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子づれ旅行を通して、ミクロコスモスとマクロコスモスの共鳴をおもう
下の子が小学生になり、初めての夏休み。
日頃、「時間とか、空間とかいうのは、あるような、ないような」などと放言して憚らない私であるが、わざわざ時間をかけて三次元空間中を移動せざるをえない社会的圧力を一応感じる。家族旅行である。
(ちなみに、家族旅行の話よりも、「時間とか空間とかないから。”ある/ない”の分別もあってもなくても(以下略」みたいな話を読みたい方は下記の記事をどうぞ)
さて旅行となれば、第一の候補は高野山に向かいたいところであるが、これは子どもたちがもう少し大きくなって、理趣経を読めるようになってからが良いだろう。
というわけで、居住地に近い関東で、星空を拝むことができるなるべく高い山で、かつある程度の規模の宿泊施設があり、自動車でアクセスできるところ、というところで脳内に検索をかけたところ「白根山」という声が聞こえてくる(幻聴)。
かの西武鉄道が開発したプリンスホテルとスキー場があり、車でアクセスしやすいときている。ここを目的地に定めよう。
ちなみに、私は自分の免疫細胞が自分の神経をアレしてしまうナニのせいで、バランスをとりにくく、スキーは一切嗜まないのであるが、風景としてのスキー場、特にリフトに人が乗っているのを眺めるのは好きである。
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右下の画像の猿が「足湯に全身で入ってしまった人」みたいになっている。
というわけで、出発。
南関東某所から、なぜか渋滞していない埼玉県内関越道を高崎方面へと北上する。
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こういう雲を残す空は、空(そら)と言っても、均質で静止した感じはまったくなく、むしろ素麺を茹でようとしている鍋の中のような沸騰感がある。
なお、当日の関東平野の最高気温は摂氏37度くらい。
つまり体温と気温が同じ帯域にある。
サピエンスが恒温動物である必然性がまったくなくなる。
この状況を「溶ける」と形容するのは順当であろう。
関越道から上信越道へ。
そして軽井沢へ。
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写真を撮っていないので、AI生成で代用する。
軽井沢には、私の太い実家が所有する広大な別荘がないので、感じの良いホテルでランチをいただいて、通過する。
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次男(一年生)が上品な所作でソフトクリームを食べている。
次男殿はアイスクリームを一切こぼさないし、たらこスパゲッティなどを召し上がる際も、一粒のたらこもテーブルに落とさないという細やかな神経をお持ちである。
+
クロード・レヴィ=ストロース氏が『神話論理3 食卓作法の起源』で「[…]さまざまな型の周期性のあいだに等価性を打ち立てようとする」傾向が神話(人類の野生の思考)にはあると書いている。
食器と口との間をスプーンが往復すること。
歯で噛む音。
反復される「噛む」のあいだに挟まれる「飲み込む」の反復。
そして一定の速度で減っていく食べ物。
「食べる」ということは、とても細かな周期的反復運動をいくつも集めて統合して成っているのだな、と思わされる。
『神話論理3 食卓作法の起源』に登場する神話では、神話的なカエルが、歯を持たないがゆえに、もつ煮込みの中の硬い部位をコリコリと音を立てて食べることができないというモチーフが頻出する。
このカエルの「無作法」=リズミカルな噛む音を立てることができない、ということと、人間がコリコリと音を立てて噛むことができるということの対立が、周期性に関して秩序のある世界と、周期性に関して秩序のない世界との分別を区切りだす。
* + *
軽井沢での食事を終えると、長野県道146号線(たぶん)を北上し、鬼押ハイウェーを通過し、あらためて群馬県に入る。
夏の嬬恋村の様子を眺めつつ、15時過ぎには万座温泉に到着。
標高の高い万座温泉は、午後の日が高い時間でありながら、気温25度くらいであった。久しぶりに外の湿った空気を思う存分吸い込んだ気がする。
・・
ちなみに、ここまでさも自分で運転してきたかのようなことを書いているが、私は自分の免疫細胞が自分の神経をアレしてしまうナニのせいで、他者には聞こえない音が聞こえたり、他者には見えはいものが見えてしまったり、自分は覚醒しているつもりでも覚醒していなかったりすることがあるため(感覚神経がとらえた外界の情報よりも、自分の脳内の情報の方が前景化している)車の運転も一切嗜まない。
ここまでの運転はすべて妻が行なっている。
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そして翌朝。
雲の底がすぐそこにくっついている。
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翌朝?!
・・・到着してから、いきなり翌朝?!
ホテルライフは?
温泉は?
ディナーは?
星空鑑賞は?
