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神話の算術では8は「5+2」 -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(81_『神話論理3 食卓作法の起源』-32)

クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』”創造的”に濫読する試み第81回目です。『神話論理3 食卓作法の起源』の第六部「均衡」を読みます。

これまでの記事は下記からまとめて読むことができます。

これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。


はじめに

この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」を、空海が『吽字義』に記しているような二重の四項関係(八項関係)のマンダラ状のものとして、いや、マンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる脈動たちが共鳴する”コト”と見立てて読んでみる。

レヴィ=ストロース氏は大部の神話論理の冒頭に次のように書いている。

生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせ命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理1 生のものと火を通したもの』p.5

経験的感覚的な区別(分別)を、概念の道具として観念を抽出し(つまり分別同士を重ね合わせて意味分節する)、この観念を繋ぎ合わせる(意味するものと意味されることとの一対一の静的ペアをリニアに連鎖させる)ことが「どのようにしておこなわれるか」。この「どのように」をマンダラ状の意味分節システムの生成消滅の脈動のモデル上でシミュレートすると、概ね以下のような具合になる。

即ち、神話は、語りの終わりで、図1におけるΔ1〜4を分けつつ、過度に分離しすぎない、安定した曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指す。

図1

そのためにまずβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きが語られる。

β項は神話では、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間、といった姿をしている。そのようなものたちは、経験的感覚的には「存在しない」が、神話は、何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずの二極が、ひとつに重なり合ってどちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといったこともこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。

お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。

そこから転じて、βたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力がバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

ここに私たちにとって意味のある世界、 「Δ1はΔ2である」ということが言える、予め諸Δ項たちが分離され終わって、個物として整然と並べられた言語的に安定的に分別できる「世界」が生成される。何らかの経験な世界は、その世界の要素の起源について語る神話はこのような論理になっている。

私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている。


平等

今回から『神話論理3 食卓作法の起源』の第六部「均衡」を読む。

冒頭、レヴィ=ストロース氏はルソーの『エミール』から、次の言葉を引いて掲げている。

交換がなければ社会は存在しえないし、平等ということがなければ共通の尺度は存在しえない。だから、あらゆる社会には、第一の法則として、あるいは人間における、あるいは事物における、契約によるなんらかの平等がある。」

ルソー『エミール』

この「平等」に注目して考えてみよう。

* *

平等は”社会(つまり複数の人間がお互いに他者を自己と異なるが同じようなものとして認め、自分が生きているのと同じように、他者もまた生きているのだということを容認し合う関係)”の第一の法則である。このあたりの細かい話は社会科学の専門領域に属するものであり私はそれについては全くの素人であるので、ここではあくまでも意味分節の観点から読んでおこう。

平等というのは意味分節の観点からいえば、ある互いに区別される二つの事柄が、別々に異なりながらも、しかし同じ、ということである。

異なるが同じ、同じだが異なる。
非同非異。

異なるが同じ、同じだが異なる

「わたし」と「あなた」が居たとして(どうしているのかはよく分からないが、とりあえずいるとして)、この二人は全く別々に違っていて異なるが、しかし「同じようなもの」であるということ。つまり鏃が肩に刺されば痛いし、塩をたっぷりふってじっくり焼いた虹鱒は美味いし、お土産を貰えばうれしくかつ恐縮するし、といった点についてはお互いに「まあ、そりゃそうだよね」と同じような感じの意見を持てるだろうと期待できること。

この極めて経験的な、お互い異なっているが、同じようなところもある、という感じこそが、「他人が視野に入ったら、即射抜く!」といった殺伐とした関係ではない、適度に距離をとりつつもつかはなれずのやりとりを続ける人間らしい(あるいは群居動物らしい)「社会」関係をつくる原理となる。

