意味分節理論は大学入学共通テスト「情報」の範囲に入るか??
大学入学共通テストが行われているということで、意味分節理論と絡めて書いてみる。意味分節理論は近い将来新たな試験科目になる「情報」に、深いところで関連すると思われる。
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さて、意味分節理論というのは何かといえば、意味ということの発生の仕方を考える理論である。
といったところで、さっそく迷路の入り口に落とし穴が開いている感じになる。
第一に、意味分節理論でいう”意味”とは、「もの」ではなく「こと」である。第二に、意味分節理論で言う”意味”は、止まったり固まったりしておらず、常に「生成」し続ける。
意味を、固まった不動のもののようなものとして考えるのではなく、動的な出来事として考える。
こうなると「意味」という名詞の気配を纏った言い方ではなく、「意味する」という動詞の方を、選んで使いたくもなる。
意味とは、「意味する」である、と。
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では、この意味するとは何をすることか?
この答えは直観的に分かりやすい。例えば「ある種の自動車を所有することは成功の証である」といった具合である。
この言い方では、ある種の自動車というものと、成功ということ、それぞれ別々の事柄が異なったまま一つに結び付けられている。
ランボルギーニの車というもの <〜> 成功ということ
意味する、と言うのはまさにこれである。
意味するとは、互いに区別される二つの事柄を一つに結び付けることであり、異なった事柄を異なったまま「同じ」と置くことである。
これを、二つの互いに区別される事柄の一方に他方の代わりをさせることである、と言い換えても良い。
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この関係で、例えば”ある種の車は成功の象徴である”と言う言い方もできる。ここで「象徴」するということは、意味するということと同じことである。
即ち、意味することも、象徴することも、どちらも二つの互いに区別される事柄を区別したところで、一方で他方を「表し」たり、「代理をさせ」たりする。意味するときや象徴するとき、そこで行われていることは煎じ詰めれば、区別しながら区別しない、分けながら一つにする、と言うことである。
ここで「何と何を分けるか」、その分け方には無限の可能性があり、分け方は多様に変化しうる。意味分節理論の「分節」というのは、まさにこの分けること、多様な分け方のダイナミックな変容ということを指している。
さらに、何と何を結びつけるか=一つにするのかについても無限の組み合わせの可能性があり、結び付け方もまた多様に変化しうる。
この点で、意味するとは、不断に分け方を変容させ続け結び付け方を変容させ続ける、永遠に未完の営みという事になる。そういうわけだからして、意味はものではなく「こと」、動いていることなのである。
言語は矛盾から芽生える
ところで、区別しながら区別しないなどというどちらだか”分”からない言い方は矛盾と呼ばれる。
健全で効率的な日常の世界で、矛盾したことを言っていると「お話にならない」、「論理的思考ができていない」、「論理が破綻している」、「一貫性がない」、「馬鹿にしている」などと非難される場合もある。
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しかし考えてみると、これで非難されるとは、非常に不思議なことである。
お話も、論理も、思考も、一貫性も、非-馬鹿(天才?)も、すべては言葉を用いることで成立する事柄である。
そして言葉は、まさに語というシンボル(象徴)でもって他の何かを「意味するー象徴する」ミクロの動きの積み重ねで出来上がっている。
言葉は、その不可視の深層では一を二にし二を一にする「矛盾」を引き起こすことで意味作用(意味するということ)を発生させている。
しかし、そうして発生した意味するということ(二を一につなぐ動き)が過度に反復されるうち、いつの間にか「あるシンボルの意味はxであって、x以外ではないです」という具合の排他的な「意味する」関係が煮凝ってくる。
こうなると、ある一つのシンボルは、深層の可能性としては無限に多様な相手と「二にして一」の関係に置かれうるはずでありながら、しかし実際には、いくつかの、あるいはしばしばただ一つだけの限られた相手とだけ「二にして一」の関係に入ることになる。
ここでシンボルは、その意味内容(置き換え先)を固定された「記号」へ、さらには一義的な「信号」へと化ける。
二重性、双面性。深層から表層へ表層から深層へ
こういう具合にして、私たちはシンボルが自縛して化けてでたような記号や信号でカチカチに固めた確固たる世界を作り上げて、その中に閉じこもる。
もちろん、ここで言いたいのはシンボルが良くて記号信号はだめ、という話ではない。動的で多義的なシンボルとしてのあり方も、静的で一義的な信号としてのあり方も、どちらも「意味する」という分化と結合のプロセスがミクロに動きつつその痕跡が積み重なることで、マクロには安定的に同一性を再生産し続けるシステムを創発させていくということである。
このミクロの動態とマクロの静態が差異化するということは、生命現象や物理現象のあらゆるところに見られる現象であり、いわば宇宙に普遍的な傾向である。
