意味分節理論とは(3) 「始まり」への問いに答える思考と意味分節理論 -中沢新一著『アースダイバー神社編』を読む
「人間」はどこから来て、どこへ行くのか。
「私」はどこから来て、どこへ行くのか。
「宇宙」はどこから来て、どこへ行くのか。
このような、俗に「深い」と言われるような問いは、しばしば起源をたずねようとするものである。起源、すなわち、始まりである。
こうした疑問に答えようとすれば、現代の私たちなら科学的な知見と手法を総動員することになる。人間が人間ではない猿の仲間から区別できるようになるまでの経緯を太古の化石や遺伝情報から推定したり、「私」の始まりを卵細胞の分化に求めたり、宇宙の始まりをエレガントな物理学の理論で記述することもできる。
一方、まだ今日のようなサイエンスが生まれる以前から、人類は諸々の「始まり」について問い、答えようとしてきた。
食べられるものの始まり(食べて良いものと食べてはいけないものの区別)、男女の区別の始まり、生死の区別の始まり(死の起源)。これらが「既に区別されて始まっていること」の不思議さは太古から人類をとらえてやまなかったものと思われる。この区別の「始まり」について言語的に思考し語る時に、大昔の人々が頼りにしたのが「神話的思考」である。
神話的思考とはどういう思考なのだろうか?
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神話はたいがい次のような筋になる。
このように神話では、2)の段階であるAが非Aから分かれた経緯が語られる。これが即ち、あるAの起源(AがA以外のものではなくなった経緯)を説明することになる。神話的思考はモノゴトの「始まり」を考えることに適している。
この説明は、自然科学的に因果関係を説くものになるとは限らず、しばしば精霊や神の怒りや過剰な善意や勘違いによって、もともと丸く収まっていたものが壊れてしまったという筋書きになる。
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次に、3)、4)で二つに分かれた世界を一つに結び直そうとする「英雄」が登場するのだけれども、この英雄こそが対立関係にある二項を分けつつ繋ぎ、付かず離れずの関係を保とうとする「第三項」である。「英雄」はAと非A、プラスとマイナス、空と水、生と死、相対立する二つの世界の両方と結びつく「両義的」な存在でもある。
神話的思考はこの第三項・両義的媒介項に重きを置く。
神話的思考は二元論ではなく「三元論」で動いている。
この話については下記の記事にも書いていますので、参考になさってください。
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この三元論で思考できることこそが、人間と動物の違いを際立たせる。
ものごとを区別し二元論的環-世界を構成することは、動物というか、生命システム全般が「やっていること」「できる」ことである。
何より生命は自らを「死」と区別することによって「生」である。
生命システムは、自分が食べられるものと食べられないものを区別し、免疫によって自他を区別し、感覚器官からの情報によって敵味方を区別したり交配する相手を区別したりしながら生き延びようとする。これらはいずれも様々な”二つの事柄”を区別する働きである。この働きのアルゴリズムを「二元論」と呼ぶこともできるだろう。
そして人間もまた輝かしい理性と知性を誇るホモ・サピエンスであると同時に、生命体、生物であることに変わりはなく、あくまでも他の生命体、動物たちと同じように二元論で動く身体を持っている。
しかし、ここで人間には余剰がある。
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人間は、あたりに転がっている石を”色”や”形”といった感覚の印象に基づいて”分類する”ようなことができる。そしてこの”互いに他と区別できる形を持つ"石が最初の道具になったのである。
人間は身体に接続され身体を拡張する「道具」によって動物とは異なるものになるが、道具は身体の器官とは異なり、必要に応じて付け替えたり交換したり切り替えたりすることができる。打つ方の石と打たれる方の石を区別しつつ、ある一つの石をある時は打たれるものとし、またある時は打つものとする。打製石器にせよ磨製石器にせよ、石は「二つ」が存在しなければ打ったり摩ったりすることはできない。
道具として作られている時には、ある石は打たれたり摩られたりする側であり、道具として完成し実用に供される時には、ある石は打ち摩る側になる。
反転できる知性・対立するものを同じと置ける知性
道具は、打たれることと打つこと、受動との能動、マイナスとプラス、同じ一つの石について二つの役割を反転させることができる知性によって作られる。
ここに働いているのは一を二にする知性であり、一が一でありながらそのまま二であるという曖昧な中間状態を思考することができる知性である。
