五黄の寅と千人針
令和4年(2022)は、寅年、さらに「五黄の寅」の年である。令和4年には「五黄の寅」という言葉が注目を集めると思い、千人針との関わりを紹介する。
1、五黄の寅年について
まずは、「五黄の寅」という言葉について基本的なことを押さえておく。「五黄」は九星気学の暦の一つで、九紫・八白・七赤・六白・五黄・四緑・三碧・二黒・一白と毎年順に付けられている。数字の特徴であるいわゆる魔方陣を利用した暦で、基本的には9と12の最小公倍数で、その周期と十二支の周期が一致する年が36年に一度回ってくる。九星の暦は新聞の占い欄に明治期から登場し、「五黄の寅」という言葉は一部の間では浸透していたと考えられる。例えば、山岸弥平『九星秘訣運気独判断 一名・九星奥義早学』船井弘文堂、明治35年(1902)が国会図書館で読むことができる。
五黄の寅年は、
明治十一年(1878)
大正三年(1914)
昭和25年(1950)
昭和61年(1986)
令和4年(2022)
となる。
2、寅年と毘沙門天信仰
五黄の寅年生まれが注目を集めるきっかけとなったのが、戦争との関わりであった。まず、寅年と戦争は、毘沙門天信仰と関わってくる。
宝亀元年(770)正月四日、鞍馬山の開祖鑑禎(がんてい)上人は山頂において太陽の霊気あふれる陽光の中から毘沙門天が出現された。この日時が寅の月の、寅の日の、寅の刻であった。享保19年(1734)頃刊行された「山城名所社寺物語」『山城名所寺社物語 巻之四』の「鞍馬山」には「虎は千里をはしる」の表現が現れる。
延暦十五年藤の伊勢人本尊毘沙門天にて毎年正月初のとらの日、都より参詣おびたゞし、多聞天は十種の福をあたへ給はんとの誓願なれば、福を祈る、又とらの日を縁日とする事、虎は千里をはしる商人の金銀もつて利得するをわしるといへば此儀をとりて虎の日を用るといふ此事あやまりなり持国多聞増長広目の四天四方を守護し給ふ此多聞天は子丑寅の方をつかさどり給ふ故虎に縁有事子細あり真言秘密なればあらはに語らず」宝暦七年(一七五七)
同様の伝承は、奈良県の信貴山にも伝承されている。
今から一四〇〇余年前、聖徳太子は、物部守屋を討伐せんと河内稲村城へ向かう途中、この山に至りました。太子が戦勝の祈願をするや、天空遥かに毘沙門天王が出現され、必勝の秘法を授かりました。その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻でありました。太子はその御加護で勝利し、自ら天王の御尊像を刻み伽藍を創建、信ずべし貴ぶべき山『信貴山』と名付けました。以来、信貴山の毘沙門天王は寅に縁のある神として信仰されています。
これらの縁起や上杉謙信が自らを毘沙門天の生まれ変わりとして信仰したことなどがあわさり、毘沙門天は戦の神、ひいては戦争に関わる信仰の対象となっており、毘沙門天と寅年、寅月、寅日、寅刻との関連と連想で、虎と関連づけられたと考えられる。
3、虎は千里行って千里帰る
鞍馬寺や信貴山朝護孫子寺では、張り子の虎の玩具が有名であるが、これにも戦争との関わりがあった。江戸時代から「虎は千里をはしる」という表現が使われていたことが分かるが、西南戦争が始まっていた明治十年(一八七七)の『読売新聞』の記事に戦地から早く戻って来られるようにとの願いを込めて張り子の虎を贈る風習が紹介されている。
○西国の騒動が始まッてからよく売れるのハ張子の虎にて昨今手遊(おもちや)屋(や)にも限(きれ)ものだといふから売れる子細を聞くに虎ハ千里いッて千里かへるといふところから戦地へ出張された方のお家(うち)で婆さんや御新造が何でも早く帰る様にと神棚へかざり虎へ供物を備へて祈願されるといふ其証拠ハ西の久(く)保(ぼ)辺(へん)の或る家の隠居さんの此の事を聞いて早速人力車に乗り浅草の中見世から芝神明前と諸方の手遊屋を探して歩行きどうしても無いのである画かきの家へいき無理に頼み込み待ッて居て虎を画てもらひ家へ持帰ッて拝出し供物ハ、饅頭に竹の子笹まき鮨に藪蕎麦や竹門の油揚にお酒も餅と首をふりふり息子さんの帰国を祈るといふよりハ妙なり
