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"ある"ように"なる"ような・・/「月」と「カエル」が二つの結婚を捩って分離しながら結合する -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(69_『神話論理3 食卓作法の起源』-20)

クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』”創造的”に濫読する試み第69回目です。『神話論理3 食卓作法の起源』の第四部「お手本のような少女たち」を引き続き読みます。

これまでの記事は下記からまとめて読むことができます。

これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。


前回の記事に引き続き、神話的な「結婚」の話である。


結婚とは?

結婚といえば、それ自体として単独で自立独立した女性と、これまたそれ自体として独立自存する男性とが、たまたま何かのはずみで出会って、一緒になりました、といったイメージになろうか。いや、イメージというか法的に、そういう前提になっているらしい。

そういう具合だからこそ「自分はまだ未熟で結婚なんて早いんじゃないか」とか「自分のことも中途半端なのに、とても他人との結婚なんて」といったようなことで考え込んでしまうことになる。

この関係は、意味分節の観点からすると、

Δ夫
Δ妻

という二項がそれぞれ独立してあらかじめ即自的に存在している(ある)はずだというところから始まっている。そのうえで、どうにかして

Δ夫  Δ妻

この二項の間を二次的に結合しようとする。二次的結合には理由が必要である、。社会的(親を安心させる、孫の顔を見せる、職業人としての信頼感を高める)、経済的(年金や手当が有利、生活費の固定費負担を下げる)、あれこれの理由を持ってきては、自分を、お相手を、家族を、職場の上司を、納得させる形になる。もちろん「愛があるから」といったことも立派な理由として通るようになったのが現代である。ただしこの場合、当初の「理由」がさまざまな要因で消滅した場合、なにか別の妥当な理由(「子供のため」とか)をもってきて再結合する必要がある。

* *

神話的な結婚

一方、神話的な結婚は、上記のような二次的結婚とは大きく異なる。
どのあたりが異なるかというと次のような具合である。

1)まず「夫」も「妻」も所与ではない。
 妻も夫も、結婚に先行してあらかじめ存在しているわけではない

2)元々「ある」二項が、二次的に結合するのではない。
 妻も夫も、あらかじめ「いない」のであるから、
 結婚といっても、あらかじめもともと「ある」二項の結合ではない

3)「理由」は問題外、どうでもいい。
 あらかじめもともと「ある」(それ自体として固まった何か)
 二項の間をすり合わせる必要がないので、
 結合の可否を判断する理由のようなことは問題にならない。

神話的な結婚の効果というか、二次的な産物として、「夫」項と「妻」項が、はじめてそれとして区切り出されてきて「あるように”なる”」のである。

夫/妻
に限らず、別々のことが一つにつながる分離しながら結合する
ということが可能になるために、対立関係の対立関係の対立関係を繋いだまま分離するような、八極を区切り出す脈動が動いていなければならない。
そして人間の言語、何かが何かを意味する、ということは、この
別々のことが一つにつながる(分離しながら結合する)
そのものなのである。

+ +

『神話論理3 食卓作法の起源』から、M426「アラパホ 天体の妻たち(2)」を読んでみよう。

この神話では、兄弟である太陽が、それぞれ人間の娘とカエルの娘と結婚するのであるが、二人の嫁を不当に競わせることで(過度に結合させたかと思ったら、過度に分離させようとする、分離したいのか結合したいのかよくわからない状態を引き起こす)、太陽の嫁である「カエル」が、義弟である「月」にへばりついて離れなくなる、という事件が起きる。そしてその結果として、天/地、昼/夜の分別がある、この現世が開闢する

開闢した世界の表層からの眺め
表層の世界のすぐ下の深層の最表層

神話的な結婚から世界の秩序、分節された物事の安定的配置が起源する。
どういうことかというと、下図のように四つのΔを引き剥がしつつ結びつけ相互に入れ替わることができるようにするために、四つのβをくっつけたり引き離したりする脈動を仕込む、ということである。