逆にいうと、この「異なっているが、同じようなところもある」と人々が思えなくなってしまっているところでは、社会関係は発生し難くなるということでもある。

この非同非異の関係を発生させる=作り出すのが「平等」を実現することであり、平等を実現するための契約だったり、交換だったりするという。


平等というのは「異なることがまったくない」ということではない

非同非異
言葉で書けば簡単だが、異なるが同じ、同じだが異なる、ということを実際に感得しようすることは、「異なるのか、同じなのか、どっちだ!」式の問を発して二者択一式の答えを求めて(白黒つけようとして)止むことのない私たち人類の分別心にとってはけっこう難しい話である。

二つに分けて、片方だけを選ばないと気が済まない分別心からすれば、 異なるということは、同じではないということであるし、同じであるということは、異らないということである。

私たち人類は通常分別心を自動的機械的AI的に走らせて生きているので、「同じなのか、異なるのか、どっちなのか!」ということばかり考えている。いや、それしか考えていない、ということもある。

そうなるとついつい、「同じさ」は同じさ一色、つまりまったく「異なるところがない」、「同じでないことがない」ということが出てくる。これは極度に過度に過剰に”同じ”とか、極度に過度に過剰に異なるところが一切ないということである。平等という言葉じたい、しばしばこの分別心の極端な見方の中で、「過度の同じさ」(異なりがまったくない)という意味で使われていることが多い。

ところがそこにあるのは「なあ、俺たちはヤツらとは違って、みんな同じで平等だよな!」という、過剰な同調圧力によって強制的に分別された同じさをつくりだすために、異なるところがないように、わずかな異なりでも差別し排除し続ける、というイジメ的暴力のブラックな世界である。そこでは「同じなのか、同じでないのか」どちらか片方を選べ、「同じ」を選んだら一生同じであり続けるよう死ぬまで働いてもらいます、「同じでない」を選んだら即刻排除します、という、極端な見解を量産する活動に参加することが強いられる。・・とんでもない話である。

Δ形の牢獄としての極端な同じさ

* *

異ればこその平等という

これに対して野生の思考の神話の論理が考える「平等」は、異なるが同じ、非同非異、ということである。二に異なっていることは即、一に同じということであり、そしてまた一に同じということは即、二に異なるということ。「一なのか、二なのか、どちらか?!」ということではなく、「一でもあるし二でもある。」「一ではないが、二でもない。」。

非同非異となると、これは、同じであるが同じではない、異なるが異らない、ということである。つまり、同じなのか異なるのか、「どちらか」一方を選ぶということをしない、できない、やりようもない、ということである。

一見すると真逆に対立する(つまり真逆に異なる、まったく同じではない)二つの事柄が、真逆に対立しながらも、しかし、一方が他方に「なる」ことができ、他方が一方に「なる」ことができ、この互いが互いに変身しては元に戻るような動きを高速で回転させ続けるところで、二つの事柄が二つに分かれながらも、どちらがどちらか違いが分からなくなる、差異を分別することができなくなる。そうした中間的で曖昧、両義的で媒介的な状態こそ、神話の論理における平等といえよう。

分離しつつ結合し結合しつつ分離するでもなくしないでもなく

そんなの論理ではない、と思われるかもしれないが、こういう論理は仏教が得意としてきたものであり、例えば中沢新一氏の『レンマ学』で「レンマの論理」と呼ばれていることや、鈴木大拙先生が『浄土系思想論』などで論じている「即非の論理」を参照願いたい。

ルソーの訳語に選ばれている「平等」という言葉は、古くから漢訳仏典で用いられている重要な言葉である。密教の経典には「一切法平等金剛三摩地」といった言葉が頻出しているし、空海が「即身成仏」を論じる場合、如来と衆生は”異なるが異ならない、異ならないが異なる”といったことを論じる場合にも「平等」は論理展開のための用語になる。例えば「法身真如観に入って一縁一相平等なることなおし虚空のごとし。[…]いまし十地・等覚・妙覚に至って薩般若を具し、自他平等にして一切如来の法身と共に同じく、常に無縁の大悲をもって無辺の有情を利楽し大仏事を作す」と。」(『即身成仏義』)というぐあいである。空海がしばしば言及する真言「あさんめい、ちりさんめい、さんまえいそわか」もこれである。同じではないことと、三つがおなじであることは、おなじことである。例えば松長有慶氏による次の一節を参照しておこう。