管見の限り「虎ハ千里いッて千里かへる」という俗信の初出である。現在では、張り子の虎は、小児の病魔を避けるためとされているが、明治十年には西南戦争と関連づけられ、無事に帰郷できるようにとの願いが込められていた。江戸時代の鞍馬山や信貴山などの毘沙門天にまつわる伝承から寅年が戦争とが結びつき、張り子の虎の人形が明治初期の西南戦争期に流行した際に「虎ハ千里いッて千里かへる」という伝承が生まれたことが分かる。
4、五黄の寅と戦争
寅年のなかでも五黄の寅年が戦争と関わってくるのは、満州事変の頃になってからである。
昭和六年(一九三一)九月十八日、中華民国の柳条湖における南満州鉄道爆破がきっかけで満州事変が勃発し、昭和七年二月十八日までの五ヶ月に渡って再び派兵されることとなる。
昭和六年(一九三一)十一月十九日付『朝日新聞』朝刊七面「弾丸除けの腹巻」に「弾丸除けには五黄寅年生れの千人の処女に手で縫はれた腹巻がよい」と五黄寅年が登場する。
【新潟電話】弾丸除けには五黄寅年生れの千人の処女に手で縫はれた腹巻がよいからと新潟市立女子工芸学校へ盛んに頼みにくるので同校では県立、市立の各女学校に応援を求め、一週間以内に同市出身兵士に七十九名全部に千人縫の腹巻を贈る事になり十八日森教諭が市役所へ送付方を申出た
管見の限り「五黄の寅年」について触れた最も古い資料である。女史工芸学校の女学生が五黄の寅年生まれであるため千人針の依頼が殺到した。
同様に昭和七年(一九三二)三月十日付『読売新聞』夕刊二面『軍国と新女性』「学窓を出る女学生座談会」で「私たち五年生は、五黄の寅年が多いといつて持ち込まれます」と前述の記事ともに、大正三年(一九一四)生まれの女性、満州事変開戦の昭和六年(一九三一)には数え年齢十八歳である。
手島 (中略)また私としてしましたことは、お隣の方の御親戚に当る方がやはり満州へいらつしやるとふうことで、一針でもいゝから千人針を縫てくれといていらしいましたから、私、沢山縫てあげようと思まして、学校へ持つて行つたりして四百針ぐらゐ縫ひました。
中村 私たちの学校では、お金を寄付いたしました。それから裁縫学校、これは私どものお姉さまのやうになつてゐる学校ですから、千人針をよく頼みにいらつしやいます。それで大抵一日一枚ぐらいぐらゐづゝは、クラスを返して拵へることになつてをります。(中略)
高橋 私の学校でもお金を送りました。また生徒たちで手紙を書いて、慰問のために送つたことがあります。それに街頭で、千人針を頼まれて縫ひますし…。私たち五年生は、五黄の寅年が多いといつて持ち込まれますので、お遊びの時間は千人針を縫ふのが仕事のやうですが、皆もう我れも我れもと、我れ先きに一針でも余計に縫つてあげようといふ気持ちで、これは私たちとして嬉しひと思ひます。私たちのために働いて下さる兵隊さんのために、私たち女学生としては、これくらゐのことはもちろんするのが当然のことだと思ひます。(中略)
高木 私どもの学校では寄付金の箱を出しまして、一週間ばかり私たちのお小遣ひを割いて、それをためて陸軍省へ送りました。千人針も方々から頼まれましたんで、学校へ持つて行つて毎日々々、千人針が第一だか学校が第一だかわからんほどしてをります。道を歩いてゐても頼まれるなど、ほんたういへば面倒くさくなりますけれども、やつぱり日本のために働いて下さる兵隊さんのためだからと思ふと縫はずにはゐられない気になります。
短時間に千人針を仕上げるには、女学校は特に重宝されたことが分かるし、「五黄の寅年」生まれの女性の力が頼りにされていたようである。
昭和七年(一九三二)三月の『銃後の力』(海軍省教育局)に軍艦伊勢の乗組員に対しての家族からの手紙には、
