見出し画像

素朴実在論を即「空」化する -井筒俊彦「事事無礙・理理無礙」を読む(2)

本記事は有料に設定していますが、最後まで無料で読めます。

井筒俊彦氏の論考「事事無礙・理理無礙」を読む。

「事事無礙・理理無礙」は井筒俊彦氏の著書『コスモスとアンチコスモス』で読むことができます。

前回の記事はこちら↓ですが、前回を読んでいなくても今回だけでお楽しみいただけます。

事事無礙、理理無礙というのは、事と事が無礙、理と理が無礙であると言うこと。つまりある一つの事と他の事、ある理と他の理とがつながっており、二つの事と事の間に両者を隔てる境界のようなものがない二者が二つでありながら一つである、ということである。

二つが一つにつながっている話、ということになるのだけれども、では事とはどういうことか、理とはどういうことか理と事、二つのキータームを釣針のようなものにして、そこに他の言葉たちの網の目を結び直していくと、さらに深い話へと入り込んでいくことができる

前回の記事でご紹介したように、「事」とは「事物相互間を分別する存在論的境界線」によって「互いに区別された」ものたちのことである(井筒俊彦著「事事無礙・理理無礙」,全集第九巻,p.17)。

私たちが日常生活の中で関わるさまざまな「事」たちは、「相互間を分別する」「境界線」によって「区別された」ものたちである。

この「区別された」ということを「区別する」動きの相で読むのか、それともあらかじめ別々のものが並んでいるという静止の相で捉えるのか、どちらをとるのかによって二つが一つにつながる、ということの見え方が大きく変わってくる。

私たちが日常的に”何かと何かが別々である”と言う時には、後者の静止の相で見ているフシがある。井筒氏はそれそ「素朴実在論」と呼ぶ。

「我々の日常的意識は、元来、素朴実在論的です。目の前に見えているすべての事物が、それぞれ、そのまま、そこに、そのもの自体として実在していると思っている。[…]AはAとして、自己同一的に自立する実体だ、ということです。」

(井筒俊彦著「事事無礙・理理無礙」,全集第九巻,p.24)

犬は犬であるし、猫は猫。ニワトリはニワトリであるし、卵は卵。犬や猫や鶏や卵が「自己同一的に自立する実体」だと思われているのが、私たちの日常の意識という仕掛けである。そこでは「区別」はしたりしなかったり、区別する動きの動かしたり止めたりを選べるような代物ではなく、あらかじめ別々の実態として存在しているものたちを二次的に並べた時の隙間のような取るに足らないことと思われることになる。最初から違うのだから、そこに区別が「ある(止まって、固まってある)」のは当然だ、ということになる。

「事」的世界存在とは[…]無数のものが、それぞれ(相対的に)他から独立し[…]自立している分別の世界。様々に異なる事物が、緊密な相互連関性において日常的存在秩序をなしている。この存在秩序の成立根拠は、それを構成しているものが、それぞれ自立しているという事です。AとBとが、互いに相違して、AはどこまでもAであり、BはどこまでもBであってこそ、AとBの結びつき、存在秩序というものが考えられるのですから。」

(井筒俊彦著「事事無礙・理理無礙」,全集第九巻,p.23)

Aは最初から最後までどこまでもA。

Bもまた最初から最後までどこまでもB。

事は動いている

ところがこれに対して、例えば仏教の思想では、区別をダイナミックな動き、”区別すること=分別する動き”とみなす

私たちの眼に映り、音に聞こえるあれこれの"事"の間のちがいというものは「妄想分別」された後の産物ということになる。

私たちの日常意識は、自分で作り出したこの妄想分別の産物に執着し、様々な苦痛に苛まれることになる。「本当は実在しない「自性」を実在すると思い込み、それを中核として自己同一的な実体としてのものを立てそれに引っかかって身動きが取れない」事態に陥っている(井筒俊彦著「事事無礙・理理無礙」,全集第九巻,p.26)。

しかし、あらゆる事物と事物、あれとこれ、生と死、何であれ、互いに区別される二つの事柄の間の差異というものは、私たち人間の心-意識が切り分ける動きを演じところに、後から現象し、出現したものである。