仏教でいう清浄とは、意識的に自と他を区別しないことです。自分と他人との間に枠をこしらえず、自分と他人と大自然が一体であるという前提に立つことを清浄という言葉で表わしているわけです。ですから、「一切法の清浄句の門」とは、現象世界に存在するものすべてが自と他の対立を離れ自他無二平等ということがわかっていることが清浄であるという意味です。これが、本来理趣経のいいたいところなのです。本来は自他無二平等であって、「おれが、おれが」と我を張りあって主張しあっている世の中の考えと、まったく逆のことをいいたいのです。

松長有慶『理趣経』p.134

この無二平等の境地は、それこそ平等と非-平等を対立させて、お互いに「おれが、おれが」と主張させるようなやり方とはまったく異なる。感覚的経験的に真逆に対立しているように見える両極も、じつは表裏一体、他方があるから一方がある、他方ではないという資格でのみ一方が区切り出される、という関係にある。そうであるからこそ、「平等」ということで、対立する二極が対立したまま対立せず、しかし対立しないがあくまでも対立する、二極は同じではなく、同じでなくもない、という精妙な振動状態を感得させようとする。

冒頭のルソーの平等、いや、特にレヴィ=ストロース氏がこの文脈で引いているといことが示唆しているルソーの「平等」も、まさにこの、非同非異の状態を発生させること、として超斜め読みしておきたい。

そして人類の野生の思考は、この中間的で曖昧で両義的、つまり白黒はっきり分かれていない、分かれているのか分かれていないのかがそもそもよく分からないところこそ、宇宙のはじまりであると考える。

神話論理

この分かれているのか分かれていないのかよく分からない「渾沌」(同じなのか同じでないのかもよく分からない)と呼ばれるようなことが、まずある方向に長く伸びては縮み、次に最初の方向とは逆の(直交する)方向に伸びては縮み、といった動き(冒頭の図1で示したβ脈動)を繰り返しているうちに、互いに真逆の位置を占める対立する二極の関係というものが浮かび上がってくる。あるひとつの方向だけを極端に引き伸ばすことなく、あるひとつの方向だけを極端に細く潰すこともなく、円を描くように、正方形が内接したり外接したりする円を描くように、同一円周上に諸項が均等に配置されるように、均衡の取れた関係を関係づける関係(場)が開く。

天と地でも、生と死でも、光と闇でも、人間と動物でも、ありとあらゆる対立関係にある二極は(つまり「どちらか」という問いで意味を分別できる事柄は)、この渾沌の伸び縮み、渾沌というパイ生地を捏ねては伸ばすような動きが均衡した場に生成されてくるのだ、と考える。これが人類の野生の思考である。

非同非異の「平等」の論理は、宇宙の起源、世界の起源、意味するということの起源について、分別心でもって「思考する」ための秘鑰なのである。

ところが、この非同非異の平等は、目を開きさえすれば目の前に転がっているようなものではない。人類の分別心は非同非異の振動状態を凍り付かせて、二つに割って、同じさをとるか、異なりをとるか、どっちをとるか、とやってしまう。つまり

同じ / 異なる
||    ||
異ならない / 同じではない

この微妙な異なるけれども同じ、同じだけれども異なるのバランスは、簡単に、過度な同じさ、過度な異なりへと崩れ落ちてしまう

なにげない分別心のままでは、この非同非異の平等ということは分からない=分別しようもない。人間が世界を、あるとかないとか、なにがあるとかなにがないとかを言ったり言わなかったりすることを可能にする最初の秘鑰「非同非異」は、私たちの心(心と物の二元論における一方の極端としての心ではない)の底の方にいくらでも転がっているのだが、通常はその存在は忘れられている。

そういうわけで、異なることと、同じであること、差異性と同一性を分けつつつなぎ繋ぎつつ分ける、分離しつつ結合し結合しつつ分離する動きのバランスをいかにとるか(「均衡」させるか)が、人類にとっては実は大問題なのである。