Δ天

β月 <>β太陽
Δ夜←          →Δ昼
β人間の娘 <>βカエルの娘

Δ地

この図を念頭に、『神話論理3 食卓作法の起源』に掲載された神話M426「アラパホ 天体の妻たち(2)」を詳しくみてみよう。

むかし、地上に、ひとりの首長とその妻と、その息子たちが二人、住んでいた。その頃、空に輝く天体はまだ存在せず、暗黒があたりを支配していた。

(ここ、四者が分かれつつも一セットにまとまっている)

首長は暗黒の地上界を離れて、家族をつれて、昇ることに決めた。
残された人々は、首長がいなくなってしまい、途方に暮れた。

(「昇る」動きの起点と終点に、地/天が生じる)



首長の二人の息子は、太陽と月だった。
は、水に棲む生物の女性を魅力的だと言った。
太陽は、人間の女性の方が魅力的だと言った。
月は、太陽に対して、「人間の女性は、君(太陽)を見る時に顔を顰めるが、その顔は嫌だと、以前の君は言っていたではないか」と指摘し、君には水生動物の妻がお似合いだ、と勧めた。

(二人の兄弟が望む配偶者の姿が、真逆に対立する:分離)



月と太陽は、天から地上に降りていった。
月は、川の西の方にある、人間の野営地に向かった。
太陽は、川の東の方にある別の野営地に向かった。

(二人の兄弟が、真逆の方向に分離していく)



が、人間の野営地に辿り着き、川辺の家々の近くの藪に腰を下ろして隠れていると、美しい人間の娘がふたり現れた。月はすぐさまヤマアラシに変身し、藪から飛び出す。娘たちはヤマアラシを追いかけ回して、その針を取ろうとした。

(月=ヤマアラシ)

ヤマアラシ(月)は、木によじ登る。
娘のうちのひとりが、後を追って木に登る。
もう一人の娘が下から呼ぶのも聞かず、ぐんぐん木登りを続けると、ヤマアラシ(月)が人間の姿に戻って待っていた。二人は結婚することにして、天に昇っていった。

月の母親は、嫁の美しさに感心した。

その後になって、太陽が帰って来た。

太陽は母親に、自分の妻が外にいるから迎えにいってくれと頼む。
太陽と月の母が外に出てみると、カエルがぴょんぴょん飛び跳ねていた。
月は、義理の姉妹を批判がましい目で眺めては、母親に、臓物の煮込みを作るように頼んだ。「噛む時に、どちらの嫁が大きな良い音をたてられるか、比べましょう」と。

カエルが口の中に木炭のかけらを入れて、噛む音をまねようとしたが、黒いヨダレが流れるばかりであった。いっぽう、人間の嫁はこりこりという音を立てて噛むことができた。

月は、義理の姉妹であるカエルを嘲笑った

カエルは怒り「太陽と暮らすことは諦める、でも、お義母さんは私のことを気に入っているので、一緒に暮らして欲しいと言っている。だから、あんた(月)にくっついてやる」というと、カエルは月の胸に飛びつき、へばりついて離れなくなった。

『神話論理3 食卓作法の起源』M426「アラパホ 天体の妻たち(2)」pp.236-237

詳しく読んでみよう。

真っ暗闇から、この神話は始まる。ここは少し気をつけて読みたいところであるが「暗闇があたりを支配していた」というのは、昼/夜の区別があるところでの、「夜」の側、「夜」の極に振れているということではない

天地未分

端的に、昼/夜の分節が区切られていないところから、この神話ははじまっている。昼と夜というのは、下の図1でいえば、Δ1からΔ4のうちの、いずれか二つである。

図1

この図1のβ1〜β4と、Δ1〜Δ4が、先ほどの図式に対応する。

Δ天

β月 <>β太陽
Δ夜←          →Δ昼
β人間の娘 <>βカエルの娘

Δ地

神話の始まりでは、まだこの美しい曼荼羅のような八項関係(二重の四項関係)は切り結ばれていない

なにも分かれていない。

この「分かれていない」は、分かれていると分かれていないとを分けることも超えており、そのようなことを本来的に図示することはできないのであるが、強いて方便として仮に描いてみるならば、下記のような具合になっている。神話の始まりはこういう具合である・・ようなないような・・。