昭和七年(一九三二)三月の思想研究資料号外『銃後の力(上海事変に際し伊勢乗員宛激励文集)』(海軍省教育局)には、軍艦伊勢の乗組員に対しての家族からの手紙が集められており、その中に千人針習俗について記載されたものが多く、銃後という言葉の定着と千人針習俗の関連性をうかがうことができる。
○姉より
此の度千人縫いを拵えました。紀元節の日に皆様の御厚志によって忽ちの中に出来上がりました。第一日には向山校の女生徒の方にお願いしました。皆んな『私ニモ縫ハセテ下サイ』とて順番を取って一針一針真心こめて縫って下さいます有様はほんとうに嬉しく感じました。御国の為だからとて「カヂカンダ手」に力を入れて一生懸命で御座いました。次の日は女学校へおとなりの佐々木の小母様が『宅ノ子供ハ今女学校ニ行ッテ居リマスガ彼ノ子ハ虎年生れですが』『女学校ヘイラッシャレバ皆サンガ嬉ンデ縫ッテ下サイマス』と仰って下さいました。御願いに参りました処先生も便宜をはかって下さいまして此処でも前日以上に熱心に縫って下さいました。此処には辰年生れや虎年生れのお方が多く「私ハ十七ヨ」と辰年の方が申され、虎年の方は「私ハ十九ヨ」と縫う針の数とりが大変で時ならぬ賑やかさで御座いました。中には『貴女十九モ縫うの』と言わるれば縫わるる御本人は『エエ私五黄ノ虎ト云ッテ一番ヨイノヨ、ソレニ愛国心ハ人一倍デスカラネ』ってとても皆様が心よく縫って下さいました。路傍の方にも少々御願いしました。けれど大部分はこうした力強い若いお方の手に依って出来上ったのが此の千人縫です。
辰年や寅年の女学生が年齢の数だけ縫ってくれたことが分かるが、寅年にのみ「五黄ノ寅」と説明している。
辰年や寅年の女学生が年齢の数だけ縫ってくれたことが分かるが、「五黄ノ寅」であるから特に多くの数縫ったわけではなく、一番良いからという説明がされる。
続いて江馬務が『風俗史研究』一四三号(昭和七年四月一日、風俗研究所発行)に「千人針のおこり」で五黄の寅について触れている。満州事変の千人針習俗を概観するように、風俗史、及び有職故実研究で著名な江馬務(―)が『風俗史研究』一四三号(昭和七年四月一日、風俗研究所発行)に「千人針のおこり」という文章を掲載している。前半では千人針習俗の起源について記し、それに続いて、当時の千人針習俗の特徴についてまとめている。
千針は戦死に通ずるといふので、近ごろ九百九十九、千一、千三針が用ひられるやうで、これは日本人の三とか九の奇数好みから来てゐるのでせう、糸も四子糸は、四が死に通ずるので嫌はれ、三子が神子に通ずるので喜ばれますがこれは徳川時代にはなかつたことです、糸の色はただ今緑を用ひてゐるが、昔は緑のほか青などいろいろの色を用ひました、近来勝色(藍)が縁起がよいので好まれます、糸を切るのは歯か手かいづれかがよいので、刀を忌むところから切れ物では切らぬことになつてゐます、また五黄の寅は強いので、今年は十九歳の女に縫つてもらうのが一番よいといはれ、しかも月経のある時が精がついてゐる意味から特によいといはれてゐます
昭和八年に刊行された『伝灯叢書 扉を開いて』(法蔵館)は、浄土真宗大谷派僧侶多田鼎(一八七五―一九三七)が信者からの問いに答える形式で、その中で千人針について解説している。昭和七年五月に寅年の女性から千人針の依頼に対して「是等の人々が余りに真剣なので断はりかねてゐます。」との相談である。それに対して多田は、まず千人針の始まりについて述べ、千人針は定着しており、協力するよう説得している。
千人針の初(はじめ)は、余り古い事ではありませぬ。日露戦役の頃、何処かで一人の老媼(おうな)が、千人の針で縫つて貰つた腹巻を、戦地の児か孫かに送りたいと思ひ立つて、其を人々に頼むでをる(ママ)、珍らしい思付だとの噂をきいてゐました。其が二三十年の間に、今のやうに盛に全国に行はれて来ました。(中略)静岡県の或町では、その高等女学校の校長が、之を迷信だとか申したといふ噂が立つて、其町の新聞では、校長を非国民だと罵りました。或処では之を冷評した者が、直(すぐ)に殴り倒されたやうであります。「千人針」の行はれゆく処に、国民の熱情が漲つてをる事は否まれませぬ。(中略)若し貴方に頼む者があらば、心をこめて、丁寧に縫つてやつて下さいませ。