こうしてこの『神話論理3』の「均衡」の物語が幕をあける。


差異性と同一性の均衡にむけて

過度な結合(差異がなくなるほど同じになってしまうこと)と、過度な分離う(同じさが全くなくなってしまうほどの異なり)とを両極端として、その間に、非同非異の均衡を打ち立てる神話の一例をみてみよう。
「M465 ヒダッツア 救い手としてのバイソンたち」である。

むかし、醜い小さな太った見知らぬ人がマンダン族に賭けを挑んできた。
マンダン族はいつも負けた

このころ村に住んでいた雌バイソンが、この人物は太陽であると教えた。
この男が賭け金をすべて手に入れる時、彼の庇護を受ける敵たちが村を攻撃し、住民を皆殺しにするだろう、と。



勝負づきを変える方法はひとつしかない。
それは若者たちが神である太陽を招待し、自分たちの妻を提供することであると。さもないともうすでにこちらに向かっている 一二の連合した村落がこの村の人々を全滅させるであろう、と。
バイソンは太陽を招いての儀式を取り決めを行い、仲間にひきこんだに太陽を連れてくるようにと頼んだ
「若くて美しいひとりのインディアンの女が太陽に身を任せる」
と太陽に約束して誘い出すよう頼んだ。

**

月は太陽を呼びにいくが、太陽はなかなかその気にならなかった
二度頼んだがだめだった。
月は「好きなだけ食べられるし、若い女性があなたを待っている」と宣伝するが、太陽は動かない
三日目の夜、月は雌バイソンの助言を受けて、太陽に対し「もし来ないならば、太陽を待っている美女はほかの男にとられるだろう」と伝えた。
ようやく太陽は儀式小屋に「少し」近づいたが、まだ入ろうとしない。
そして四日目の夜に、ようやく中に入った。

* * *

儀式小屋の中には美女ならぬ雌バイソンが待機していた
雌バイソンは言葉巧みに太陽をさそった。
雌バイソンは自分が太陽と結ばれようとしたのである。

ところで実は、この雌バイソンは過去に太陽と結婚していたので、太陽はだまされているような気がした。けれども今更帰るわけにもいかず、釈然としないまま雌バイソンと結ばれる。



その結果、太陽の超自然的力は「息子の妻」を仲介者として、彼の「息子」となったインディアンたちに移ることになった。

「息子の妻」は以前は「嫁」 であったが、これからは「孫娘」と呼ばれることになる。
その結果、雌バイソンは太陽がマンダン族と敵対する一二の村落を引き渡すよう要求をする権利を手に入れた。太陽は悲嘆にくれながらも承知する。
自分の義理の息子が敵方で戦っていたからである。死んだときには、息子も殺されたほかの戦士たち同様、食べてしまわなければならないのである。

人々は太陽を小屋の下座である西側にすわらせた。「太陽は禍を具現していたから」である。出された肉の皿に太陽が手をつけると、人々は打ち負かした敵として、太陽を儀礼的に打ち据えた。 それから、人々は猛火が世界を照らすようにと小屋のあちこちに火をつけた





そこへ、太陽の息子が指揮する敵対する一二の村落襲って来た。しかし、その将とともに敵はすべて死んだ太陽の息子の首を刎ねるのは容易なことではなかった。というのは、彼の脊髄はたいそう硬い木(ミズキ属 Cornus sp.)でできていたからである。
その首は百番目の犠牲者の首でもあったから、部族の守護神であるヘビに捧げられた。ヘビはナイフ川とミズーリ川との合流点の水中に棲んでいた。

太陽は天から降りて来て、首を返すようにと求めたが、 ヘビは断った
太陽はかわりの首をホコリタケ属 Lycoperdonのキノコで作った髪の毛はヨモギで代用した。けれどもこの代用物を生き返らせることはできず、彼は泣きながら去った。インディアンたちは試合に勝ったのである。

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』pp.375-376
「M465ヒダッツア 救い手としてのバイソンたち」より一部要約

