「意味」を仮設しつつ、未完成のままに -意味分節を生きる
奥野克己氏と清水高志氏の共著、『今日のアニミズム』を読んでいる。
『今日のアニミズム』は「アニミズム」の本であり、「人類学」の本であるけれども、その表向きの「分野」や「テーマ」の向こう側に、人類×言語の動的で開放的なハイブリッド・システムに残された可能性の種子を植えるような、凄みのある一冊である。
例えば、次の一節を読んでみよう。
ここで問われていることは「端的に生死でも去来でもあるもの」である。
人が生きることは、あれこれの「情念」に「煩悩」に「妄念」たちに追いかけられ、何かあるものを欲する欲にまみれ、ドロドロになって這いずり回ることである。
けれども、そのドロドロがそのまま、まったくそのままで「主体と対象が循環的に相互転換する世界」そのものであるという。
主体と対象というのは私たち人間が物事を認識したり考えたりする際の基本的な枠組みとなる二項対立である。
私たちは通常日常表向きには、「私」とか「意識」とかなどなどと呼ばれるような「主体」として予め存在していると考える。そしてそういう所与の主体の前に、あれこれの物事、それ自体として私たちとは無関係に予め存在している「対象」が姿を現す、と考える。
この主体と対象の間の関係、相関をどのように記述するかは哲学上の大問題である。と同時に、極めて日常的で具体的に私たち一人ひとりが、「自分
について考えたり悩んだり期待したり思い込んだり、あるいは自分の前に出現する人や物に対して、恐れたり、期待したり、愛したり、渇望したり、慄いたりする時にも主体と対象の間の関係がそれと気づかれずに問われているのである。
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このような主体と対象が、「循環的に相互転換」するというのである。
つまり、主体が対象に成り-変身し-転換し、対象が主体に化け-置換され-転換する。
ここでは主体と対象は、別々に異なるものとして分けられると同時に同じことであり、同じことでありながら別々のことである、という関係にある。
これは私たちの日常の意識が思ったり感じたりしているような、主体(私)と対象(私以外のすべての人や物事)が、それぞれ別々に予め固まって存在していて、それが何かの弾みで出会ったり遭遇したりぶつかったり半発しあって離れたりする世界とは、随分オモムキの違う世界である。循環的に相互転換する世界は、固まってはおらず、常に激しく動いており、そこに「予め」定められた停止線はない。
この主体と対象が「循環的に相互転換」する世界は、「定義づけ」に「包摂」されない世界でもあると清水氏は書かれている。
定義づけとは、ある何かAを、別の何かBに置き換える=言い換え、この置き換え先をBに固定すること、B以外(非B)に置き換えることを禁止することであると言えそうである。
このAを他の何かに言い換える=置き換えるということは、何かが何かを「意味する」という場合にいつも生じていることである。
AがBを「意味する」とは、AとBを別々の事柄として分けた上で、一つに結びつけることである。
分けながらつなぐ。分けつつつなぐ。二つにしながら一つにする。
分けることと、つなぐこと、この常識的には真逆に対立すると思われる二つのことが重なりあうところに「意味する」ということが始まる。
ただしこの場合、まだ意味は揺れ動いている。
「意味する」という場合、Aを言い換え置き換える先には、Bも、Cも、Dも、Eも、その他諸々がある状態である。権利上、意味作用においてはAを他の何に置き換えても良いのであり、Aの置き換え先の候補になりうる何かは、おそらく無限に増殖し続ける。
しかし「定義する」となると少々事情が異なってくる。ただの「意味する」ではなく「定義する」の場合、Aの置き換え先が、可能な無限の選択肢の中から、どれか一つ、あるいは互いに矛盾しないいくつかに限定され、そこに固定投錨される。
置き換え先=言い換え先を固めること
例えば、「ある(有)」と「空」のような二項を対立関係においた上で、有の方が嘘偽りで、空の方が真実である、などと言ってみることはできる。空こそが真実であり、有の世界は虚妄だ、という具合である。