AはA、BはB、だけではなく、AはAだけれども同時にBでもある。AはAにもBにも置き換えられる、という知性。人類史におけるこうした知性の発生を「象徴革命」と呼ぶ。
象徴というのは簡単に言えば、AでBを象徴すること、ある一つのもので、別のものを象徴するということである。これはつまり、AとB、異なる二つのものを、別々に異なりにながらも「同じ」ものとして結びつけることである。
象徴は上に書いた二つの石の例そのもののように、一と二を、一つにすることである。
この象徴を発生させる能力によって、人類は他の動物に見られないほどの広大な「意味の世界(象徴的記号の体系としての人工空間)」を作り出すようになった。空も海も山も平地も、他の動物と共有された領野であると同時に、人間にとってのバーチャルな意味空間を覆い被せられたのである。
ここに広大な「言語」という意味分節システムが発生する。
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中沢新一氏は『アースダイバー神社編』の冒頭で、象徴革命とその結果について次のように書かれている。
「象徴」は「現実をただ映し出す」のではない。
象徴は、あるAの意味はBでもあり、Cでもあり、Dでもあり、Eでもあり…、という具合に、次から次へとAに異なるものたちを繋ぎ合わせていく。
こうしてあるAは、単に現実にある何らかのAであることを超えて、意味的に増殖し、膨張していく。
意味の増殖
人間の言語の意味分節システムは、煎じ詰めると下のような四つの項の組み合わせを結び合わせたり、解いたりすることによって発生し構造化する。
○-○
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○-○
この四項関係としての意味分節システムの発生については、下記の二つの記事に詳しく書いているので参考にどうぞ。
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○-○
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○-○
『アースダイバー神社編』で中沢氏が紹介する「クナピピ神話」のような極めて古層の神話的思考では、しばしばこの4項関係の発生が主題となる。
先程の神話の筋書きで言えば、神話では、
○-○
という二項の対立関係の始まりが大きなテーマになる。
人間と動物、人間と神、生と死、男と女、食べられるものと食べられないもの、太陽と月、川上と川下、海と陸など、何と何でも良い。
人類がその身体でもって区別し対置することができる二項の対立の「起源」を語ることこそが古から神話の主題になってきた。
神話の語りはまず、何らかの二項対立関係が未だ区切られていないところから始まる。動物が人間のように喋っていた頃とか、人間が神の世界に住んでいた頃、といった話である。ここに何かの大事件が起きて世界が二つに別れてしまう。そこに「両義的媒介項=第三項」とよばれる存在が登場し、二つに別れた世界の間に通路を開き、つながりを取り戻す。このつながりは二項のあいだに付かず離れず、二にして一、一にして二の関係を保とうとする。そこにはあくまでも区別がある。区別が全くなくなる、ということはない。区別がありながら、しかし一つに連なっている、ということを神話的思考は盛んに語ろうとする。
これはまさに、人間にとっての言語的意味分節システムを構成する最小のモジュールが「○-○」という二項の付かず離れずの関係であることを告白しているようなものである。
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こうして二項対立関係を次々に重ねていくことで、こうしてあるAという事柄は、単に客観的なAであることを超えて、意味的に増殖し、膨張していく。
そうして五官で感じることができる平坦な”現実”の世界に、意味が多重に折り重なり蓄積されたところで、まず「宗教」がはじまり、「農業革命」に至ると、中沢氏は書く。
この一節を読み解くキーワードは「開放系」である。
世界は増殖するか増殖しないか、この区別が問題である。
増殖しない(増殖してもすぐに減少する)のが「閉鎖系」で、青天井に増殖するのが「開放系」である。
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狩猟採集民にとっては世界は閉鎖系として経験されていたと推定される。
石は砕いて仕舞えば元通りには結合しないし、ある一本の木は切ってしまえば同じ木はもう生えてこないし、ある動物を狩ってしまえば同じ動物がまたひょっこり帰ってくることはない。自然の秩序たる資源物は物理法則に従い減少していく方向にある。特に旧石器時代は気候変動も激しく、マンモスがそうであるように、現生人類が移住した先では人為か偶然かわからないが、次々と大型動物が絶滅していったのである。