言葉で言うと、やはり「天地未分」というのがちょうどいい。

四人セットであらわれる

この天地未分のところに、親/子、四人の神話的人物が登場する。
この四人は、地上界から天に昇るという動きをとる。

ここで注意したいのは、天地が元々分離しているところで、その一方から他方に移動しました、ということではない、ということである。

この四人が四人セットで動くことで(この場合「昇る」という動き)、この動きの効果というか二次的な影響として、元々四人がいたところが「地」として区切り出され、四人が新たに辿り着いたところが「天」として区切り出される、という関係にある。

振幅を描くように移動することで、その振幅の一番下と一番上、最小値と最大値が定まる。この最小値と最大値が、地と天ということになる。

神話的な家族が「四人セット」で動くというところがポイントである。
四人は、四つに分かれながら、一つになって動く。
四でありながら一、一でありながら四。

これは図1のほうで言えば、四つのβ項が一点に凝集しているような状態である。この凝集した四如来、四βが、固定された座標のある一点に止まっているのではなく、自由自在に動き回っている。

そもそも、空間的な分節というのも、この四βの脈動のあとから区切られることであって、四βよりも前に、先行して、空間とか時間とかいう分節システムが定まっているわけではない。

昇って降りて、西へ東へ(四方分離)

この四βのうちの二つは、息子たち、兄弟である。
兄弟の一方が「太陽」、他方が「月」である。
ここで太陽や月といっても、それは今日の私たちが常識的に空を眺めて見つけているあの太陽やあの月ではまだない。

二人は人間のような姿をしており、そして上下運動をしている。

両親とともに上昇し、天/地を区切り出したβ月とβ太陽の兄弟は、今度は配偶者を求めて、天から地へと下降する。上昇したかとおもったら、すぐに下降する。あちらに行ったかと思えば、こちらに戻ってくる。β項の脈動する姿をよく描いている。

そして前に下から上に昇ったのとは逆方向で、上から下へ降りることで、振幅を描く。この振幅が、その波の最大値と最小値としての上/下(天/地)を、その対立を、分節をより強固に固める。

そうして二人は東/西の方向に別れて移動する。

月が西へ、太陽が東へ。

そして月が人間の宿営地に辿り着き、人間の娘を誘い出す。

ここで「おやっ?」と思うのは、月はもともと、人間ではなく、水棲生物(カエル)を妻に迎えたいと言っていたはずである。それがなぜか、水棲生物ではなく、反対の人間の方と結婚しようとしている。

どうしてこうなっているかと言えば、水棲生物の妻を、兄弟である太陽の方に譲ったからである。太陽が水棲生物と結婚するなら、月は自動的に「太陽が結婚しない方」と結婚することになる。そしてここではたまたま「太陽が結婚しない方」の位置に収まっているのが「人間」だったということである。いつの間にか逆になる、逆転する、ひっくり返る。人間かカエルか、どちらか、ということは問題ではなく、あちらがAならこちらは非Aという具合に、二項対立の対立をきれいに組むことが重要なのである。

「どうして人間とカエルがペアになって対立するのだろう?」

と思われるかもしれない。カエルと人間が対立関係を組むのは「カエルそれ自体のカエル性」と「人間それ自体の人間性」に、あらかじめ対立する性質が内在しているからではない(もちろんそういう説明もできないわけではないが)。

兄弟である月と太陽という”異なりながらも同じ同じであるが異なる”二項の対立関係が、それと異なるが同じこととして”兄の妻/弟の妻”という二項対立関係を区切りだし、この二項対立関係の両極に、なにか適当な経験的感覚的に対立することを放り込んだ、ということである。

