動く。
区別が、いつも同じパターンで繰り返し行われている装いが、区別を「する」ことではなく「ある」ものだと勘違いさせる。
この勘違いはどこから生まれるのか。区別がずれた時、なぜ私はズレていると気づくことができるのか、あるいは気づかないのか。
『食人の形而上学』の徹底した関係論は、対象と関わり対象を記述するというあらゆる科学の観測の道具を、鉄格子のようなものではなく、延びたり縮んだり曲がったりするネットのようなものだと気づかせる。
人間と機械、人間とAI、社会のなかの様々な人びとのあいだ。人間、機械、AI、いくつもの人間、という対象。
それを他から区切りだすということ、その区切りだす仕方の動きと、複数性。
そしてその間を媒介する区別と区別の重ね合わせとしての「意味」の体系。
ネットを鉄格子だと勘違いしていては、それを引っ張ってみたり、曲げてみたりしようという「試み」の気持ちも起きないというものだ。
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