この神話の基本的な構造は、天/地(天体たちの世界と地上の世界=人間の世界)との分別がはっきりと分かれておらず、天地がいわば一点に凝集するように、過度に結合しすぎている状態からはじまって、この状態を脱し、天/地をはっきりと分けつつ、しかし完全に分離し切ることもない状態にする、ということである。これは天/地の分別の起源神話ということになる。

天/地という、経験的で感覚的な二項対立の付かず離れずの均衡に至る経緯を語るために、この神話はまず、太陽が人間醜い小さな太った見知らぬ人に変身して、人間の集落をたびたび訪問し賭けを挑むというところから始まる。

ここでは人間が理解できるように「太陽」とか「人間」とか「小さな太った」とかいう言葉が用いられているが、これは当然、私たちが経験的によく知っているあの太陽のことではないし、私たちのような人間ではないし、私たちが知っている小ささでも、太さでもない。この太陽は人間に変身して頻繁に訪ねてくる。この人間たちは太陽と賭け事を楽しむ(負け続けているが)こともできる。つまり相互に入れ替え可能な、どちらでもあるような状態にある。この時点では太陽も人間も、経験的に分離済みの項ではなく、図1でいえばβ項、経験的な分別に対する両義的媒介項である。

このことを理解するために太陽のまつわる述語、人間にまつわる述語が、分離と結合の分離と結合を引き起こす様に特に注目して読んでおこう。
勝ち負け、襲撃、などである。

賭け勝負

β太陽とβ人間は賭け事をする。そしていつも太陽が勝って、いつも人間が負ける。

勝ち / 負け
||     ||
太陽 / 人間

勝ちと負けを両極とする一本の軸上に、永遠の勝者としての太陽と永遠の敗者としての人間が引き裂かれていく。そして人間の「負け続け」は、人間の滅亡に繋がる。・・いやいや、滅亡するのはマンダン族だけで、襲撃をかける十二部族の人間は元気じゃないか、という意見もあると思うが、この神話の場合「人間」とは端的に「マンダン族」のことである。それ以外は太陽の眷属である。

「賭け」というのは勝ち負けが50%、二分の一の確率になるはずだと双方が期待するからこそ成り立つのである。必ず勝てる、必ず負ける、必ず儲かる、必ず損をする、というのでは二者のあいだの賭けとして成り立たない。

しかし、この太陽と人間の間のかけでは太陽ばかりが勝ち続ける。つまり勝/負がどちらも片方によっており、極めて不均衡になっている。

* *

なんとかしてこの一方に偏りすぎた勝/負の関係を、別の関係に転換しないといけない。その鍵になるのが、「雌バイソン」が教えた太陽を招いての祭りであり、その祭りにおいて部族の人々が人間の妻を太陽に捧げるということである。

敵を食事に招待する
敵に妻を提供する

この二つの述語に注目しよう。食事に招待したり、妻を提供したりすることは、過度に分離した二者の関係を、逆に過度に結合したものへと急転換することである。

* * *

ここで月が出てくる。

月は太陽と同じ天体、神々の一族であるが、しかしこの神話では人間の仲間、雌バイソンの仲間になっている。

ちなみにこの雌バイソン。経験的にはマンダン族の「食べ物」であるというが、この神話においてこの雌バイソンは食用家畜ではなく、地上の村において人間たちに知恵を授ける者、神々のひとりである。

動かぬ太陽

さて、ここでおもしろいのが太陽の述語的様相である。

月に誘われた太陽は、人間たちのところにいくのを嫌がる。

その気にならない。
うごかいない。
「少し」近づく。

いかにもやる気のない様子である。

このやる気のない感じの述語的様相は、急速に激しく分離したり、急速に激しく結合したり、といったパイ生地を破ってしまうような捏ね方とは異なって、分離と結合の均衡をもたらすものにもなる。

騙されているような気がする

そして太陽がようやく人間たちの儀式小屋へやってきてみると、待っていたのは以前に交際関係にあった雌バイソンの神であった。昔の馴染みというやつである。これを述語に注目してみると、つまり、もともと結合していたところが、一旦離れていて、それがまた再結合しました、ということである。
分離と結合の分離と結合の脈動がよくうかびあがっている。