ここには次のような四項関係がある。
有-空
|| ||
偽-真
この場合、意味作用のアルゴリズムとしては、逆に組み合わせても構わないのである。つなり、空は虚妄で、有こそが真実だ、と言うこともできる。
有-空
|| ||
真-偽
しかし、何かの弾みで言い換え先が真から偽へ偽から真へと自在に転換することを禁じましょうということになる場合がある。
二項対立関係にある二つの項が、互いに転換することを禁じられる時、そこに「定義すること」が、固まった意味が出現する。四項の組み合わせが固まってしまうということで、上の場合、「有」が「偽」に置き換えられ言い換えられ、「有は偽である」と「定義づけ」られることになる。ここで「有」が「偽」へと完全に包摂されることになる。
◇
これに対して、対立関係にある何かと何か(有-空でも、偽-真でも)が「循環的に相互転換する世界」では、偽と||でつながる相手は有であったり、空であったり、一方から他方へいつも転換し続けることになる。
この対立関係にある二項の相互転換、一方が他方へ変身することが相互に繰り返され続けている限り、「有」が「偽」だけに完全に包摂されるて止まってしまうということにはならない。
この「包摂されない」世界を上の図式へ、仮に強いて無理をして書き換えるとすれば、次のような具合になるだろうか。
(…-A-B-B-A-A-B-B-A-A-B-B-A-A-B-B-A-A-B-B-A-A-B-B-A-A-…)
|| ||
偽-真
ここで重要なことは、AもBもないなどということは全くなく、偽-真も
ないなどということも全くない、ということである。
あらゆる項は「ある」。
とにかくある。ただし、この「ある」ということは、ある項を他の何か特定の項目と排他的に固く結び付けられて、その中に完全に「包摂」され閉じ込めてしまうことではない。
ここに広がるのが、例えば「仏身は衆生の身であり、衆生の身は仏身と同じ」であり、仏身は衆生の身の「関係は、同じではないが同じであり異ならないが異なっている、というような真に微妙なもの」という空海の「即身成仏」の世界であり(空海『即身成仏義』)、同じく「阿字は「本来生ぜず」という基本に立ちながら阿字が一切を生ずる」という「声字実相義」の世界である。
◇
他の項とは異なるものとして「ある」項たちは、取るに足らない虚妄でもなく、「本当はそんなものない」ようなものでもない。項はある。ただしこの「ある」と言うことは、特定の項と項が固着した結びつきの中にある事とは違うのである。
分けることとつなぐことが、分かれつつつながっている。
ここで「項」を、「分ける」とか、「分節」とか「区別」とか「線を引く」などなどと言い換えてみると良い。
分けることとつなぐことが重なり合うということは、分けるということそれ自体と、つなぐということそれ自体などというような、全く別々に予め動いている二つのプロセスが後からたまたま何かの弾みで、間違って重なり合ってしまった、という類のものではない。それどころか、分けることが即つなぐことであり、つなぐことが即分けることであるという関係にある。
ところが、この分けること即つなぐこと、という「意味する」ということの正体は、私たちにしばしば忘れられ、気づかれないようになっている。
私たちは日常、様々な言葉をほとんど何も考えるとは無しに用いつつあれやこれやを”意味させて”いるけれども、その時に一体何が起きているのかは、よく分からない。
特に何を置いても、一番忘れられやすいことは「分ける」ということである。
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分けるというからには、何よりもまず「分けられる前」と「分けられた後」を分けることになるわけだけれども、「分ける」動きのことを忘れてしまったところでは「分けられる前」のこともすっかり忘れられる。
そうして世界は、始めから予め厳密に切り分け「済」のものであると思われるようになる。
* *