この神話の場合、カエルと人間の違いは、「太陽を見るときに、顔をしかめるか否か」という実に細かい違いである。

ヤマアラシ

さて、月は、「ヤマアラシ」に変身する。

ヤマアラシは鋭い針によって「自/他」の境界を鋭く分離するものであると同時に、その針は、人間においては裁縫道具となり、つまり別々の二枚の布や皮を「縫い合わせる」=結合する働きをする。

分離するものであると同時に結合するものである

この「針」の両義性を体現するのがヤマアラシである。

この両義的媒介項βヤマアラシに変身したβ月は、「ふたり」ペアで行動する人間の娘たちと出会う。

人間の娘も、もとは二人

この人間の娘、二人ペアになっているということに注意しよう。

二でありながら一、一でありながら二。
一即二二即一である存在は、分離しているのか結合してるのか、どちらか不可得であるという両義性を体現している。

このβ人間の娘が、樹木の上/下に分離される。

二つで一つになっていたβ×2のうちの一方は地上に結合したままになり、他方は天に、天の存在になっている月に結合しようとする。こちらもまた一点に凝集したようになっていたβ二項が、遠くに分離する。

結合から分離へ。大きく振幅を描いていく。

不当な比較

月は人間の娘を妻に迎え、太陽はカエルの娘を妻に迎えた。

ここで、月、太陽、月と太陽の父と母、月の妻、太陽の妻、という両義的媒介項、振幅を描いて分離と結合を体現するものたちが、ひとつ屋根の下、一堂に会することになる。

β諸項の過度な結合状態である。
(トラブルが起きる予感しかしない!)

ここで、月が、太陽の嫁であるカエル娘を「批判的に」眺める。
嫌うということ。これは分離の兆候である。

そして月は、わざとカエルの娘が負けるとわかっている勝負をしかける。
歯を使ってリズミカルにものを噛むなんて、人間の方が得意に決まっている。

健気(?)なカエルは、炭を口に含んでコロコロとぶつけては、噛んでいるような音を立てようとするが、失敗する。しかも真っ黒な唾液が口からだらりと流れるなんて、お行儀の悪いことこの上ない。

月はこのカエル娘を嘲笑うわけであるが、こんなことをしたら、当然反撃されるわけである。おもしろいのはその反撃の仕方である。

あちらで分離し、こちらで結合し

カエルは太陽と夫婦で居続けることはできない、という。
この意地悪な月のいる家の嫁になるなんて、とんでもない、ということである。つまり太陽とカエルの結合は失敗し、分離するのである。

しかし、どういうわけか、太陽と月の母親はカエルのことを気に入っているという。そうしてカエルは、太陽と結婚はしないが、この家にずっといてやる、という。分離したのに結合したままになろうという。いったいどうすればよいのだろうか。その答えは、なんと、カエルは義弟である月にへばりつき、月と結合したまま、離れなくなる。

こうしてβ月でもありβカエルでもある、という二つのβ項のあいだに、”隈のある月”という、今日の私たちが夜空に眺めることができる、あの経験的感覚的に存在するΔ月の存在が区切り出されてくる

昼/夜の区別のはじまりー人間にとって経験的な秩序ある世界のはじまり

そしてΔ月が存在するといういことは、月の満ち欠けのような天体運行の秩序が存在するということであり、これはつまり、Δ昼/Δ夜の区別もはっきりとある世界になった、ということである。

冒頭、暗闇に支配されていた世界は、昼夜が規則正しく交代する、天体運行の規則性がないのではなく「ある」世界へとモードチェンジされたのである。

この神話について、レヴィ=ストロース氏は次のように書いている。

昼と夜との適切な交代が確立するまえには、深い闇の支配するなかで、人間は混乱と規則性の欠如を経験していた。ひとりの人間が天に昇って月となり、絶対的な夜を緩和された夜に変える必要があった。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.236

昼夜の交代のように、規則的に脈動しつつ、その振幅の両極に対立する二つの領域を区切り出すということが可能になるために、(1)一点に凝集したようなあり方から、(2)縦にながーく伸びた姿へ、そして(3)横にながーくのびた姿へ、さらに(4)四つが均等に分かれながらも結びつた状態へ、両義的で中間的なβ項たちが過度な結合と過度な分離を両極とするように動き回る必要がある。

