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大善と小善

いわゆる稲森フィロソフィーの一つだ。
この言葉を聞いて初めて連想したのは「魚を獲ってやることは簡単だ、しかし本当に必要なのは魚の獲り方を教えることだ」ということだ。

小善は大悪になり大善は非情に似たりという注釈があるが昨日まさにこれを伝えようと努力したがそれが実らず離別という結果になった。
価値観は人それぞれありそれは時として水と油になるということを改めて知った一幕であった。

前にこの世には善も悪もないと言った。
その言葉は今でも変わらない。
二元論で語ることができるのは唯一「光と闇」だけである。
そして小善は闇、大善は光と言い換えることができるとわたしは考える。
何故ならば少なからず自分の為を想ってする行動が小善であり純粋に相手の事を想ってする行動が大善であると考えているからだ。

故にわたしの昨日は大善が実を結ばなかったということになる。しかし、これは決して無駄ではない。できない方法をまた一つ見つけることができた。伝わらない相手がいるということも再確認できた。これだけでも一日を費やしたかいがあるというものだ。

最後に、わたしの芯はブレることは決して無いしわたしに命令できる者は誰もいないことをここに明言しておく。わたしを動かすことができるのは他己利益のための願いだけだ。

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