・・と思われる方もいらっしゃることだろう。
私も思う。
・・・
実は。
前日ホテルに到着し、子どもたちを温泉にいれ、予約していた高級上州牛のバーベキューをおたのしみ・・と始めたところで、上の子が体調を崩してしまったのである。
気温差と気圧差であろう。
旅行中はよく晴れていて、嬬恋村の万座・鹿沢口駅の周辺などでも30度超えの暑さであった。関東南部のほうはもっと凄まじかった。
ところが、嬉しいことに万座温泉は、夜はおそらく、20度くらいまで気温が下がっていた。
午後に到着した時から、すでにエアコンが要らない気温であったが、日が暮れてくるとひんやり「寒い」と感じるほどであった。連日の関東の酷暑で、身体が35度以上に対応するモードに切り替わっていたこともあるのだろう。
+
しかもここは下界と標高差もある、群馬、長野、新潟三県の境界にほど近い、白根山の噴火口のすぐ近くである。
もしかすると、温泉の火山ガスも、感覚が繊細な子どもには効くのかもしれない。
というわけで、天の川を見に行くといった活動は妻と下の子に任せ、私はといえばダウンしてしまった上の子と一緒に部屋で留守番である。
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・・
上の子の体に触れると、体温が少し低いように感じた。
いや、私の体温が高かっただけかもしれない。
もう三年生の男子ともなると、ふだんは親と寝るという感じでもないのであるが、ひさしぶりに抱き抱えて寝かしつける。
ふと、小さなベビーだったことを思い出す。
よく病気をして、こうして肺の音を聞きながら添い寝をしたものであった。
呼吸、脈拍、そして寝返りのようなことも。
ここにも、いくつかの周期性が、重なり合っている。
眠るともなく、目覚めているでもない上の子の呼吸に、こちらの呼吸もリズムを合わせてみる。
こういうのを「おだやか」とか「おちついた」というのだよ、という感じがする。
で、翌朝。
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上の子も元気になったので、スキー場(夏)を散策する。
熊が出る、と言われたが、出なかった。
熊よけの鈴を四つも連ねて歩いたら、出るものも出ないか。
山も空も、法身の説法だなあと感じる。
行者であれば、沸き立つ雲や、揺れる草木に、躍動する梵字をみることだろう。
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足元の小さなものたちにも目をやるといい。
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これ、みんな、生きていたり、生きていた、モノたちである。
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花が人間をしてハッとさせるのは、可視光帯域の光の共鳴を、人間の視覚との間で引き起こしやすいから。と書いてしまうと、なんだか殺風景な話にも読めるが、可視光帯域の光の共鳴の向こうには宇宙の始まりのようなことも軽く飛び越えていくような、仏教の用語でいえば「法界」ということがあるようなないような感じになっているようないないような。
時間と空間をも、”そこ”から副次的に編み出すことになる法界。
花と人間の交響は、即自的花と即自的人との分離された二項の間の二次的関係ではなく、人が花になり花が人になり、どちらがどちらかわかるようなわからないような、そういうところで微かに、響く。
++
冬はスキーのゲレンデになる草原で、夏の花々をたのしむ。
そして帰路へ。
+
車で万座から草津へ抜ける。
途中、白根山の火口の近くは噴火しやすいということで、車から降りずに通過してください、ということになっていた。
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広大な駐車場があり、噴火が落ち着いたならば、また観光地として賑わうのだろう、と思わされる。たくさんの人がここを散策している様子が幻視される。
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しっかりとした避難シェルターがある。
もし今噴火したら、
1)車から降りて避難シェルターに入るのがいいか
2)このまま走り抜けるのがいいか
この二択なら、どちらがよいか思考しながら通り過ぎる。
もちろん、私は車両を操作していないのでご安心ください。
もし噴石が車を直撃したら、身体は「外」から壊される。
それを予防するなら1)の方が安全である。
しかし、1)でも、濃厚な火山ガスが流れているのであれば、シェルター内でそれを吸ってしまうと身体は「内」から壊される。
2)の当たりどころと、1)の濃度をどう評価するか・・・
などと考えているうちに、あっという間に火口付近から遠ざかっていく。
なお、最終的な結論は、「避難シェルター内に、ガスマスクがあればよい」である。実際にあるかどうかは不明である。
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こちらはもう、緑が戻ってきている。
いや、最近になって戻ったわけではなく、ずっとこのままかもしれない。
山もまた生きている。
噴石も、岩石もまた、もとはといえば流体だ。
個体もまた流体と異なりながらも異ならない。
空(そら)も、人も、花も。
山も、温泉も、ガスも、石も、岩も。
それぞれ他と異なりながら、響きあい、同じ一つの大きな振動(地球でもいいし、宇宙そのものでもいい)の中に溶け合っている。
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下の子が、まだ小柄なおかげで、
足湯といっても湯に足が入らず、
ちょうど水面を歩くような具合になるのがかわいい
この写真一枚で、「この旅行は、行ってよかった」と思わせてくれるのが子の力である
草津は万座温泉から近い。
そして草津から、関東平野をひたすら南下し、帰路を急ぐのであった。
自動車のダッシュボードの外気温時計はまさかの40℃を表示している。
いまのこの空(そら)はいまのこの空で、気圧に気温、空らしい音声をかなで続けている。
この山はこの山で、この山らしい音声を、岩やガスや温泉や地震や、いくつものパートに分かれて響かせつづけているし。
ここの花たちはここの花たちで、花らしい可視光帯域の”音声”を賑やかに共鳴させつづけているし。
そして人も人で。人と人も人と人で。
それらしい音声を響かせている。
::
実に多様に荘厳された法身の説法が響いているものだ。
などと言葉にしてみながらも、気圧と気温と火山ガスで自律神経が参ってしまう自分たちの体に「やれやれ」といってみたりもしつつ、しかし、この身体や神経も、それはそれでひとつの響きの響き合い方なのだ、と知りながら、頭を抱えたり、氷水を飲んでみたり、頭痛薬を飲んでみたり、昼寝してみたりする。
人にはひとりひとりちがった、ブレーキの踏みどころがある。
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