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なぜ、「なぜ?」と問いたくなってしまうのか? ―読書メモ 河野勝彦著『実在論の新展開』

しばらく前から少しづつ、河野勝彦氏による『実在論の新展開』を読んでいる。これがとてもおもしろい。

人間の思考は、自分が直面した眼の前の出来事に対して「なぜ?」と問うことから始まる。

なぜ?に答える

この「なぜ」に答えるために、私たちはどういうわけだが「結果」と「原因」を区別して、後者が前者を生み出した、引き起こした、決定した、と考えようとする。

近代現代の科学的思考はもちろん、それ以前からある哲学的思考宗教的思考、更には太古から変容しつつ伝えられてきた神話的思考からしてすでに、この「原因」対「結果」のパターンで動いている。

神話的思考では、例えば「人はなぜ死ぬのか」といった切実な「なぜ」に答えようとして、太陽と月が接近しすぎてしまったからだとか、太陽と月が遠ざかりすぎてしまったからだとか、そういった形で「理由」を考える。「かぐや姫」の元型の神話もこのパターンである。

いずれにしても「なぜ」自分たちの生きる世界がこのようになっているのかという様々な問いを、「原因」と「結果」の対立関係に基づいて考えようとする癖を人類は持っているらしい。この癖を、喩えるなら人間という生き物の神経系のハードウエアと、言語というソフトウエアからなるハイブリッドシステムの動作特性といえるものかもしれない。

原因 対 結果、A 対 非A

原因と結果の対立関係は、素朴な経験的な事実の間の関係に託されたり、より抽象的な概念同士の対立関係に託されたりしてきた。例えば、「主観」と「客観」、「人間」と「自然」、「コスモス」と「カオス」といった対立関係を考え、どちらかが他方の運命を根本的に決定したり、左右したりしている、と考える。

この人類が「理由」を考えざるを得ないということを踏まえた上で、それでは私たちは「理由」を外して、どうやって「事実」ということを理解できるのだろうか。

無理由

カンタン・メイヤスーは「無理由」であることこそが、理由がないことこそが、あらゆる事実が事実である所以と考える

あらゆる事実を、何らかの「原因」から生じて事実になったものと考えるのではなくて、端的に無理由に、たまたま偶然に、そのように存在していると考える

この偶然ということについて、河野氏は次のように書く。

メイヤスーの偶然性の主張は、ヘラクレイトスの「万物や流転する」や仏教の「諸行無常」の主張とは異なっている。(『実在論の新展開』p.48)

「万物流転」や「諸行無常」は、あらゆる事物は、いつかはわからないが、いずれ必ず滅びるように定められている、と考えるものである。

必ず滅びることが”定められて”いるということは、つまりそこに事物を支配する一貫した法則が決まっていることを認めたということになる。

「必ず滅びる」ことを以て主張されるある事物の存在の偶然性は、あくまでも「諸法則に支配される事物の偶然性」である。

これに対してメイヤスーの主張する偶然性は「絶対的な偶然性」であるという。

絶対的というのはつまり「諸事物だけでなく諸法則そのものも含めた無理由性、偶然性」ということである。

「必ず」「定められている」などと考えることで、私たちはそこに事物の運命を支配する法則の一貫性、不変性、あるいは法則の一性を推定してしまう。

しかし、法則なるものも、実は無理由にいまたまたまそうなっているだけであり、他のあり方であった可能性もあると考える。

「無理由」を考える。「無理由」で考える。これはとてもおもしろい。更に詳しく読みたいところである。

おわり

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