ここで太陽の「だまされているような気がした」というのがいい。

とはいえ太陽は怒って帰るようなことはせず、流れに任せる。

レヴィ=ストロースもこの神話のこの部分に注目する。

「天体の諍いの諸神話の場合と同じように、太陽は女を間違えるのであり、彼に割り当てられる生き物は魅力を欠いたものである。どちらの場合も方法は異なるが、姻族関係は月と人間を作戦の勝者とするのである。」

レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.378

これまでみてきた神話では太陽は「カエル」と結婚し、臓物料理をコリコリと音を立てて食べるという「勝負」で恥をかかされるという役回りを演じてきたが、それと今回の「騙されているような気がする」結婚は等価である。

ところでこの昔の馴染みの雌バイソンは、あくまでも「若い人間たちの妻」という名目で太陽と結ばれている。この聖なる結婚の結果、「太陽の超自然的力は「息子の妻」を仲介者として、彼の「息子」となったインディアンたちに移る」ことになる。太陽の力が、その儀礼上の結婚相手である雌バイソンに移る。するとこの雌バイソンは若い人間の男たちの「妻」であるのだから、妻を介して、人間の若い男たちにも太陽の力が移る。

勝ち負けが50%/50%へ

このようにして賭けの勝ち負けで太陽ばかりが総取りをしていた状態から、人間たちと太陽とが、互いに対等に交換をしあう関係にはいったのである。そしてこの交換の一貫として、太陽の眷属の十二部族を村から「引き離す」よう太陽に要求する権利が人間の側にもたらされる。太陽は人々の要求を「しぶしぶ」のむ。

さらに太陽は人々から食事を提供されるが、手をつけるや否や打ち据えられて酷い目にあう。

こうして人々は太陽を、”歓迎しながら叩き出す”ようなことをするわけであるが、このとき、太陽が完全に消えてしまって世界がまっくらにならないように、小屋に火をつけて、地上を照らす適度な光は残していこうとしているらしい

過度に分離せず、過度に結合せず、分離しつつも結合し結合しつつも分離した均衡の取れた状態を目指そうとする。

* *

さて、そこに太陽の眷属が攻め込んでくる。
しかし、人々はあっという間にこれを返り討ちにする。
過度に結合しかけたら、すかさず過度に分離する。
そうして太陽の息子の「首」を苦労しながらも刎ね、そして水界にすむ「蛇」に捧げる。太陽の息子が二つに分離しているところに注目しよう。人間の村を襲撃するような、人間と過度に近い太陽の息子を半分にして、一方を「火」の息子の首を「水」に捧げる。

太陽は地上を離れ天に逃げていたが、息子の首を取り返そうと、また地上に(いや、水界陸界の境目あたりに)降りてきた

しかし蛇は首を返さない

太陽は代用の首を作ることも画策するが、失敗し、最後は悲嘆に暮れて天に帰っていくもう二度と、人間たちにかけを挑んだり、人間たちを滅ぼそうとしたり、ようするに地上をうろうろしようとはしないであろう

そして人々は「試合に勝った」(最初負けっぱなしだったのが「勝った」)のである。


12、11、10、9、8・・「四」に注目

さて、この神話についてレヴィ=ストロース氏は太陽と連合した十二の村々の12という数に注目する。ここから10ページほどかけて神話における「数」の問題が論じられる。

まずレヴィ=ストロース氏は、今回の神話を含む北米の神話に「だいたい10という数のチームを構成する登場人物が[…]登場する」ことを指摘する。この神話的登場人物たちは鹿だったり、服だったり、太陽の兄弟だったり、籠の兄弟だったりするのだが、レヴィ=ストロース氏が注目するのはその数が、いつも必ず厳密に10に限定されるのではなく、「だいたい」10であるということ。つまり10より少し増えたり少し減ったり、「その人数が違っていることがあ」るということである(p.378)