この四βの動き回りの効果として、四つのΔ項(感覚的経験的に「ある」と感じられるあれこれの対立関係)が収まる位置が区切り出される。

このような分離することと結合することを、分離しつつも結合する、という何とも微妙なことを言語的に思考するために「結婚」と、家族内での反目のようなことが、ちょうどいい経験的な対立として引っ張り出されてくる

「この昼と夜との均衡、および光と闇の絶対的もしくは緩和されたあり方相互の均衡は、[…]近い結婚と遠い結婚とのあいだの対立として表現される。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』p.236

まさに神話論理の真骨頂、という感じがする。

南米と北米の、違う神話が「同じ」?

レヴィ=ストロース氏は、月と太陽の結婚は、南米のカヌーに乗った太陽と月の旅の神話と「同じ」論理を描き出していると指摘する。

「家の竈は、高低の垂直的な軸において、遠近の水平的な軸でカヌーに課せられているのと同じ媒介者的な役割を果たしている。しかし、空間軸がぐらりと動いて垂直から水平に変わると同時に、その軸は空間軸から時間軸に変化する。こうして、日々や季節の周期性が移し替えられつつ、人間の生の周期性という問題が回帰してくることになる。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』 pp.229-230

登場人物が何者であるかや、登場人物やることなすことが、一見する限り大きく異なっていたとしても、そこで生じている”分離と結合を分離しつつ結合する動き”は同じであり、そこから対立関係の対立関係としての四項関係が結びつきつつ分離してくる様もまた、同じなのである。

南北両アメリカの物語における構造上の類似を過小評価するのは誤りだろう。なぜなら、地理的、歴史的に大きくへだたった神話同士が同じことを語りうるのは、ある属のもとでそれらを似た種にするような共通の有機的組織が存在するからにちがいないということが予感されるからだ。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理3 食卓作法の起源』 p.230

地理的、歴史的に隔たった、互いに似ても似つかないような文化の間に、共通の「有機的組織」を浮かび上がらせる神話が語られている。

それぞれの神話の登場人物や登場する事物は、それぞれの文化が知りうる経験的で感覚的なあれこれの動植物や人工物や天体の動く姿であったりする。それは地球上のさまざまな場所で、大きく異なった様相を呈する。

しかし、その経験的で感覚的な違いを超えて、経験的で感覚的な物事のあいだに人間が感じ取ることのできる「区別」に注目して、これを組み合わせて対立関係の対立関係としての意味分節システムが組まれていく

そしてこの二項対立の対立としての四項関係を最小構成単位とする意味分節システムが、実は、その固まった四極から半分ずれたポジションにゆらめく、四つの両義的媒介項からなる関係を切り開く振動から、その振動の波紋のようなものとして浮かび上がってくるのだということ。

四極に広がったかとおもえば一点に凝集し、縦方向に長く伸びたかと思えば、横方向に長く伸びて縦向きは潰れ、そうかと思えば、また綺麗な四極を区切り出したりする脈動から、経験的で感覚的に定まった意味分節システムが束の間、確立する

この極めてシンプルな分離と結合を分離するでもなく結合するでもない振動こそが、人類が生きるところ、至る所にみられるはずなのである。

経験的で感覚的な区別を概念の道具として

ちなみに神話について、レヴィ=ストロース氏は『神話論理』の第一巻の冒頭で、次のように書かれている。

生のものと火を通したもの新鮮なものと腐ったもの湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別(注:明確に定義できる経験的区別)が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにして行われるかを示すのが本書の目的である。」

『神話論理I 生のものと火を通したもの』p.5

今回の月と太陽の結婚の神話は、「明確に定義できる経験的区別」である。

二人の人間が夫婦であること。
そして家族内に調和があり、また不和もあること。

そうした”経験的区別”の”つかずはなれず”の微妙な振動感を「概念の道具」として、この世界が、この世界ではない世界から区切り出される天地の開闢を、言語化してみたというのがこの神話なのである。