人類という一生物種の存在においても、このダイナミックなミクロの動きとスタティックなマクロの動きの差異が、身体、脳、身体を拡張する物質として言語(伝承された記号体系)、そして社会という、あらゆる階層のシステムに見られることは、とても面白い。
(このあたりの話については、西垣通氏の「階層的自律コミュニケーション・システム」のモデルがヒントに溢れている)
ミクロとマクロは、深層と表層は、「ひとつ」のことの二つの姿、人間に認識できる限りでの二つの姿なのである。
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「情報」を学校で学ぶということ
そしてこのあたりの話こそ「情報」という学問の核心であったりする。
学校の教科になっている情報といえば、プログラミング教育や、フローチャートのIF-THEN分岐的な論理的思考力の涵養ということが表向き(?)の話題になるけれども、なぜこういうことを学校で勉強しなければならない事態になったかといえば多数の電子計算機(コンピュータ)のネットワークが、私たち人類の個体に接続され=絡みつき、好むと好まざるとに関わらず個々人の身体や思考を「拡張」するようになってしまっているからである。
おそらく数万年ほど前から、人類は人類に生まれたからには「言語」から逃れることができなくなってしまったように、今、私たちは「社会に実装された」コンピュータ・ネットワーク的なものから逃れることはできなくなりつつある。
そういうわけでコンピュータとそのネットワークとはどういうものであるか概略を知っておくことや、個々人が社会を渡っていく上でのコンピュータ・ネットワークとの折り合いの付け方を学んでおくことは、確かに、近い将来大人になる子供たちにとっては重要なことだろう。
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学校というのは国語、数学、英語など、社会で通用している代表的な記号体系の基本的なコード(記号と記号の結びつけ方と、置き換え方の主流のパターン)の操作方法を反復的動作を通じて身体化するためのシステムである(だからこそ「個」という本来多様なコードを新たに発生させる可能性に開かれている存在との間で折り合いがつかなくなることもあるのだけれども、今はその話はおいておこう)。
そういうところに、今「情報」が加わろうというのである。
例えば、「国語」なら、日本語の文法や辞書に表現されるコードに支えられており、「英語」もまた英語の文法や辞書に表現されるコードに支えられている。「数学」はよりストレートに記号と記号の結びつけ方のコードという姿を顕にしている。では「情報」のコードとは何かといえば、それは端的にコンピュータのコードである。
コンピュータのコード、人間の言葉のコード
コンピュータのコードには、従来の国語や英語で学ぶコードとは大きく異なる特徴がある。それは即ちコードの「硬さ」である。
情報の例題としてIF-THEN式の条件分岐の論理がよく引き合いに出されるが、これは人間がコンピュータのコードの硬さに親しむ・慣れるための好例なのである。
人間であれば、特に私のような悪くいえば軟弱・良くいえば柔軟な人間であれば、「どちらかを選べ」という要求に対して、「とりあえず、両方やっておきましょう」とか、「後で(来世で)選びます」とか、「どちらも選びたくありません(第三の道)」などと、どっちつかずの宙ぶらりん、中間状態に止まることもできる。
中間性こそが、人類の創造性の根幹にあること
これについては下記の記事をご参考にどうぞ↓
しかし、コンピュータの場合、この宙ぶらりんはダメなのである。
いや、ダメではないのだけれど、少なくとも現在の一般的なコンピュータの場合には、その計算処理は止まってしまう。フリーズしてしまうのである。
コンピュータというのはモノとしては大量のオンーオフ・スイッチが接続されたスイッチの塊である。このスイッチの切り替えパターンの組み合わせによって、電子の通り道にいくつもの選択肢を準備しておき、条件に応じて切り替えながら、回路を開いていく仕掛けである。
ここに「オンでもなくオフでもない」「オンでもありオフでもある」というような中間的なもの両義的なものを持ち込んでしまうことは、スイッチの切り替えができなくなるということである。こうなると電子の通り道はつながらず、アウトプットが出てこないことになる。鉄道がしばしば「ポイントの故障」で運休してしまうのと同じようなものである。
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これに比べると人間の言語のコードは極めて緩く、中間的なこと、両義的なこと、矛盾したことまで平気で言えてしまう。
例えば国語でも英語でも、ある文章に対して「主人公の気持ちを15文字で説明しなさい」などと問う場合、権利上は無限の可能性がある。そうであるから「複雑な気持ち」「なんともいえない気持ち」「言葉にはできない気持ち」と書いておけば、論理的には99%正解になるはずである。
もちろん学校では点数をつける都合から「正解」を設定せざるを得ず、「主人公の気持ち」のような著者ですらよくわからないことにまで単一の固定した答え(言い換え先)を用意してしまうので、少々滑稽なことにはなるが、それもまた人類の面白さとして楽しめるくらいが良いのではないか。