ここでよくよく注意したい。「分ける」ことがダメなのではない。まずいのは「分ける」を「分け終わっている」と勘違いすること、「分け終わっており、もう今後二度と、新たに何かと何かを分けるようなことは起こらない」と思い込んでしまうことが非常にマズイらしいのである。
「日常」-切り分け済みの要素を並べる
私たちの「日常」は、予めどこかで分けられた後、分け終わったところから始まる。身体感覚が起動し、意識が覚醒するとともに、諸々がバラバラに分けられたところからオープニングになる。
日常の世界は、端的に「すでに出来上がったものとして見られた存在者」たちがそれぞれ独立自存した自性をもった実体として互いに分離され、分類され、並んでいる空間だと思われている。
私たちの日常の経験は、予め分けられた後、切り分け済み、解体済み、分解済み、切断済みの、切り身のようなものが秩序立てて配列された空間の中で動き始める。
ここには切り分け「済み」になる前の、まさに今、何かと何かを切り分けようと剣を振り下ろすような生々しいカタストロフィックな動きのことは、すっかり忘れられているか、あるいは思い出さないように抑圧されている。
いや、忘れられるというか、日常の意識、すでに切り分け済みの凝結した項や要素の置き方並べ方をどうしようかと思い悩む日常の意識にとっては、この「分けられる前」を捉えることはほとんど不可能である。
切り分け済みの凝固した項や要素をいかに並べて重ねても、切断線が引かれる前の未分の似姿を構築することはできない。
井筒俊彦氏は『意識と本質』の冒頭に次にように書かれている。
日常の世界は「原初的「本質」認知の過程をいわば省略して」出来上がっているという。
そして日常の世界は「始めからすでに出来上がったものとして見られた存在者」たちが並んでいるところである。
この存在者たちは「固定され凝固」し、互いに「他の一切と矛盾律的」に互いに混じり合うことなくはっきり分別される。
日常を生きる私たちは、この「すでに出来上がった」切り分け済みの凝結した項や要素を並べたり積み上げたりすることで表現できる範囲の中で、物事を認識したり考えたり、意味づけたりしている。
非-日常 得体の知れない、ぶよぶよした
しかし、分けること即つなぐことは、権利の上では、何と何をどう分けても構わないし、何と何をどう繋いでも構わない。しかもこの分けることとつなぐことは決してどこかで止まったり、終わったり、「済」になったりすることはない。
分け方もつなぎ方も、予め決定されておらず、限定されておらず、自在に新たな分け方を試し、つなぎ方を試すことが許されている。
私たちの「日常」の常識の世界では、分け方つなぎ方にはルールがある、コードがある、ということになっているが、自在に切ること自在につなぐことの可能性は、飼い慣らされ産業化された生産性のもとにある創造とは異質なことである。
未だ分かれることのないところで、至るところに好き勝手に分割線が走り、至るところのあれこれが勝手気ままにつながりあう様は、日常の意識、切り分け済みの凝結した項や要素を原点としてそこから出発しようとする意識にとっては、不気味な、理解不可能な、「分かる」ことを拒絶された、恐るべき体験である。井筒氏はこれをサルトルの描く「嘔吐」の体験と重ねる。
井筒氏は次のように書く。
一真法界、絶対一者。
区別のない、区切りのない、分節のない「一」から分化しつつ、あれこれの他ではない何か、森羅万象が発生してくるという考え方である。
「一」からは、ありとあらゆる”他と区別されるあるもの(分けつつ結ばれる項)をがそこから分化発生してくる。もちろんこの項たちは、互いに二即一、一即二、二而不二の関係にある。分化と言いつつも、バラバラに分かれることは決してなく、あくまでも分かれつつつながっている。分けつつ結びつけるときの「結びつける」は、もともと別々に孤立して存在している二つの項を、後からおまけのようにくっつけたということではない。この「結びつける」は、最初から最後まで、徹頭徹尾つながっている。