言語で思考し、コミュニケーションを試みるのであれば、私たちは何かを言わざるを得ない。

えいや、で、とりあえず、どれか一つのコトバを、編み目のひとつの結び目から引っ張り上げてきて、音声の時空に、文字の時空に、置かざるを得ない。「夫」でも「妻」でも、「私」でも、いずれの場合でも同じことである。

この、特に理由もなく(理由というのは、その選ばれた言葉に、後からくっつけた別の言葉である)ひとつだけ引っ張り出された言葉を、それ自体として閉じた輪郭をもって固まった何かだとみるのではなく(文字、活字は、この輪郭があるかのような見かけを固めてしまう傾向にある)、あくまでも網の目の一点として、”全て”とずるずる繋がった状態のままでみる…。いや、そうならば、点という言い方も固すぎる。点と線、ノードとエッジの分別は、外から持ち込まれた別の分節済みの二項である。そこに還元=換言することは、いまここでなすべきことではない。

網の結び目の比喩でも、かっちりと固まりすぎている。
もっと、こう、粘菌のような感じ、納豆の糸を引っ張っているような感じ、として幻視してみようではないか。

表層的に分別処理が完全に終了した後の断片のようなものとして、私たちの感覚に訪れる、文字だったり、音声だったりする言葉。

それらをひとつ受け取った瞬間に、この納豆の糸の全体のなかに飛び込む。そしてあまりにも粘っこくて泳ぐにも泳げない重たさのようなことを身体感覚として感じたうえで、息継ぎをするように、感覚の表層の「ひとつ」の言葉に焦点を合わせて浮上する

+ 

分節と無分節とが分節されるでもなく分節されないでもない”というのは、こういうことである。

いまこそ神話論理

私たちの日常の言語は、大抵の場合、ものごとの分別があらかじめ切り分け済みで、切り分けられたあれこれの輪郭が固まっているということにして、そこから線形に伸びていくようになっている

Δ1はΔ2であり、Δ2はΔ3であり、Δ3は実はΔ4で、だからΔ4はΔ5である。

このような具合に、切り分け済みのΔたちを集めては、一列にならべて、置き換えていく。そういうことをするのが言語的な思考であると信じられている。

もちろん、これはこれで、立派な言語的思考であることに間違いはない。

しかし、言語は「これだけ」ではない。

Δたちは、あらかじめ「ある」ような顔をしているが、
はたしていったい、どこからやってきたのだろう?

このようなことを問い、この問いに答えることができるのもまた、言葉である。

いま、「Δ」というとあいまいな感じがするかもしれないが、これを例えば「」という言葉に置き換えてみると、どうだろうか。

「私」は、あらかじめ「いる」ような顔をしているが、はたしていったい、どこからやってきたのだろう?

こういう問いを問わざるを得なくなったときに「Δ1はΔ2であり、Δ2はΔ3であり、Δ3は実はΔ4で、だからΔ4はΔ5である」式の言葉では、どうにも応答できないような感覚を覚える場合もある。

「私」は、「Δ2」である。
「私」は、「Δ3」である。
「私」は、「Δ4」である。
・・「私」は・・・?結局、どのΔx???

どこまで言い換えても、「私」とぴったり重なるような「Δx」が見つからない。

そういう場合、焦ることなく、まずやってみることは、「Δ私」を「Δx」に置き換えようとしている、というこの操作の方法それ自体をいったん止めてみるとよい。

・・・

そんなことをしたら、言葉で考えられなくなるじゃないか・・

と思われるかもしれないが、繰り返すように、言葉で思考するとは、Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δと並べていく形に限られるものではない。

言葉を、

β
β * β
β

このような形で動かしてみることもできるのだ
その雛形になるのが神話の論理である。

今日の私たちが利用可能な言語の並べ方の雛形はどこからやってくるのか

そうはいっても、今日の私たちの言葉は、そのほとんどがΔ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ式のリニア配列モードに巻き込まれており、β脈動をかすかに息づかせたり、まばたきさせたりするようなことができる場所は、コミュニケーションの表層にはほとんど残されていないように見える。