レヴィ=ストロース氏が書かれているところを見てみよう。

イロクォイ族では、神話に一〇人の兄弟が出てくる。一二人のこともあるが、その場合は、生存する 一〇人と、いなくなってしまったふたり、とに分かれる […]このように一〇個組から二個組へ揺らぎが起きることは、まえに提起した問題へとわれわれを引き戻す。北カリフォルニアのユーロク族の話でカミナリが一〇になったり一二になったりすることがあるが(Spott-Kroeber, p.232)、これはインフォーマントがうっかりしたと考えるべきなのか、それとも異なったふたつの数体系がある と考えるべきなのかこの問題は新世界においてはこれまで無視されすぎていたものだが、旧世界に関する専門家たち(中国に関しては Granet, p. 7, n. 2, 154, n. 1ほか各所を、ローマに関しては Hubaux を参照)にはよく知られたことであった。また、行為者を九、八、七という数の群に分ける神話は、そのような数を一○という数の下限としているのか、それとも、プレヤデス星団、おおぐま座、こぐま座などの星座を予示するチームの場合だいたいそうであるように、それらの数に固有の価値があるのか。同様に、八という数は10-2とも考えられるが、2×4 によって説明することも同じように、あるいはよりうまくできる。四という数は北アメリカのほとんどあらゆるところで聖なる数字なのである。

レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.381

この数のぶれ、昔の人が喋ったときに間違えたか記録するときに間違えたのではないか、と思いたくなるかもしれないが、この数字のずれ、10からのブレには神話論理の要点が隠れている。

そして、数は増えたり減ったりするが、どうやらその増減は「四」のまわりで生じているらしい。

そしてさらに、次の記述もおもしろい。

カーティンの神話集(Curtin I, p. 318-354)には、それぞれ五人の兄弟とふたりの兄弟からなるふたつのグループを、 前者あるいは後者のひとりの妻や姉妹の介入によって、結合させたり分離させたりする一連の神話が入っている。 それはあたかも、5+2という加法、7-5あるいは7-2という減法が演算子の役割を果たす第三の項を必要としているかのようである。この意味においては、神話の算術では8=5+2と計算されると言ってもいいほどである。

レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.386

5+2という加法、7-5あるいは7-2という減法が演算子の役割を果たす第三の項を必要としている」というところに注目しよう。つまり神話において「5+2」を実行するためには、さらにあと「1」が必要なのである。

「神話の算術では8=5+2」

つまり「5+2=7」という関係が、神話においては「5+2+1=8」という関係と同じなのである。合計で「8」を使って「5+2」を実現するといってもよい。

ここでレヴィ=ストロース氏が、追加される第八の項を第三項と読んでいることに注目しよう。第三項とはつまり経験的に感覚的に分別され対立する二極の「あいだ」にあって、その二極のどちらとも異なるが、その二極のどちらとも同じである事柄である。これは両義的媒介項とも呼ばれる。

両義的媒介項は2を1にしたり、1を2にしたりするともいえる。
つまり両義的媒介項が動き回ることによって、対立関係の対立関係を編んでいく神話においては、1が2に分かれたり、2が1に結合したりしているので、1=2、2=1、という、通常の算数ではあり得ない等式がしばしば表に顔を出してしまうのである。

神話が分離しつつ結合する諸項たちは、一つが二つになったり二つが一つになったり、伸び縮みをつづけている。そこでこの諸項の数を数えようという酔狂なことをすると1=2、2=1というぐあいに、増えたり減ったりし続けることになる。そうであるが故に、神話の語りは、8や4のまわりで増えたり減ったりするのである。


まとめ

というわけで、神話が分離と結合の間のバランス、分離と結合の分離と結合の均衡状態をつくりだそうとするところでは、常に、非同非異の原理(二つを同じ一つにしたり、一つを同じではない二つにしたり)が働いている。つまり1が2になり、2が1になるという、数のゆらぎ、振動が振れ続けるのである。そして神話はその分離したり結合したりする動きの様相を象徴することとして、経験的で感覚的な分別・二項対立を伸び縮みさせるうごきを引き合いに出すのである。

つづく


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