ここで「一」はあれこれの項たちの分かれながら結びつくネットワーク(網目構造)に変身したとしても、引き続きあくまでも「一」のままなのである。一がどこでどう分かれようともあくまでも一のままであるからこそ、先ほどのシンボル的記号や詩的な言語の場合のように真逆に異なったものが異なったまま一つにつながるということが起きる。詩的比喩的シンボル的記号の世界において真逆に分裂した両極をそのままつなげることができてしまうのは、何か特別な魔法の接着剤を使ったからではなく、そもそも分かれていない「一」のまま、それでいて分かれているからだ、ということになる。
この「一」はシンボル的な自在な結びつきが揺らめく場所であると同時に、互いに分けられた項たちが、分けつつ結ぶ動きを通じて束の間区切り出される相を失って、また「一」へと溶解していくところでもある。
「華厳の事事無礙・理事無礙」から如来蔵、空海の即身成仏、さらには比叡山の草木国土悉皆成仏まで、この一から多へ、多から一への循環、未分節からの分節へ分節から未分節への循環というビジョンを想起させるものである。
この辺りの話は安藤礼二氏の『列島祝祭論』の主題でもある。
この一から多へ、多から一へ、そしてまた一から多へと循環するダイナミックな動きそのものとして、「言葉」たちからなる意味分節体系を自在に発生させ分化させ織り上げ、また織り直し続ける道を探るのが、井筒氏の『意識と本質』のおもしろいところである。
動きながら止まる/流れつつ固まる 「分けること」の慣習化
しかしそうは言っても、この一から多へ多から一への分けつ結び結びつつ分ける動きの蠢きは、日常の意識にとっては「不気味なもの」として経験される。それは日常の意識にとっては歓迎される華やかな何かというよりも、例の「何か得体の知れない、ぶよぶよした」、できることなら避けて通りたいシロモノなのである。
私たちは、日々なにかに追われながら、ことあるごとに、分かるとか分からないとか、言いながら暮らしている。
分からないことはどうも気味が悪い。
分からないより、分かる方がいい。
分かりにくいのは嫌で、分かりやすいのがいい。
日常の意識は「不気味なもの」に直面するとすぐにこのようなことを言いたくもなる。
◇
とはいえ、分かるとか分からないとかいうことは、それは「私」が分かる=分けることができるとか、分かる=分けることができない、という話である。世の中をよく見れば見るほど、至る所に「分かるやつにだけ、分かる」特別な次元や層が隠れている。
「私」が、何かを分けることができたりできなかったりするのは、たまたまある特定の「分け方」を、どこかで学習して身につけたことがあるかないかに関わっている。
もちろん、ここでいう学習というのは単に学校の勉強ということではない。学校の勉強は今日の日常生活を近未来にわたって再生産することに役立つようなオーソドックスな「分け方」のルールを効率よく習得することができるよう設計された便利なものである。
しかし、私たちが分け方を学ぶ場所は、学校に限られるものではなく、それこそ生きている全ての瞬間が、分け方を学ぶ、いや、学ぼうと思わずとも知らず知らずに身につけてしまう、学習あるいは憑依の時間なのである。
その中でも特に強烈な学習であり憑依であるのは、他者の発する言葉を繰り返し耳にし目にする経験であろう。
寝ても覚めても、私たちは常に、他の人々が発する言葉たちの流れの中にどっぷりと浸っているわけであるが、このありとあらゆる人々から発せられては、私の目や耳を通り過ぎていく言葉たちの流れこそが、私たちに「分け方」を、ある社会の日常において許される分け方と、許されない分け方を、教え込むのである。
◇ ◇
私たちは、たまたま運よく、あるいは運悪く、どこかの誰かから受け継いでしまった「分け方」を頼りにして、これは分かる、あれは分からんなどと言いながら生きている。
そしてこの「分け方」は、私たち一人ひとりのところには、出来合いの固まったものとして贈与される、というか、憑依してくる。あまり良い喩えではないかも知れないが、格子状の型枠のようなものとして、私たちはあれこれの「分け方」を他の人々から受け継ぐのである。
◇
私たち一人ひとりが、どの意味分節システムに固まるかということは、私たち一人ひとりが、その生まれ落ちて生活してきた社会の中で、どういうシンボルたちの組み合わせのパターンを学習させられるかにかかっている。
意味分節システムは、人から人へ、受け継がれる。