何とか生命が生息していれば、何かのはずみで長い時間をかけて、また大石が転がってきたり、木が生えたり、動物がやってきたりすることもあるが、あまり楽観的にはなれないところだろう。
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しかし、象徴の領域は別である。例えば動物を狩って肉を食べてしまい、その骨だけが残ったとしても、この骨を単なる食品廃棄物として扱うのではなく、様々な崇高な意味を付与することもできる。客観的には食べ残しの獲物の骨が、意味的には山の精霊の乗り物になったりするのである。
そしてある時、ご先祖たちはこの増殖が意味の領域だけでなく、特定の穀物の群落の大量発生という形で現実にもなることに気づいたわけである。ここに農業革命が始まる。
象徴の増殖の仕方を制御する=コード化する<社会>
ところで、私たちは続々と自在に発生する二項対立関係(○-○)同士の重ね合わせを、いつまでも発生の瞬間のままに放置しておくことはできない。
例えば、動物と人間、捕食者と獲物、生者と死者、といった二項対立関係を未分から分化しつつある状態にして「ライオンは我が部族のご先祖である」と言う象徴思考を行うことはできる。これが神話である。しかし、実際にサバンナで飢えたライオンが唸りを上げているところで「おお!ご先祖様!ハグさせてください」などとやっていたのでは部族は滅亡してしまうだろう。
区別を自在に重ね合わせる私たちは神話を語ることができるが、それを許されるのは特別な時間と場所に限られる、という事例もしばしば見られるようである。
象徴の増殖はあるAと外の非Aを二つのまま一つに、区別しながらも区別しない、中間的な未分の状態にするが、この中間状態をいつまでもそのままにしておくわけには行かない。
危険な捕食者でもありかつご先祖でもあるという曖昧で中間的な存在(二項対立関係に対する第三項)は常識の世界からは排除される。
そうして私たちの日常を支える言語は、未分のまま分化しつつある混沌の中間状態があったことなどケロッと忘れて、あたかもはじめから物事の間には厳然と区別と秩序があったかのように、客観的な事実を報告するようなことばかりを語るようになる。
これはおそらく「流動的知性」が発生し、象徴言語が発生した当時からそうだったようである。
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意味分節の基本モジュールである二項対立関係を二つ重ね合わせた四項関係。この組み合わせの繋がりを、一方ではガチガチに固定し絶対に動かせないようにすることもできれば、他方では自在に切り離したり繋いだり向きを変えたりすることを許すこともできる。
前者は「常識」の世界のリアリティを強化し、未知の人間同士の間に予測可能性の高い社会を構築することを可能にする一方で、常に新たに生まれる人を出来合いの序列のどこかに閉じ込めることもする。
後者は世界の見え方を一変させる創造的な認識をもたらすことにつながる一方で、飢えたライオンをハグしに行くレベルで生死の区別さえも見えなくしてしまうこともある。
前者と後者、それぞれにメリットとデメリットがあり、これこそまさに、どちらか一方に偏るのではなく、双方バランスよく、中間を行くようなやり方が大切なのである。
中間的な両義的媒介項が存在しないことにしてやり過ごそうとする二元論と、中間的な両義的媒介項に自在な変身を許す三元論は、人間にとっては両方とも必要なことであり、どちらか一方では済まないのである。
いわば二元論が即、三元論によって支えられており、そしてまた三元論は二元論あってこその三元論なのである。
これぞ意味分節理論である。
意味分節理論のおもしろいところは、言葉の"意味"を織りなす分節構造を、即ちそれぞれの言葉で呼ばれる事柄の間を区別する無数の境界線を、もうそれ以上、決して動いたり変化したりすることのない既成の完成品と考えるのではなく、分ける動き、線を引く動き、どこへ向かうのか事前にプログラムされてはいない未決定で未完の動きとして考えるところにある。
動きながらも止まっているかのような相を呈し、がっちり固まっていながらも動きつつある。
静か動か、どちらかを選べ!
というのではなく、静も大事で動も大事で、しかも静は妄想であるが動もまた夢である。こういうところで言葉が編み出されるところに立ち合おうというのが意味分節理論なのである。
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なおタイトルの画像は子供が描いた「手形にぐるぐる」へ、私が複数の「顔」を書き加えたコラボ作品である。これは大きく風呂敷を広げるのであれば、一者からの多の分化を象徴しているとも言えるし、”単に”面白がって手を動かしているのだとも言える。しかしこの”単に”が良い。
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