  1. 少数から多数へ、一歩通行で、大量に複製された同じ情報を、時間的に同期を取って(同時中継)配信するマスメディア

  2. 多数の個同士の間で、個々が作り出したり、引っ張って来た情報を、直接、双方向でぶつけ合うSNSのようなインターネットメディア

今日の私たちが利用可能な言語の並べ方の雛形は、このような二つの異なったモードのメディアが組み合わさったところからやってくる。

例えば今日でも、SNSのようなインターネットメディアの中で「個」が、かつてのマスメディアのようなことを真似て、一時に同じ情報を大量に複製して多数に拡散するという、「バズり」を善として情報生産と頒布に精力を注いでいる。これは現時点でインターネットメディアで情報を作ったり、送出したり、受信したりする私たちの一定の割合が、おそらく2020年代において三十歳代くらいの人々の多くが、幼少期にマスメディアのもとで、大量複製リアルタイム同期モデル・タイプの主体感の枠を固められているためであろう。広告による収益化のモデルがそうなっているから、とも考えられる。

マスメディア式量産タイプの主体たちにとって「いっぺんに、みんなに、知ってもらえる」ということは、何やらこの上ない善のように感じられ、「みんな」がそれをめざすべき至高の価値のように思われているらしい

これは、Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ の置き換えの連鎖を、「テレビ」でやっているように、「みんな」がやっているようにトレースしておけばとりあえずOK、という感じをもたらす。

+ +

一方で、物心ついた時にはスマホがあって、インターネットがあって、SNSがあった世代にとっては、このΔ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-の経験はどのような感触をもっているのだろうか。

インターネットメディアでは、なんだかよくわからない恐ろしさがあるけれども、雑踏の道を歩いていれば、何を考えているわからないいろいろな人が動き回っている程リスクのもとで、誰もが思うがままに「これぞ」と感じるありとあらゆる情報を、求めたり、自ら発したり、ごく限られた仲間とともに共有して盛り上がったりしている。もちろん、この世代の人々の親たちは現役のマスメディア世代であり、つまり量産方大量複製大好き人間であるわけで、その子どもたちも親の価値観を少なからず浴びせられてはいるであろうが、しかし、「みんなと同じであること」「みんなが知ってる、テレビに出てた人!」「みんな、みんな、みんな」というところに、親世代たちほどの輝かしい何かを感じなくなっている、ということも、ある。

ここに「物事の価値とは、こうでなければならない」というこだわりが、ごく少数の量産型のパターンから選ばなければならないものではなくなる、という意味での自由がある。

つまりΔ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δが複線化、いや多線化、いくらでも増えていく、という感じになる。

Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ
Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ
Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ
Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ
Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ



みんなそれぞれ、個々、違った価値へのこだわりがあるというものだ、という経験から転じて、「私だけ」が愛して止まないこの「価値あるX」もまた、他の誰かにとってはとくに興味を惹くものでもなく、逆に、他の誰かが全人格をかけてその価値を奉っている何かについて「私」はまったくなんの興味も持てない、ということもある、ということにふと気づく。
価値の有/無が逆転していくのである。

Δx  / 非-Δx
||     ||
価値がある / 価値がない

この「価値がある / 価値がない」の二項対立がくるくると回転していくのである。そうすることで「ものすごく価値があるのだけれども、人によってはこの価値はわからない(わからなくていい)」「価値は、それ自体として普遍的に”ある”ものではなくて、個々の”わたし”たちとの関係で、価値があったり、なかったりする」という、それ自体としての価値なるものはあるでもなくないでもなく、という価値の即自的有無が不可得の状態を当然のこととして積極的に引き受ける感覚が育つことだろう

ここに複数の Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δの線を、並べて、撚り合わせ、編んでいく、という動きがある。その編み方にはいろいろなパターンがあり得るが、特に堅固でかつしなやかな編み方が、二重の四項関係、β四項の分離と結合の脈動に媒介されたΔ四つの関係ということになろうか