区別をする、分別をつける、分節する、といった分ける動きの動きを分別された事物たちの向こうに見通すことができるようになるならば、妄想分別の産物へ執着することに起因する苦しみから救われる、と言うことになる。

ここに登場するのが「無」あるいは「空」である。

井筒氏は次のように書いている。

「ものそれぞれの自立性。AをAたらしめ、AをBから区別し、Bとは相違する何かであらしめる存在論的原理を、仏教の術語では「自性じしょう」と申します。「空」の導入は、まさに存在のこの「自性」的構造の中核を破壊します。」

(井筒俊彦著「事事無礙・理理無礙」,全集第九巻,p.23)

自性の構造の中核を破壊する。つまりAやBが、最初から最後まで自ずからAだったりBだったりする、という発想に対していやいや、AがAなのはAを非Aから区別分別分節する動きが動いたからでしょう”と言うのである。

区別が「する動き」なのだという場合、動くというからには動かないこともあるはずだし、動き始めたり動きが止まりかけたりすることもあるはずである。さらに動き方には緩急があり、またリズミカルな動きもあればランダムな動きもあるのではないか。

ここで「区別する」動きが走り始める「前」のところに、区別以前を考えられることになる。「無」や「空」、そして「事に対する」というのは他でもない、この区別以前を仮に呼ぶ言葉なのである。

重要な所なので繰り返しておこう。事事無礙、理理無礙というときの「理」とは、区別する動きが動きつつあること、区別がないまま静まりかえっているでもなく、互いに固定的に区画された事物たちの間の差異があるでもない、まさに分化しようとしつつあることである

この井筒氏の論考「事事無礙・理理無礙」では「無」や「空」や「理」ということをどのように言語化できるのか、その可能性が問われるのである。

理事無礙 -二重の見

ここで井筒氏は重要なことを書いている。

「空」ないし「無」すなわち「事物間の存在論的無差別性」を知ったとしても、「そのままそこに坐りこんでしまわずに、また元に差別の世界に戻ってくる」ことが非常に重要であるという(井筒俊彦著「事事無礙・理理無礙」,p.18)。

一切の事物はどれもみな「空」なのだ!

という言いつつも、その舌の根も乾かぬうちどころか、まったく同時に「空こそがあれこれ一切の事物として分かれて現象しているのだ」と言う。

区別されている世界はまったく同時に区別されて”いない”世界であり、そして区別されていない世界はまったく同時に区別されている世界なのだとみる。これがここでいう「二重の見」である。二重の見は、「事」を「空」として見、「空」を「事」として見る。こうした「事」と無礙になった空のことを特に「理」と仮名するのである。

「一切は空である」と言って終わるのではなく、ようやく辿り着いた「空」からひるがえって、また区別と分別の世界に帰ってくる

区別以前の無分別の中に居ながら、まったく同時に、同じところに、いくつもの事物たちが互いに差異化しつつ分化していく発生のプロセスを「見」る。この二重の「見」こそが「実在の真相」に迫る「理事無礙(事理無礙)」の叡智と言うことになる。

ここでおもしろいことに「空」こそが事物が「有」であることの根源になる。こうなると「空」は「有」と対立する何かではなくなる

すなわち「空」は、「有」と「空(無)」二項対立関係の片方の項であることをやめ有と空(無)の区別が発生する以前を呼ぶ仮名となる

この辺りの話はまさに大乗仏教のエッセンスに関わるところで、かの弘法大師空海さんも次のように書いておられる。

詳しくは空海著『秘蔵宝鑰』などをご参照ください。

そしてこの、有と空無の区別さえもがそこから分化発生してくる深層の「無」こそが、生者と死者を分けつつも繋ぎ、相互に転換させたりする技術としての「祝祭」の起源にあると論じるのが安藤礼二氏の『列島祝祭論である。

この「二重の見」であるが、事物の間の区別を「外してみる」などと言うことは「とても普通の人にできるようなことではありません」と井筒氏は書いている(井筒俊彦著「事事無礙・理理無礙」,全集第九巻,p.12)。