千人針は、日露戦争の頃、一人の老婆の思いつきとの説を紹介し、二、三十年を経て全国的になっており、否定する人は「非国民」と罵られた事例を紹介し、心を込めて協力するようアドバイスしている。ただし、続いて迷信に左右されないように注意している。
されども私共は此の大切な贈物に迷信をこめてはなりませぬ。初めの間は、たゞ「千人の女」だけであつたのに、此頃になつて、寅歳の女に、其年の数だけ縫はせて、其余は誰にでも一針づゝ縫つて貰ふとか。猶ほ其上に縫ふべき処を印をつける事をば、御判を頂くと唱へ、最後に神官の祈祷を求めるとか、又其は鬱金の布にかぎるとか、様々な事をば新に加へて来ました。
追加された迷信は、寅年の女性は歳の数だけ縫える、神社でのお祓い、ウコンで染めた黄色布などとのこと。「縫手は一人でも二人でも、布は何でも、針の数は五百でも千でも、兎にかく其の腹巻をして剣や弾をよけさせるに効のあるやうに縫へば善い。(中略)御本願の念仏の御大行を行じつゝ、親切に縫つてあへなさいませ。」と真宗の考えに則ってアドバイスしている。
5、五黄の寅と厄年
五黄の寅についての説明は満州事変の頃に集中しており、流行などの関係があると考えられる。「五黄の寅年」と厄年の一致が関係していると思われる事例がある。大正三年(一九一四)生まれの戸塚静枝さん(東京都中央区人形町)に聞いた話では、「五黄の寅年」だから縫ったのではなく、厄年だったので縫ったとの証言があった。大正三年(一九一四)生まれの女性は、昭和六年(一九三一)の段階で、数えで十八歳を迎え、前厄にあたっていた。厄払いとして、この年齢の女学生が積極的に千人針を年齢分だけ縫うことを厭わなかった理由の一つであろう。
もともと、寅年の女性が満州事変の頃には、よく聞かれた事例であるが、日中戦争時には、五黄(ごおう)の意味が忘れ去られ(あるいは浸透せず)、ゴウ(強、あるいは豪)の寅年の強さにあやかる意味に転じ、寅年一般の女性が年の数だけ縫えるという俗信が一般化した。そのため、何故寅年かの説明ができなくなり、虎は千里走って千里戻ってくるとの説明がされるようになる。そのため、実像の虎が千人針に描かれるようになったと考えられる。満州事変以前の千人針の実物が少ないので、実証は難しいが、文献を見る限り、虎が描かれる千人針はそれほど古いものではなく、日中戦争以降に盛んに描かれるようになったと考えられる。
6、虎と千人針
日中戦争以降は寅年の理由として別の説明がなされるようになる。例えば、昭和十二年(一九三七)七月十七日付『読売新聞』には次のようにある。
また最近は五黄の寅の女の一針は、特に運が強いとか、普通は一針が原則だが、この歳の女は三十針でも差支ないなどと云っていますが、これは虎は千里行って千里帰るの云いならわしを、千人針に当嵌めたもので、深い根拠は勿論ありません
「虎は千里行って千里帰る」の説明の事例は、満州事変・上海事変までは見られず、「五黄の寅」という事例が先行しているが、こうしたメディアなどによる再解釈や意味づけにより新しい俗信が生まれたと考えられよう。
7、まとめ
ここまでの流れを筆者なりに整理してみると次のような仮説が立つ。「五黄の寅」という言葉がなじみが無くなると、「強の寅」と誤用され、寅年一般の女性を示すようになった可能性がある。聞き取りをしていても聞き取りをすると「ごうのとら」という言葉がよく聞かれ、意味は分からないという説明が付くことがあった。「運気の強い『五黄の寅』」から「気が強い『強の寅』」へ理解されるようになると、何故気の強い寅年の女性に年齢分だけ縫ってもらうのかの説明が不十分になり、寅年の女性の意味から転じて、虎の絵が千人針に描かれるようになり、その虎の説明として、「虎は千里を行き、千里戻る」という説明に転化していったと考えられないだろうか