これは井筒俊彦氏のいう集団的な言語アラヤ識というものに近い。
私たちは深層では、自分たった一人で孤独に意味分節を行うことができ、自在に新たな四項関係を発生させることができるようにはなっている。それはそもそも個々の人間がシンボルを用いることができるということと同義なのである。すなわち、互いに異なるものとして分別された二つのものを、異なりながらも同じと結びつけることが、何かを何かのシンボルにするということの正体なのである。
ところが、この二つの事柄を分けながらもつなぐ人類固有のシンボル能力は、その生まれ落ちた社会に満ちている象徴物とその組み合わせ方を学習していく中で、がっちりと型にははまった動作パターンに規律づけられるようになっていく。
私たちは自分がたまたまそこに生まれ、そのシンボル体系を受け継いだ文化の中で、良いことと悪いこと、美味しいものと不味いもの、快適なことと不快なこと、なすべきこととやってはならないこと、などなどを、周囲の他者と同じように分節するように鍛えられていく。
*
ここで思い出すべきことは、このシンボルの体系は、文化によって、というか人によって、大きく異なるという点である。
国が違えば、地域が違えば、母語が違えば、民族的ルーツが違えば、あるいは地域が違えば、共同体が違えば、家族が違えば、親が違えば、通った中学が違えば、通った大学が違えば、最初に働いた会社が違えば、個々人はそれぞれ全く異なる、しばしば互いに全く真逆の価値を持った意味分節体系を与えられ、受け継がされることになる。何よりもスケールの大きい社会のものから小さい社会のものまで、ある社会で共有されたシンボルの体系というのはそれ自体が緩やかに変化し動いているダイナミックな事柄である。
意味分節体系は深層では何と何をどう分けてつなげても良いのであり、至る所で瞬間瞬間(この空間的時間的比喩はあまり上手くないのだけれども)常に動きつつ、変化している。
ある一人の「私」がこれ以外にないと思っている固まった意味分節体系もまた、そういう多様で動的な意味分節の蠢きの、束の間、仮に反復された同一性なのである。それはありとあらゆる「他」の可能性に晒され、開かれている。
とはいえ、この「他」への変容の可能性は私たちの日常の意識には、全く見えないようになっている。
「私」がいつの間にか知らず知らずのうちに用いざるを得ないことになっている分け方は、「私」にとっては確定的な所与、変更不可能に固定したものという印象を与える。
「私」がそれ以外の可能性を考えることもできなくなっている分け方は、無数の分け方の可能性の中で、自分が人間の身体をもってたまたま生まれ落ちたところで周囲の他の誰かやっている分け方を受け継いでしまったところから始まっているのだけれども、この最初の伝承=憑依の体験は、覚えておくことができないーー少なくとも、予め切り分けられた要素や項目を積み重ねて作り出される言語的な記憶においては。
◇
分節において大事なことは「止まらない」ということである。
分けることはやめる必要はないし、やめることなどできない。人が生きているということ、生命が生きているということ自体が分けることの束のようなことである。
そうではなくて、分け方を固めること、互いに分けられた項の組み合わせ方を固めてしまうことが問題なのである。
分ける動きは常に動いている。動いていて良い。動いていなければならない。もちろん動きつつ、その動きは慣習化し、いつも同じようなパターンで「分ける」ことを続けているうちに、高速回転する物体の残像のように、「項」が安定して一貫した固まりとして固まっているかのような姿を表してくる。
ここに展開されているのは、動いているからこそ固まったようにみえ、固まっていることがまさに動いている、ということである。
整然と枠で区切られたような影を見せている「表層」の下では、全てが全てにどろどろと繋がって蠢いている。そして表層の型枠の固定性もまた、そのどろどろの蠢きそれ自体の影なのだ。
強固に見えるけれども、あくまでも仮、仮名である。
これはまさにインデックスでもイコンでもない、「シンボル」ということの、人間の言語ということの、人間のシンボルを用いた意味分節システムの生きる姿そのものである。
つづく