かのフェリックス・ガタリがとてもいいことを書いているので参照しておこう。

「都市を、あらたな価値の世界に引き寄せられていくさらなる脱領土化に向かわなくてはならない[…]。差別や分離に向かわない主観性、[…]ひとえに利潤のみに方向付けられた資本主義的価値化のヘゲモニーから解放された新しい主観性の生産をめざすということである。ただし、このことは、市場システムによる調整をすべて放棄しなくてはならないということを意味するものではない。」

ガタリ『エコゾフィーとは何か』p.38

「価値の世界(価値の宇宙)」と、「領土」という二つの方向性のあわいの領域にゆらぐのが主体感、すなわち私が私であるという感じ、であるというのがガタリの論じるところである。

”価値の宇宙”というのは、要するに、「価値がある/ない」の二項対立に連なる、あれこれの二項対立である。「差別や分離」つまり二項対立の固定に向かうのではなく、「あらたな価値の世界」に向けた「脱領土化」に向かう。

ここでは価値の有/無の両極に連なるΔの線形配列たちをねじり、編み込みながらもほぐすような、分けるでもなく結合するでもない、ちょうど神話的な結婚のような動きが重要になるだろう。

こういう世の中の変化、世代によるメディア経験の違いによる価値経験の違いようなことも、意味分節の八項関係のモデルで考えると、案外見通しが効くようになる

「資本主義によって支配された集合的主観性は、富裕/貧困、自立/保護、統合/崩壊といった二極構造をもった価値の磁場に組み込まれている。しかし、このような覇権的な価値化システムしかありえないのだろうか[…]別の価値化の様式を解き放つことはできないのだろうか?

ガタリ『エコゾフィーとは何か』p.39

いま仮に、下の図の◯を、唯一無二の予め定まった価値であるとしよう。それがどこで定められているかは問わないが、概ねマスメディアによって大量複製され定常的に”マス”に注ぎ込まれている限りで、その価値は価値が「ある」の側に(ないの側ではなく)分別されているものである。

◯ / ●
     …
    ●

ここで白丸◯が「わたし」にとっての譲れない価値であるのに対して、黒丸●が、他の人々が奉じる価値たちであるとしよう。「わたし」は他者たちの黒丸の価値たちのことを価値があると思って居らず、また他者たちも「わたし」の白丸には価値がないと思っている、としよう。「わたし」は、自/他の境界を際立たせ、わたしにとっての価値を守り、ことによってはわたしの価値を害しようとする他者たちにとって価値あるものを、わたしは排撃し、貶めようともする。

これに対して、下記のように◯と●の”あいだ”の見えない分離と結合をすかしてみるという感受性もあり得る。

◯=β=●
 ||        ||
β     β
 ||        ||
◯=β=◯

「=β=」と表記したところは、自他の価値が別々に分かれ、しばしば対立しながらも、しかしその位置、価値が「ある」「ない」の両極の間を自在に行ったり来たりできることを表している。

ここに至ると、自分にとっての価値が他者にとっては無価値であり、他者にとっての価値は自分にとって無価値であるが、しかしどちらも否定されるべきではない、ということを知る。つまり、真逆に対立する二つの「価値があるもの」がある、という考えである。

卵料理は固茹でのゆで卵に限るというにもまた至高の価値であるし、卵は生卵に限る、というのもまた至高の価値であるし、固茹でのゆで卵なんて食えたものかという無価値もまた最高に尊重されるべき無価値であり、生卵なんて食えたもんかという無価値もまた最高に尊重されるべきである。

ここまでくると、白/黒、価値の有/無といった分別は、分けてもよいし分けなくても良い、という境地に至る。

そして、分けなくて良いからこそ、あえていろいろ、この生きている身体でもって、つどつど個々に、分け直すことを試みる、ということが肯定されるようになる

この、経験的感覚的に対立する二極のどちらか「不可得」な事柄をくっつけたり引き離したりするという過酷な思考の練習をする上で、神話はとてもよい課題になる。



つづく


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