分けつ一つに結び、一つのまま分ける。そうしたことが「見」えるのは「透徹しきった三昧意識」においてであり「普通の人間の表層意識的事態では全然ない」のである(井筒俊彦著「事事無礙・理理無礙」,全集第九巻,p.21)。

ここで二重の見のようなことを行うためには、即ち「存在を「空」的に見るためには」「我々の日常的意識」の「分別心」を「空化」する必要がある。そしてこの「空」化した人の意識を「無礙心」と呼ぶ(井筒俊彦著「事事無礙・理理無礙」,全集第九巻,p.26)。

* *

それにしても一体全体、私たちの日常を苛む妄想分別、無礙ところか至る所で迷路の壁や断崖絶壁の前に立ち止まることを強制する分別の世界というのはどこから発生したのだろうか。

元はと言えば「空」だったものを、分別して、その産物である項たちに執着しているのは私たち自身の「心(分別心、妄念)」である。

この分別心にして妄念、すなわち「存在分別的意識」にして「事物の「自性」妄想」は、一体どこから発生してくるのだろうか。その答えは井筒氏によれば他でもない「言語」である。

「一般に東洋哲学には、言語にたいする根深い不信がある[…]。華厳も、ナーガルジュナ(龍樹)以来の伝統に従って、言語を「妄念」の源泉と捉えます。人間の意識の働きは、コトバによって根源的に支配されている。コトバというより、もっと正確には「意味」の支配です。」

(井筒俊彦著「事事無礙・理理無礙」,全集第九巻,p.27)

言語というか「意味」こそが妄念の源泉。ここからいよいよ話はおもしろくなってくる。ちなみにここで「言葉」が「コトバ」とカタカナにされている。

井筒氏があえてカタカナで「コトバ」と書かれているのは、おそらくここでいう人間の意識を根源から支配している意味分節の動きということを指し示すためであろうと解釈してみよう。

私たちが通常「言葉」という時の言葉は、意味分節の動きがさもすでに完了済み、終わってしまっているかのような、動いていませんよ、という顔をしている。しかし実際には、至る所で常に区別分別分節する動きが動き続けているからこそ「意味する」ということが可能になっているのであるけれども、けれどもけれども日常の表層意識を支える分別心の言葉にあっては、その動きは、いつもいつも繰り返し同じような動き方を反復するという体裁を取っていて、動きのパターンの反復的同一性の前に、「いつも同じ」という自己同一的な感じを醸し出しているのである。

この自己同一性の幻が、私たちの心を「無礙」とは程遠い区別のための壁や崖が縦横に刻まれたフィールドに圧縮変換している。

言語こそが”妄念”の源泉であり、同時にまた言語こそが表層意識から無礙への通路でもあり

なるほど、言語が妄想分別を生み出しているのか。それなら妄念への執着を逃れるために、言葉を捨ててしまおう!と思いたくもなる所であるが、はやまってはいけない。

ここが大乗仏教に限らず、井筒氏が「東洋哲学」として浮かび上がらせる思考様式のおもしろい所である。

言語は、妄想分別の源泉であると同時にまったくそのままで、生身の生きた人間が生きたまま、日常の意識から出発して分節以前の「無礙」の領域へ”触れる”ための通路にもなる

分節以前・無分節から分節が発生する場であると同時に、分節の世界の中から無分節の方を覗き込むための窓でもあるような「言語」の場。それを呼び表す大乗仏教の言葉が「アラヤ識」である。無分節から分節へ向かう動きが蠢くとと同時に、分節から無分節に向かう動きも蠢く、そうした双面性を持つアラヤ織のことを”真妄和合識”であると意識の形而上学で井筒氏は書いている。

次回はこのアラヤ織について、詳しく読んでみます。

きはこちら↑

このnoteは有料に設定していますが、全文無料で公開しています。
ぜひお気軽にサポートを頂ければ幸いです。
m(_ _)m

関連note


ここから先は

0字

¥ 220

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 いただいたサポートは、次なる読書のため、文献の購入にあてさせていただきます。