なにより人間の言語のコードは、それ自体として何か固まった決定済みのルールによって同一性を保証されている訳ではなく、あくまでも都度都度、ミクロな「分節」が、「意味する」ことが、象徴することが、分けつつつなぐ分化と結合の蠢きの中で発生し、その反復からマクロな体系が固まった姿を表しつつも緩やかに変容し続けるという代物である。
こうした「ゆるいけれどもかたいーかたいけれどもゆるい」コードを生きる人間と、「かたい」コードのコンピュータとを多重に結びつける(インターフェースする)ことが、おそらくこの先数百年の間の人類にとって大きな課題になると考えられる。
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最初の話の「動くこと」と「不動のもの」の区別に戻るなら、人間の意味分節体系のコード(人間による情報処理と言ってもいい)は「動くこと」であり、コンピュータの区別と変換のコードは「不動のもの」である、ということもできる。
もの / こと
不動 / 動
(もちろん、あまりこういう図式的な二分はしないほうがいいが、説明のための例え話として書いておく。コンピュータのコードを人間のように「動くこと」にするにはどうしたらよいかというのも、実はコンピュータサイエンスのエキサイティングな研究テーマである。)
人間とAI(人工知能)の関係というのも、煎じ詰めればこの人間のコードとコンピュータのコード、「ゆるいけれどもかたいーかたいけれどもゆるい」コードと、「かたい」コード、この二つのコードの間の変換コードをどう記述していくのかという問題である。
人間の意味分節は、無限に多様な可能性がある何かと何かの区別の分け方と、結びつけることの結びつけ方を試しつつ、その中のいくつかを過度に反復することで、自律的なシステムとしての「コード」を創発させつつ変容(進化)させていくことである。ここに無限の比喩の可能性が生まれ、詩的言語が生命力を得、新たな意味が生成してくる。
ではコンピュータの意味分節とはどういうことか。
少なくとも現状では、区別の分け方と結びつけの結びつけ方は、コンピュータにおいてはあらかじめ設定され固定された有限な数の記号の組み合わせの規則として、これまたあらかじめ決められている。
未来の「情報」へ
この先、コンピュータの技術がどういう方向に向かうのか、未来のことはわからないが、少なくともいつまでも今のままでは済まないだろう。
コンピュータと人間と人間の社会が「ハイブリッド」なシステムを構成するようになればなるほど、人間における深層的でシンボル的な意味分節システムの創発の蠢きもまた、コンピュータネットワークによる記号の生産流通の影響を被るようになるだろうし、逆にコンピュータネットワーク上を蠢く記号たちの組み合わせパターンもまた、人間たちの活動によってそのサイバースペースにおける信号のパターンをぐにゃぐにゃと捻じ曲げられるようになることだろう。
こうなるともう「人間」と「機械」、「人間」と「コンピュータ」の二項対立関係を大前提にすることもできなくなるかもしれない。この辺りは今日の「文化人類学」の大きなテーマにもなっている。
コンピュータにとっては、決められた手続きでスイッチをオンオフしているだけのつもりが、そこからアウトプットされる記号の配列のパターンのパターンが、人間たちによってさらに別の層でパターン化され、そこに象徴的な意味の発生の美しくも恐ろしく、恐ろしくも美しい光景が広がることになる…、のかもしれない。
いずれにしても、このようなことを考える手がかりを与えてくれるのが意味分節理論である。
もし、このような話が大学入学共通テストの「情報」で問われるようになれば(※なるとは限りません。受験生各位は不確かな情報に惑わされないでください。)、日本も(というか人類も)さらに盛り上がるのではないか。
などという「思いつきも浮かぶ」のである。
(と、冗談めかして書いてはいるが、それこそDXなども、人間の社会とコンピュータとを本当に接続しようと思うなら、両者の意味分節のコードの違いというのは大きなポイントになるはずである)
参考図書
そういうわけで「情報」を異次元に極める上で役立ちそうな意味分節理論の参考書をご紹介します。
まず意味分節理論、深層意味論の概要については、下記の記事に書いているので参考にどうぞ。
まず意味分節理論といえば、井筒俊彦氏である。
井筒氏の著書としては、まずお勧めしたいのはこちら『コスモスとアンチコスモス』である。
この本については下記の記事でも取り上げているのでご参考にどうぞ。
次に『意識の形而上学』である。
『意識の形而上学』を意味分節理論として読む試みとして、下記の記事を書いていますので、ぜひご参考にどうぞ。
関連する文献として、中沢新一氏の『レンマ学』もある。
『レンマ学』は、特に「情報」の教科の代名詞のようにも言われる「論理的思考」ということの深み(沼)に入り込むにはちょうど良い一冊かもしれない。即ち、論理的思考といっても人間の「論理」には、ロゴス的論理とレンマ的論理、さらには「純粋レンマ的」な論理までが区別できるのである。
論理にも色々あるのである。
レンマの論理は「Aが非Aでもある」とか、「Aでもなく非Aでもない」といったことを言語化するー記述するー意味分節することを可能にするが、この辺りについて深く知りたい場合は下記の『今日のアニミズム』もおすすめである。
関連記事
意味分節理論について
意味分節システムを社会に実装するl、「これぞ情報」という話
意味分節のアルゴリズムについて